激闘の幕明け①

 本田たちと東京地検副部長検事の東堂が、ホテルの部屋を出た十数分後、隣室から長身ブロンド髪の男が出てきた。SVRロシア対外情報庁工作指揮官ケースオフィサー、ユリアン・コンドラチェンコである。

 本田たちが会合していた部屋には盗聴装置が仕掛けてあった。ユリアンは全てのやりとりを聞いていた。

 作戦は順調に進んでいる。黒崎の失脚がCIAと江藤総理によって仕掛けられ、その意を受けた特捜検察が黒崎への国策捜査を行ったという事実に、本田は「こちらの思惑通り」たどり着いた。惜しむらくは本田が東日とうにち新聞を追われて小規模な月刊誌の契約ライターになっていることだが、記事のインパクトは大きい。後追いで大手メディアが動くことで大きな騒ぎになるだろう。

 江藤政権と検察の信用は失墜し、代わりに黒崎は「陰謀の犠牲者」として復権することになる。一つだけ気がかりなことがあった。東京地検の東堂が言っていた「黒崎が、ベゾブラゾフだけでなく反体制派とも通じている」という言葉だ。ユリアンには初耳だった。

(モスクワで俺が仕掛けた工作にCIAが、引っ掛かってくれているということか……)

 外相だった黒崎がモスクワを訪れた際、ユリアンはアリアンナを黒崎と接触させて、反体制政治家である「アニー」ビルデルリングが、北方四島返還の用意があるというメッセージを伝える場面を演出した。CIAはこの場面を見て、黒崎と「アニー」が関係を深めていると解釈したということなのか。

(まあ、勝手に誤解を続けているのならそれでも結構なんだが……)

作戦の順調な仕上がりを密かに祝して、ユリアンはホテル地下一階のバーでひとりビールを口にしていた。猛暑で夏バテ気味の体に冷えたビールが心地よく浸み込んでいく。

 そこへユリアンの背後から冷や水を浴びせるような言葉をかける者があった。流暢な日本語だった。

「特捜の検事が、あの記者たちに話したことが公になることはないよ。日本の捜査機関に我々が関わっていることでマスコミに騒がれるわけにはいかんのでね」

 気が緩んでいたのだろう。ユリアンが座るカウンター席の真後ろにあるスタンディングテーブルに声の主の男がいつ現われたのか全く気付かなった。

 初老のややしわがれた声。

 誰かは見当がついたが、背後をとられたことには臍を噛む思いがしていた。恐らく男は、懐に忍ばせたサイレンサー付きの拳銃でユリアンの心臓に狙いをつけているはずだ。

「よほど気分がよかったようだね、ユリアン・コンドラチェンコ少佐。きみには珍しく隙だらけだった。都内でお見掛けする時の動きは見事なものだと感心していたんだが。日本の諜報機関レベルの追跡ではとてもきみは捕らえきれないだろうとね」

 さりげなく店内の様子をうかがうと三つあるボックス席に、合せて十人の男たちが散らばって座っていることが分かった。いずれも屈強そうで殺気が漂っている。まともにやりあえる状況ではない。ユリアンは降参するというサインのつもりで、ビールグラスを持って両手を上げた。

「あきらめのよさもプロらしくてよろしい。私の話を聞いてくれるようだな」

 ユリアンはグラスをテーブルに置き、振り返ることなく背後の声の主に英語で問いかけた。

「もちろんです。ミスター『イーグル』。さて、この哀れな囚われ者に一体何のご用件でしょう? 」

 背後で『イーグル』が笑って鼻を鳴らすのが聞えると、クイーンズイングリッシュに近い発音の東海岸・米語が返ってきた。

「今回の作戦は、貴国ロシアと合衆国との友好関係を大いに損なう恐れがある。我々としては貴国との友好を強く望んでいるのだ。だからここで作戦を中断してもらいたい。それと、今回の作戦は、SVRロシア対外情報庁長官の正式な決済を受けたものではない。きみの育ての父親が子飼いにしている国境警備隊と在日ロシア大使館だけで進めているものだ。このままだと貴国にとって極めて深刻な災厄をもたらすことになる」

(やはり、そうか……)

 ユリアンは大きく頷いていた。

 育ての父——ミシチェンスキーが主導する今回の作戦。確かに対ロ協力者である黒崎昭造を救う意味は分かるが、同時にCIAの工作を暴くことはアメリカを敵に回してしまう。欧州だけでなく極東・日本でもアメリカとの関係を悪化させるのは現状では得策とは思えない。SVRがよくこんなリスキーな作戦を認めたものだと不思議に思っていたが、やはりミシチェンスキーの「単独犯」だったのか。

「黒崎昭造への国策捜査がCIAわれわれと江藤総理が仕掛けたことが明らかとなり、それをメディアにリークしたのが、きみたちロシアの工作員だということが分かればどうなる? 『二島返還』がどうなるどころではない。貴国ロシアが北方領土交渉を口実につなぎ留めておいた日本との友好関係もご破算だ。経済援助も望めなくなる。欧米と日本からの全面的な制裁を受けて貴国は経済危機に陥ることになる。それが『極めて深刻な災厄』というやつだ」

