告白の時①

 八月を迎えた東京の暑さは殺人的だとユリアンはつくづく思った。

だが、銃を隠し持って歩く身の上である以上薄手でもジャケットを身にまとわないわけにはいかない。三日に一度はクリーニングに出さないと汗臭くてたまらなくなる。

待ち合せのホテルのロビーに入るとかなり冷房が効いていてジャケットの裏地の汗が急に冷たく感じられた。早く部屋に入ってジャケットを脱がないと風邪をひくな——などと思いつつ、ロビーを足早に通り抜けてエレベーターに飛び乗った。

 部屋のブザーを押すとドアが開き、地味なグレーのスーツに身を包んだ五十がらみの男が顔を出した。東京地検公安事務課長・丘本貢。女とまぐわっている最中、ユリアンに踏みこまれた時は、薄くなったグレーの髪をだらしなく乱していたが、眼鏡をかけて七三に髪を撫でつけると、色白で細面の典型的な小役人といった風体だ。

ユリアンは部屋に入ると同時に丘本の右手をつかむと後ろからねじ上げ、身体を屈めて銃を抜いた。ちょうど丘本の体を盾にとる格好で部屋の中からの攻撃に対して防御体勢をとったのだ。丘本は悲鳴を上げたが素早くドアを閉めたので廊下には声は漏れなかった。

 杞憂だったようだ。部屋には他に人影はなく、丘本は約束通り一人でユリアンからの依頼の品を持って来たらしい。ロシアと違い日本の役人は仕事が早い。ハニートラップに引っ掛かったのはちょうど一週間前だった。

「すみません。なんせ私は臆病でして。いつもどこかに罠が仕掛けられていないか、びくびくしているものですから」

 ユリアンが右手を解放してやると、丘本は一瞬憤怒の色を顔に浮かべたが、ぷいと目を逸らすと応接テーブルの席に腰を下ろした。ユリアンもジャケット下のホルスターに銃を収めながら後に続いた。二人が向き合ったテーブルの上には厚さ五センチほどの書類の束が入った茶封筒が二つ置かれていた。

「さっそくですが、中身を拝見させてもらいますよ」

 ユリアンは、一方の封筒から書類の束を取り出した。冒頭のページに東京地検事務局長と公安事務課長の印が押され、「平成二八年度・調査活動費」と銘打たれた現金出納帳だった。二ページ目以降には、何やら日付と金額、支払先が列記されている。そして末尾には、支払先から受領した検察庁発行の領収書を添付した資料がついていた。

 もう一つの封筒を開くとそちらは無銘の出納帳だった。こちらも日付けと金額が並び、末尾には領収書を添付した資料がついている。ところが、こちらの領収書は居酒屋にバー、高級ホテル・料亭などが発行したものが並んでいた。

そして、「調査活動費」と銘打たれた現金出納帳の日付け・金額と、無銘の出納帳に記された日付け・金額を照合してみると——ざっと一か月分に目を通したところ、すべてが一致した。

(間違いない。「公安調査活動費」の表帳簿と裏帳簿だ。やはり狙った通りのところにあったか…)

 東京地検特捜部はおろか、最高検察庁や法務省をも揺るがしかねない「爆弾」が、この時ユリアンの手に握られた。

「〝裏〟の方は私が管理しているものですが、〝表〟は会計課の管理下にありますのでね。持ち出すのはなかなか…」

「あなたが東京地検の検事正と次席検事から直々に裏金の管理を任されていることは、会計課の連中も分かっていることでしょう。表帳簿を持ち出すなんて造作もないことだ。あなたがサボタージュしようなんて思わない限りはね」

 ホテルで女の股間から顔を上げた時ほどではなかったが、丘本は驚愕の表情を浮かべた。

(間抜けな日本の小役人め。検察庁関係で俺が飼っている〝モグラ〟はお前だけじゃないんだよ。)

 ユリアンの指揮下にある日本人潜伏協力者スリーパーは、東京地検には他に二人。最高検察庁と法務省内にも三人いた。いずれもノンキャリの検察事務官だ。その連中から、検察庁幹部による公安調査活動費の私的な流用が近年拡大しているという情報が入るようになった。

