告白の時③

 本田は真鈴を神田駅近くのビジネスホテルに送った後、「月刊セレクト」編集部のある神田神保町へ向かった。着いたのは夜九時過ぎだった。翌月分の締め切りが迫っているせいか、残業しているスタッフが目につく。

 本田が来たことに気づいた矢吹は、手招きして別室へと誘った。普段は編集会議を開く会議室だ。矢吹は部屋の灯りをつけると、「コ」字型に並んだテーブルの一番奥まで足早に進み、脇に抱えていた二つの茶封筒をテーブルの上に置いた。

「東京地検の昨年度分の公安調査活動費の帳簿や。表と裏二つある。検察庁や法務省の幹部が税金を横領して、てめえたちの飲み食いや遊興のために使った動かぬ証拠。公表されれば日本の検察を吹っ飛ばす『爆弾』や。まぁ手に取って確かめてみいや」

 蛍光灯に照らされた額をギラつかせながら、矢吹は満面の笑みを本田に向けた。本田自身も驚いていることは自覚していたから余程、表情に出ていたのかもしれない。矢吹は、こちらの顔を覗き込むと声を立てて笑い始めた。

 矢吹の笑いに不快さを感じながらも、本田は封筒から取り出した書類の束を手にとって読み込むうち、内容に夢中になった。表帳簿に添付された調査活動の経費請求書と、裏帳簿に添付された高級料亭やバー、ホテル、ゴルフカントリークラブ等からの請求書は、支払いの日付と金額がぴたりと一致している。しかも、裏帳簿には会合やイベントの参加者名も記されており、その中には法務省や最高検察庁の高級幹部の名前も目につく。何よりも裏帳簿が「公文書」であることを示す証拠として、表紙には、東京地検の「事務局長印」と「公安事務課長印」が押されていた。経費の総額は、一億数千万円に達している。

「公安関係の調査費がこんなに膨らんでいたのも驚きだし。尽く裏金として流用されていたなんて……」

「日本を取り巻く安全保障環境は急速に悪化しています。中国、北朝鮮、ロシア等の活動には一層の警戒が必要です……もっともらしい御託を並べながら、実のところは税金を食い物にしとったということや。これを叩きつければじゅうぶん特捜部にも脅しをかけられる。黒崎への国策捜査の真相にも迫れるはずや」

確かに、この「裏金帳簿」は東京地検に、何らかの取り引きを持ち掛けられるだけの脅しが効くブツだ。だが、どう考えてもまともな手段で手に入る代物ではない。

「どうしてこんなものが急に手に入ったんだ? 」

 本田が不信感をあらわにしたことに、矢吹も笑いを引っ込めて緊張した面持ちになった。

「検察の中にも情報提供してくれる協力者はおる。上層部の腐敗を憂えておる連中がな。いわば〝憂国の士〟や。その志は何としても生かしてやらんとな」

 矢吹はあくまで内部告発だと言いたいようだが、とても信じられなかった。これほどの極秘資料を下っ端の事務官などが手に入れられるはずがない。流出するとしたら、書類の管理者……さしずめ文書に印鑑を押している事務局長か、公安事務課長。或いは会計課長あたりからだろう。そんな幹部連中が組織の信用を地に落とすようなものを簡単に流出させるわけがなかった。よほどの弱味でも握らない限りは。

 まあいい。どんな汚い手を使ったにせよ、せっかく手に入れたものを有効に使うにこしたことはない。だが、その使い道について本田は思うところがあった。

「なあ、矢吹。大スクープを打てるこれだけのブツが手に入ったんだ。どうせなら、東京地検との取り引きなんかに使うより、まずは取材したうえで記事にして、検察のあり方を問うキャンペーンを展開すべきなんじゃないか」

「何やと? 」

「俺はな。CIA、或いは江藤総理が、黒崎昭造の失脚を図ったという陰謀を暴くこと自体に、疑問を持ち始めているんだよ」

 本田は、黒崎の秘書・河田美幸が自殺に至った経緯を矢吹に話した。

「俺は、黒崎が守るに値する政治家だと思ってきた。でも今はそうは思えない。あの男は保身のために、人ひとりを死に追いやったかもしれないんだ。それもダウン症の子どもを持つシングルマザーをだ。それは決して許されることではないと思うんだ」

