告白の時④
フロアの天井までを覆うガラスからは東京駅ホームの夜景を見下ろすことができた。景色には薄っすらと霧がかかったように見える。東京駅丸の内北口に隣接するホテル七階にある「シガーバー」。霧のように見えたのは、強い芳香とともに店内に広がる葉巻の煙だ。
煙草と酒が数少ない道楽である東堂啓介にとって、お気に入りのハバナシガーとシングルモルトのスコッチをリザーブできる店での時間は心から寛げるひと時だった。ガラステーブルに向き合って座る初老の男とはハーバードロースクールへの留学時代、「葉巻とウイスキー」という共通の趣味を通して親しくなった。
男は母親が日系二世ということで日本語は流暢だったが、目の色は父親の遺伝子を受け継いだらしくアイスブルーだった。十五年ほど前に知り合った頃、ロマンスグレーだった頭髪は、最近では真っ白になり、頭頂部はかなり薄くなってきた。
最初、東堂がボストンのシガーバーで声をかけられた時、男はロースクールの歴史編纂室で働く「窓際」だと自己紹介した。店で顔を合わすたび、男は第二次世界大戦から米ソ冷戦下の「諜報史」の講師を買って出た。話は共産主義の脅威から日本を守るアメリカの戦略の中で、公安警察や検察がいかに大きな役割を果たしているかに及び、東堂の中にある「愛国的な資質」に火を点した。今にして思えば、
男の本名は、東堂も知らない。
「しかし、ケイスケ。きみの職場も世間の風当たりが強くなって大変なようだな。同僚たちがやらかした不祥事のとばっちりで」
ことし四月のある夜、『イーグル』は東堂を東京駅近くのホテルにあるシガーバーに誘った。日ごろの心労を慰めたいから、ということだった。
二〇一〇年に起きた大阪地検特捜部による厚労省幹部に対する調書改ざん事件以来、特捜部こそ冤罪を作り上げる諸悪の根源だというバッシングが続き、政府内では、組織の縮小や解体の議論が続いていた。
「私としても『教え子』が苦境に立たされているのを黙って見ているのは忍びないと思っていたんだ。何か役に立てることはないかと考えて今夜はお誘いしたのだよ」
『イーグル』は、イギリスやアイルランドの酒は煙臭いと言ってバーボンしか飲まなかった。その夜も、ジャックダニエルをちびちびやりながら、ハバナシガーを燻らせていた。東堂も『イーグル』からの誘いに、日照りに慈雨を得られることを期待した。これまでもイーグルから受けた指示を元に進めた捜査で、大きなヤマを当ててきたからだ。
二〇〇〇年代末、リーマンショックにともなう世界的な金融危機に対して有効な経済対策を打ち出せなかった保守党は下野し、代わって憲政党政権が誕生した。憲政党政権は、保守党政権下でアメリカが日本に要求してきた経済規制の緩和や貿易自由化など一連の構造改革に抵抗するスタンスをとった。
一方で、東京地検特捜部は「反構造改革路線」の旗振り役になった憲政党議員たちによる汚職事件を次々と摘発した。
中でも党代表を辞任に追い込み、現職衆院議員の逮捕に至った建設業界からの一億円違法献金問題は、東堂が『イーグル』からの情報に基づいて捜査を進めたものだった。議員や秘書への長時間に及ぶ取り調べなど強引な手法への批判もあったが、一億円の献金は事実であり、特捜部の評価は上昇。東堂も昇進の機会を得た。
やはり、特捜検察のよって立つところは「巨悪を眠らせない」という言葉に尽きる。調書改ざんなどで失った信頼を取り戻すには何らかの「巨悪」を摘発しなければならない。端的に言えば獲物になる大物政治家が必要だった。たとえそこにアメリカの意図が反映されているにせよ。果たして、『イーグル』は新たな獲物を東堂に示してくれた。
「クロサキ・ショウゾウ。今度新たに外務大臣になった男だよ」
「黒崎? 」
東堂にとっては意外な名前だった。反構造改革派でもなくこれまで汚職とは無縁だった男だ。強いて言えばロシアに近く、エージェントになっている可能性はある。
しかし、ロシアに食い込んでいるからこそ北方領土交渉を進めるために江藤総理が外相に引っ張ったのではなかったか。
それに、対ロ接近という点では、アメリカにとっては江藤総理のスタンスそのものが警戒すべきところがあるように思われる。なのになぜ、CIAは黒崎だけをターゲットにしようというのだろうか?