(おもしろいじゃないか……)

 イーグルに背中を向けたまま、ユリアンはにんまりと笑みを浮かべた。

(愛するアリアンナを奪ったロシアという国家への忠誠心などすでに失せている。ミシチェンスキーに泣きつかれて渋々引き受けた作戦だったが、この作戦がロシア国家を締め上げることになるなら、何としてでもやり遂げてやろうじゃないか。俺の復讐のために——)

 気分の高ぶりを感じたユリアンは、再び大きく何度もうなずいた。

背後からイーグルがため息をつくのが伝わってきた。ユリアンの反応を肯定的なものと捉えて安堵したようだった。

「いやに物分かりがいいじゃないか、少佐。GRU連邦軍参謀本部情報総局と比べてスマートな人材が目につくSVR対外情報庁の中では珍しく武闘派との評判だから一戦交える覚悟もしていたんだが…」

 ユリアンは初めて背後を振り返った。正面からは頭頂部が薄いのかは分からないが、やや伸びた白髪に痩せぎすで細長い顔。アイスブルーの瞳を爛爛と輝かしながら、とうに七十を過ぎたと思しい男が不敵な笑みを浮かべていた。手元には白いフェードラハットが置かれ、サイレンサー付きのベレッタM9が銃口を向けていた。

「あんたの言っていることを鵜呑みにしたわけじゃない。まずは本当かを確かめてから、次の身の振り方を考えようと思っている」

 イーグルは暫し黙って様子を伺っていたが、ユリアンに抵抗の意思がないことを察して、ベレッタM9をスタンディングテーブルの上に置いた。

「賢明な判断だ。CIAわれわれからの通報で、この作戦を知ったSVR本部からミシチェンスキー氏には中止の指令が出ているはずだ。間もなくきみにも伝えられるだろう。

 まあ、秘書が自殺してくれたおかげで、捜査が手詰まりだった検察も黒崎から手を引く口実ができたし、黒崎も刑事被告人になる恐れはなくなった。お互いに痛みわけということで、ここらあたりが手の引きどころと思うがね」

(何が痛み分けだ…。CIA貴様らと江藤は何も傷つかず、黒崎は失脚した。自殺した女性秘書や貿易業者の死は無意味なまま葬られてしまう。このままで済むと思うなよ……)

 イーグルに微笑みかけながら、ユリアンは内心、闘志を燃やしていた。

CIAおたくたちの工作を知ったあの記者たちと内部告発した検察官はどうするんだ? 」

「私どもの方で始末しておきますよ。それで何もなかったことになる。そう、何もなかった。それが貴国と合衆国にとって共通の利益になると思いますからね」

 イーグルは、アイスブルーの瞳を輝かせながら冷ややかな笑みを浮かべた。

——それでいいよな、ロシアの坊や。文句は言わせないぜ—— そんな囁きが聞こえてきそうな眼光だった。まともに見返してはこちらの闘争心を気取られる。ユリアンは慌てて視線を避けた。

 ユリアンが怯えたものと見たイーグルは鼻で笑うと、ベレッタM9からサイレンサーを取り外して薄いグレーのスーツの懐に仕舞い、白いフェードラハットを手に取って店を出た。ボックス席にいた男たちも後に従っていく。

 男たちが出ていくのを見届けたユリアンは再びカウンターに向き直ってビールグラスを手にした。

(次、あの連中に会うときは実戦だな……)

 ユリアンはグラスに残ったビールを飲み干した。すっかり温くなって苦みが強くなっている。酔いが覚めた頭でユリアンは、イーグルが率いる工作分隊を殲滅する戦いをシミュレーションし始めていた。


「見た目より重いもんじゃないですから大丈夫。さぁどうぞ」

 本田の前に立っている祖母の輝子に、温厚そうな六〇歳くらいの男性が長さ二メートルほどのプラスチック製の竿を手渡した。竿の上部、三分の一ほどには日の丸が結わえつけられている。男性は、輝子の後ろに立っていた本田にも声をかけてきた。

「やぁ、付き添いの方ですか。ご苦労様です」

 はぁ……と言いながら、あいまいに頷く本田にも日の丸を結わえた竿が手渡さられた。受け取った人から順に三列縦隊で、第一鳥居の前で待機することになっている。背後からは九段坂の国道沿いに詰めかけた右翼団体の街宣車からのアジ演説が聞えてくる。時折、交通規制に当たる警官の鳴らす笛がけたたましく響きわたっている。