 矢吹は目を閉じ、腕を組んで黙考した。

せっかくスクープを打てる資料が手に入ったのなら記事にするべきだ。スクープを犠牲にしてまで黒崎を救う意味がどこにあるのか——記者としては真っ当な言い分だと矢吹も思ったようだ。

 暫し沈黙が続いた後、矢吹は口を開いた。

「お前の言い分もよう分かる。そやけどな、黒崎昭造があくまで北方四島の返還をめざすというんやったら、やっぱりそういう政治家を生かすことは、日本の国益を守ることなんやないかと俺は思うんや」

「国益だって? 」

 どちらかと言えばスキャンダル志向が強いと思っていた矢吹からそんな言葉が出てきたことが本田には意外だった。本田の反応に矢吹も幾分顔を赤らめて、鼻の頭にかいた汗をぬぐっていた。

「いかがわしい雑誌記者が国益やなんて、と大新聞にいたお前は思うかもしれんやろうけどな。でも俺かて、日本という国にとってマイナスにしかならんことが進められようとしてるのを黙って見ているわけにはいかんという思いはあるんや。

 江藤が言うとる一九五六年の日ソ共同宣言を基礎にした〝二島決着〟は、この先恐らく頓挫するやろう。しかも、ベゾブラゾフからは散々経済援助を引き出された末にな。日本外交史上に残る大失敗になるやろう。自分のレガシー作りとやらのためにそんなアホなことをやっとる奴が、四島返還の原則を守ろうとする黒崎昭造を失脚させるというのはやっぱり間違うとると俺は思うんや。

 確かに黒崎も悪党やろう。自分の地位を守るために秘書を自殺に追いこんだのかもしれん。そやけど、黒崎が国益を守ろうとしている以上、CIA、或いは江藤が追い落としを図ろうとしたことは許されることではないはずや」

 次第に矢吹の口調は熱を帯びていき、本田も聞き入っていた。

「いずれ、秘書の件については黒崎にも落とし前をつけさせたらええ。でもまずはCIA、恐らくは江藤も絡んどるであろう陰謀を暴くことが先決なんやないか? このまま北方領土を抵当かたにとられてこの国の富を巻き上げられるのを黙って見ているよりは。千島協会の人らが悔し涙を流し続けるのを眺めているよりはな」

 本田の脳裏に、祖母の玉井輝子や千島協会の老人たちの姿が浮かんだ。そして、父親の古河恵雄けいゆうを殺され、今は根室で漁師をしている祖父の恵作に預けられている娘、古河美咲のことを思った。

(そうか。黒崎個人のためなんかじゃない。婆ちゃんをはじめ、故郷を追われた人たちのため。北方領土のせいでこれ以上日本の富が損なわれないためか。それに、(古河)恵雄が、なぜ殺されたのか。その真相も解き明かさなければならないんだったな……)

 緊張感を漲らせた矢吹の顔を見つめながら本田は大きく頷いた。

翌朝、本田は東京地検特捜部あてに「公安調査活動費」の表帳簿と裏帳簿のコピーを、一通の手紙を添えて郵送した。手紙の主旨は、「国後島太陽光発電施設」をめぐる贈収賄事件ついて、河田美幸秘書を取り調べた検面調書が、どのような経緯で作成されたのか話を聞きたいというものだった。明確な回答がない場合は、表帳簿と裏帳簿の存在を雑誌紙面において公表するとも記されていた。

こちらの知りたいことに答えなければ裏金作りの帳簿を公表する——特捜検察に対する事実上の脅迫状だった。


 脅迫状に対する東京地検特捜部の反応は早かった。投函から二日後、黒崎関係の事件の捜査を指揮する特殊直告一班班長・東堂啓介副部長検事から手紙に記したGメールアドレスに返信が届いた。東堂からのメールには、『自分一人でうかがうので、話し合いの機会が持ちたい』記されていた。

 矢吹の指示で、本田が東堂との面会場所としたのは紀尾井町にある高級ホテルのスイートルームだった。部屋にはキングサイズのダブルベッドが置かれ、壁には抽象絵画が飾られている。