「ウクライナから手を引かないベソブラゾフ大統領の姿勢は、我が国としても警戒すべきだとは思っている。だがね、我が大統領閣下は、かなり『ベゾ』氏がお気に入りなんだ。なんせご自分の当選に、かの国が関わってくれたことを大変恩義に感じておられるんだよ。
それに欧州でロシアに対する緊張が高まった方が、NATO諸国に武器を買ってもらえるメリットもある。ロシアが少々ウクライナやモルドバあたりで悪さをしようが大目に見るというのが大統領閣下のお考えなんだ」
不動産ビジネスで財を成し、事あるごとに自国第一主義を叫ぶ現職アメリカ大統領のビジネスライクな手前勝手さに、東堂は内心あきれ返っていた。特にロシアに対する無責任なスタンスが先々大きな危機を招かないだろうか、という考えが頭を過る。
「従って大統領お気に入りのベゾ氏との関係を重視する江藤総理の行動も何ら問題はない。ただ、黒崎氏は事情が違っている。ロシアに深く食い込んでるだけあって関係を築いているのはベゾ大統領だけではない。敵対勢力とも。いやむしろ、反体制派との関係が深くなっていると私たちは分析している。こういう黒崎氏のスタンスは我が国の利益とは相反することになるわけだよ」
「黒崎が、ロシアの反体制派とつながっていることや、それでアメリカに睨まれていることを江藤総理は御存知なんですか? 」
「無論だ」
「じゃあ、そういう黒崎をあえて入閣させて、領土交渉に当たらせている江藤総理のねらいというのは? 」
「野党が弱体化して保守党内でも一強体制を築きつつある中で、ただ一人、江藤総理に対峙するだけの人望と実力を備えているのが黒崎だ。来年の総裁選では間違いなく対抗馬になるだろう。その前に、黒崎の信用を失墜させる必要がある。せっかく抜擢したのに、贈収賄事件で職を追われる。つまり、『上げて落とす』というやつだ。これほど政治家としての信用を失墜させる術はない。かくして、黒崎昭造の失脚という点で、我が国と江藤総理の利害関係は一致したというわけだ」
話し終えた『イーグル』はハバナシガーに口をつけて吹かしながら煙を吸い込むと、愉悦に浸った表情で煙を吐き出していた。
「なるほど。特捜部は、毎度よろしくCIAから恵んでもらったエサに食いついたというわけですか」
ある程度予想していたこととは言え、CIAと江藤総理の共謀を告白した東堂に対する本田の口ぶりは剣呑なものになった。感情を露わにした本田を手で制して、矢吹が問いを続けた。
「特捜さんとしては起死回生を期されたわけでしょうが、食いついた黒崎のヤマはこれまでとは違っていたということでしょうなぁ」
東堂は苦虫を嚙みつぶしたような表情になった。
「突っ込めば突っ込むほど何も出てこなかった。今度ばかりは、CIAと江藤総理の計略に利用されたということがだんだんとわかってきたよ。だけど、俺を信じて着いてきた部下たちに捜査には黒幕がいて、俺たちは騙されて利用されていたと言うわけにもいかなかったんだ」
「すると、黒崎の秘書の河田美幸が自殺して、国後事件の公判が中止になったこと。それで事件も幕引きになりそうなことは特捜さんとしては、大助かりということになりますな? これ以上傷口を広げないためには? 」
東堂は苦悶の表情のまま暫し押し黙った後、消え入りそうな声で語り続けた。
「今度ばかりは俺たち、特捜部という存在が空恐ろしく感じられたよ。あまりにも時の権力に利用されやすい危うさを抱えている。
じゃあどう変えていけばいいのか。青写真は俺にもない。だけど、今の特捜部のあり方だけは変えなくてはならんと心から思っているよ。このまま罪のない人たちを、いつ犯罪者に仕立てあげるか分からない組織であるよりはな」
東堂の話は、特捜部が抱えた組織の病理を切実に訴える内部告発になる——怒りが沸々と湧き上がる一方で、本田は取材内容のスクープ性を冷めた目で評価していた。
東堂の内部告発が表に出ることは、江藤政権にとって大きな打撃となり、同時に「二島返還決着」を軸にした北方領土交渉にも影響が出るだろう。
だが、「二島決着」の頓挫は、元島民たちにとって本当に望ましいことなのだろうか。
現に千島協会は、内閣府での説明会以降、江藤政権の方針を支持することを公に発表しており、歯舞群島や色丹島出身者からは「二島決着」に期待の声も上がっている。そうした期待をこのスクープは挫くことになりはしないだろうか。
体内を流れる元島民の血のせいだろうか。本田は逸る気持ちの一方で、掴んだ事実を報道することに迷いを感じ始めていた。
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