「日の丸を担いで歩くなんてオリンピックの代表選手か、ああいう団体のお兄さんたちの領分だと思っていたけど、随分、普通の人たちにも敷居が低くなったもんだねぇ」

 右翼の街宣車と、竿の先の日の丸を交互に見ながら、輝子はため息交じりに独り言を吐いた。どうにも場違いな所に紛れ込んだようで落ち着かないらしい。

「では、皆さま。第一鳥居まで行進します。胸を張り、背筋を伸ばして歩きましょう! 」

 日の丸を渡す手配をしていた男性の合図で『海ゆかば』のカラオケ曲が流れ始めて、「大和フォーラム」主催の合同参拝の参加者たちは三列縦隊で前進を始めた。その数は百二、三十人ほどになるだろうか。一人一人は、普段着の老若男女だが一斉に日の丸を翻しながら歩く姿には近寄りがたい威圧感が漂っている。周囲の人々は道を開けて好奇の目を向け、スマホのカメラで撮影する人も少なくない。

 終戦の日、八月十五日に東京・九段の靖国神社で江藤総理の支持団体「大和フォーラム」が、江藤政権の誕生以来毎年行っている「日の丸行進」。そこに今年、新たに加わった一団があった。千島列島居住者協会(千島協会)の理事たちだ。いずれも七十代後半以上の高齢者ため付き添う家族も少なくない。本田も祖母の輝子の付き添いで参加していた。

 東京の夏の陽射しは、普段は北海道で暮らす老人たちに容赦なく降り注ぎ、本田と輝子の周囲でも歩き始めてすぐに息が上がっている者がいた。本田と輝子の前の列では理事長が顎の上がった状態で荒い息で歩いていた。理事長には心臓に持病があると輝子から聞いてはいるが、「大和フォーラム」からの靖国神社参拝依頼を率先して引き受けた手前、無理をしているようだ。

ひと月前、政府から「二島返還決着」という北方領土交渉方針の変更が伝えられた後、千島協会は、正式に政府方針への支持を表明した。

すると今度は「大和フォーラム」からの接触があった。終戦の日の靖国神社への参拝と、その後に行う憲法改正を訴えるデモへの参加を求められたのだ。

千島協会への国庫補助を差配しているのは沖縄・北方担当大臣だ。担当大臣は「大和フォーラム」のメンバーであり、江藤派に属している。今後、「大和フォーラム」と行動をともにするのであれば、国庫補助にも融通を利かせよう——という担当大臣からの声がかりが千島協会の理事長にあったらしい。

 「大和フォーラム」と行動をともにするということは、江藤総理の支持団体の一角に加わったことを意味する。総理は、北方領土元島民の支持を得て領土交渉を行っている——そうアピールするのが「大和フォーラム」が千島協会に接近したねらいだった。

 正午時過ぎに、東京都内の気温は三十五度を突破し、猛暑日となった。

「大和フォーラム」主催の憲法改正要求デモは、午後一時過ぎに始まったが、千島協会の理事長をはじめ主だった高齢の幹部たちは熱中症の恐れがあるとして参加を見送った。

代わりに本田をはじめ付き添いで参加した家族が、会ののぼりや横断幕を持ってデモに加わることになった。政府方針への協力に反対していた輝子だったが、『理事が誰もいなくなるわけにはいかない』と言って、本田とともにデモに参加していた。

「憲法九条第二項を改正して、自衛隊を軍隊と認めろー!」

「自衛隊を国軍化して中国や北朝鮮から日本を守れー!」

 大和フォーラムの会員たちは大きな声を上げているが、本田と輝子たちは、「一刻も早い日ロ平和条約締結を!」と書かれた横断幕を持って俯きながら歩き続けた。改憲運動のグループに突如、加わったことで、千島協会の会員と家族たちはメディアの取材攻勢にもさらされた。

「いつから江藤総理の支持団体になったんですか? 」

「もう、四島返還は諦めたということですか? 」

「千島協会は、今後、保守党を応援するんですか? 」

 テレビ、スチールのカメラを従えた記者やリポーターたちが次々とマイクを突っ込んできた。理事長がいない中、急な問い掛けにどう答えたものか分からない千島協会の会員たちは、ただ黙々と歩き続けるしかなかった。

本田もメディアのスクラムを押しのけ続ける中、すれ違いざまに何人かの記者たちが舌打ちしたのを耳にした。

(変節したと思われても仕方ないだろうな。俺が取材する側ならそう思う。確かに、領土交渉の方針に協力するからと言って、ここまでのことをする必要があるのか? これが本当に元島民と家族が望んでいることなのか? )

 三十五度を超える暑さと八十パーセント近い湿度の中で、混乱していく思考。吹き出す汗が上下の衣類に不快感とともに染みわたっていく。その後二時間近く、国会周辺を練り歩き続ける中で、本田は次第に意識が朦朧とし始め、頭の中が真っ白になっていくようだった。

午後五時頃、日比谷公園でデモが解散になった後、緊張の糸が一気に切れたのか輝子が頭痛を訴え始めた。急性の熱中症の恐れがあると見た本田は、輝子を連れてタクシーに飛び乗り、虎ノ門にある病院の救急外来へ駆け込んだ。

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