 外国人の利用者が多いのでサイズも大きいわけか。或いは、小金持ちの狒狒ジジイどもが若い女と訳ありな逢引きを楽しむためのものか。刻限よりも少し早めに到着したせいか、余計な雑念が本田の頭を過った。

 約束通りの時間に東堂は一人で現われた。やはりテレビの記者会見で見た白髪が目立つ顔色の悪い男だった。見た目ほど年齢はいっていないようだ。有能なのだろうが上層部と現場の板挟みに合うポジション。のしかかるストレスのほどがうかがえる。

「ほう、見たところ堅気そうな人たちだな。特捜検察に脅しをかけるにしては」

 東堂は、薄ら笑いを浮かべて本田と矢吹の顔を見回した。だが、目は笑っていない。必死でこちらの反応を探ろうとしている。取り調べの達人にしゃべらせておくとペースをつかまれてしまう。本田は東堂の発言を封じるように、敢えて威圧的に声を大きくして話し始めた。

「こちらの用件は手紙に書いたとおりです。国後島事件の検面調書をどうしてあんな強引なやり方で作ったのか。そもそも日ロの領土交渉が進んでいるこの時期に、なぜねらいすましたように黒崎昭造関連の強制捜査に乗り出したのか。理由をうかがいたい」

 言葉を継ごうと思った出鼻を挫かれた東堂は、苦笑いしながらため息をついた。

「あまり高飛車に出るのはどうかと思いますがね。私たちを敵に回すということは検察に止まらない。日本の司法、警察すべてを向こうに回すことになるんですよ。もう少し冷静に状況を理解してみてはどうですかね? 」

「その言葉はそっくりお返しますよ。日本の司法、警察の信用が私たちの胸先三寸で、一気に地に落ちる状況にあることをお忘れなく。それと東堂さん。調べさせていただいたが、あなたは警察庁に入庁後、ハーバードロースクールに留学して、在米大使館にも勤務されていますね。CIAラングレーにもさぞお知り合いがおられるかと思いますが……」

「何をおっしゃりたいんですかな? 」

「はっきり申し上げましょう。黒崎への国策捜査をあなたに指示したのは、CIAですか? それとも官邸? 」

 再び、東堂は苦笑いを浮かべた。

「何のことやら、と答えるしかないですね」

「それにしても、えらいガセネタをつかまされて大変ですなぁ~あなたのご苦労には心から同情しますよ」

 今度は本田に代わって矢吹が妙にしんみりとした口調で話し始めた。

「そもそも外交族であまり利権には縁のない黒崎昭造を汚職さんずいで上げようというのが無理筋ですわな。せやけどそれだけに注目度は高くなる。立件できれば検察の捜査能力に対する評価は確実に上がる。度重なる不祥事で失った信頼の回復にもつながるかもしれん。まぁ、上層部は躍起になったでしょうな」

 矢吹が話す一方で本田は、東堂の観察係に回った。相変わらず苦笑いを浮かべたままだが、目元が微妙に痙攣しているようだ。内心の動揺がうかがえる。矢吹のかけたカマが、東堂の心の襞にひっかかっているようだ。

「国後島の案件は、女性秘書を長時間拘束して人権問題になりかねないギリギリのところで何とか公判にまで持ち込めた。でも、そこまでやった。

網走港や日高の山林開発についてはいくら調べても何も出てこうへん。とは言え、一度振りあげたこぶしを簡単には下げられんでしょうからな。もはや間違いが許されへん特捜部としては。そんな心労が絶えないところへ今度は、上層部による裏金作りの再燃や。あなたとしては、何ともやりきれへんかったんとちゃいますか? 」

 東堂は微笑を浮かべたままだが、顔を上に向けて天を仰いだ。心持ち目が潤んでいるようにも見える。

「私らが送りつけた裏金帳簿を見て、あなたは激しい怒りを覚えたはずや。俺たちが必死で捜査の突破口を開こうとしているのに上層部は一体何をやっとるんやと。現場の努力を全く無に帰しかねない腐敗ぶりに、ほとほと嫌気がさしたんとちゃいますか? あなたが一人で来ると返事を寄越したことで私は確信しましたわ」