 検察による公安調査動費を流用した裏金作りは、二〇〇一年に大阪高等検察庁の公安部長による内部告発によって一時問題化した。その後、年間五億円余りに達していた公安調査活動費は、二〇一〇年ごろには七千万円ほどに減額。裏金作りに対する批判を受けたからだったが、検察は表向き「社会情勢の変化により、過激派活動の調査を目的とする公安調査活動費を高額で維持する必要性が低下した」などと説明していた。

 ところが、二〇一〇年代後半に入り、中ロや北朝鮮との関係が緊迫化する中、国際テロ組織や外国諜報機関の活動に対する調査拡大の必要があるという理屈で、再び公安調査活動費が年間数億円程度確保されるようになった。甘い蜜の味を知るエリートたちが再び転がり込んできた利権を見逃すはずはなかった。かつてと同じ裏金作りが再度息を吹き返しているという情報が、複数の潜伏協力者スリーパーからユリアンの元に寄せられるようになった。そして、東京地検における裏金作りを実質的に管理しているのが公安事務課長の丘本だった。丘本を罠にかけ、弱味を握れば東京地検での裏金作りの根拠となる帳簿が手に入る。そう睨んだユリアンは、「盗聴屋」の同期に依頼して、丘本をハニートラップにひっかけたのだ。

 また東京地検は単なる一地方検察庁ではない。高級法務官僚の出世のステップにつながる場所だ。ユリアンの手の中にある裏金作りの帳簿には、現在、法務省や最高検察庁の幹部となっている者の名前も記載されている。ゆえに、公表されれば東京地検に留まらず、日本の検察全体に大打撃を与える「爆弾」と言えるのだ。

「高級幹部の裏金作りには正直、私も日ごろから眉を潜めていたんですよ。これが世間に公表されることは、ある意味、検察の組織風土を変えるために必要なのではないかと、思うところはありますな」

 自身の行為を正当化するかのような丘本の言葉にユリアンは顔をしかめた。

ハニートラップとは知らずに丘本が買っていた女は十七歳で、丘本も相手が未成年であることは承知していた。バレれば、児童買春罪が成立する紛れもない犯罪行為だ。そんな男が言うに事欠いて検察の改革を語るとは。

 内心虫唾が走る思いだったが、ユリアンは静かな口調でさらに丘本にプレッシャーをかけた。己の置かれている立場を再認識させるために。

「何はともあれ、国の機密を外国人である私に売り渡したわけですからね。これであなたも立派な国家の裏切り者だ。問われる罪は児童買春だけではなくなりますなぁ」

 丘本の顔はとたんに真っ青になり、急に汗を浮かべて俯いてしまった。

「御自身の立場を大事に考えられるなら、今後も情報の提供をよろしくお願いいたします。御協力いただける限り、私どもは丘本さんの仕事や暮らし向きにご迷惑をかけるようなことは致しませんから」

 俯きながら小刻みに震えている丘本の肩を軽く何度か叩いたユリアンは、二つの茶封筒を脇に抱えて部屋を後にした。

 エレベーターを降りてユリアンは、地上階のホテルのフロントホールに立ち左右を見回した。やがて自分が抱えているのとよく似た茶封筒を二つ抱えたベルボーイがフロントを横切るように歩いてくるのを見つけた。ユリアンはベルボーイがそのまま進むと鉢合わせになる方へと歩き始めた。

 十数秒後、ユリアンとベルボーイはぶつかって、手から互いの荷物を落としてしまった。

「お客さま、大変申し訳ございません! お怪我はございませんか? 」

 ベルボーイは慌ててユリアンに駆け寄り、顔を覗き込んだ。ボーイは瞬きをしてユリアンにアイコンタクトのサインを送ってきた。

 「Don’t warry, that’s no problem !」

 快活な笑顔を浮かべながら英語で答えたユリアンは、ベルボーイの落とした方の二つの封筒を拾い上げると立ち去っていった。ベルボーイは、ユリアンの後姿を見送りながら、残された裏金作りの帳簿が入った二つの封筒を手に取り、バックヤードに向かって足早に歩き始めた。

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