腕を組み、天を仰ぎながら話を聞いていた東堂は、矢吹の言葉が途切れると真正面を向いた。顔にはもう笑みは浮かんでいなかった。

「お宅たちは黒崎代議士への捜査を、何としてでも『国策捜査』だと私に言わせたいようだが、私があくまで違うと言ったら? 」

「裏金帳簿が表に出ることになりますね」

「たとえ国策捜査でないことが事実であってもかね? 裏金帳簿を世間に公表すると脅して、私の言質を取るというやり方は、都合のいい事実をねつ造することになるとは思わんのかね? 」

 宥め役の矢吹に代わって、今度は、本田が口を開く番だった。

「じゃあ、網走港や日高の山林開発をめぐる案件で逮捕された経営者連中が証拠不十分で釈放になった後、捜査が中断しているのはどういうわけですか? 本当に特捜は贈収賄の事実をつかんだ上で黒崎の関係企業を捜査したんですか? その疑問に検察は何も答えてはいませんよ」

「捜査は終わったわけではない。再開に向けて目下方針を検討中だ」

「再開はいつです? どんな事実を掴まれてるんですか? 」

「捜査の機密を口外することはできない」

「あなたの言う通りだとすると、我々としては黒崎代議士関連の捜査は証拠不十分なまま着手されて、目下再開の見通しナシと報道するしかないですね。特捜の捜査能力への信頼は大いに揺らぐことになりますよ」

 再び東堂は腕を組み、天を仰いで目を閉じた。さらに畳みかけようとした本田を矢吹が肩に手をかけて制し、穏やかに話し始めた。

「東堂さん。私らの目的は検察の信用を落とすことやない。とにかく真実を伝えたいと思うとるんですわ。今回の黒崎をめぐる捜査が何で行われたのか。そこにはどんな力が働いたのかをね。この事件をめぐっては黒崎の秘書が自殺に追いこまれている。いや、国後事件の前に起きたロスコモスコイ疑惑の件でも、黒崎をかばっていた会社経営者が殺される事件も起こってる。こうした犠牲者に報いるためにも、政治の力で捜査機関の動きが左右されるようなことがあってはならんと私らは思っているんです。だからあなたには何が特捜検察を動かしたのか、真相をお話しいただきたい。私らが公安調査活動費の裏金帳簿を何とか手に入れて、あんな脅迫まがいの手紙を送り付けたのはそのためですわ」

 東堂は目を閉じて天を仰いだまま押し黙った。

(迷っている……黒崎への捜査の真相を話すべきかどうか。つまり、事実上、『国策捜査』を認めたということだな。あとはどう口を開くかだ)

 それまでまくし立てていた本田もここは黙って、東堂の反応を待つことした。

 数分の間を置いて東堂が口を開いた。

「黒崎をめぐる事件の真相を俺が語ることに何の得があると言うんだ。俺にとって。特捜検察にとって。裏金問題が明らかになるのと同様、どっちにしても検察の信用はまた地に落ちる。特捜は、政治の力で動かされたということでな。部下たちの努力は報われることなく、さらなる汚名だけが残る。そうじゃないのか?」

 特捜の捜査指揮官が、『国策捜査』の事実を告白した瞬間だった。本田のスマホのレコーダーアプリは間違いなく音声を記録したはずだ。

東堂の苦し気な問い掛けに、矢吹は穏やかな笑みを浮かびながら答えた。

「特捜幹部のあなたが、捜査をした本人が、黒崎の事件は国策捜査だったと告発することが大事なんじゃないでしょうか。それで世間の見方は変ってくる。検察にも自浄能力はある。組織を変えようという人間がいるということは示せるんじゃないですか。少なくとも現場の特捜検察官には希望を持てると、国民は感じるんじゃないですかね」

 暫し俯いていた東堂は本田と矢吹に向き直ると、『煙草を吸っていいか』という素振りを見せた。禁煙部屋ではない。本田はどうぞと促した。東堂はセブンスターを一袋、背広のポケットから取り出して百円ライターで火をつけた。

「俺は組織の裏切り者ということになるな。永遠に」

 それまで張り詰めていた東堂の表情に、かすかに笑みが浮かんだ。

CIAラングレーだよ。俺をハーバード時代にリクルートした工作指揮官ケースオフィサーから持ち掛けられたのがそもそもの始まりだ」

 大きなため息とともに東堂が吐き出した紫煙は天井に広がっていった。

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