暴風来たりて③
麻布狸穴町のロシア大使館を出たユリアンは、飯倉の交差点近くでタクシーを拾い、紀尾井町にある高級ホテルに向かった。
上層階のスイートルームが並ぶフロアの廊下を歩き、その一室のドアをノックした。静かにドアが開き、中に招き入れられると三人の男たちがいた。
隣室の間を隔てる壁からは幾本もの配線が伸び、壁に接したテーブルに置かれた機械につながっていた。機械から伸びたコードにつながったヘッドフォンには、二人の男たちが聞き耳を立てている。二人を指揮しているらしい男が振り返ってユリアンに声をかけてきた。
「おう、来たか。すべて順調だ。お目当ての〝お客さん〟は完全に網の中に入ったよ。どうだ、聞いてみるか? 」
指揮官の男の顔に卑猥な笑みが浮かんだ。ユリアンは、うんざりと言った表情で黙って首を振った。きれいごとを言える立場ではないが、対象とじかに接することもなく隠れて盗聴・盗撮を生業にしている
指揮官の男は、ユリアンの対外情報アカデミーの同期で、日本をエリア担当にしている同僚だ。ユリアンが、獲得した協力者を直接指揮して作戦を実施する役回りなのに対して、この同僚の役目は、日本の政財官界、学界、捜査機関、自衛隊、マスコミ関係者などを罠にかけて盗聴・盗撮で弱みを握り、協力者として獲得することだった。言わば「盗聴屋」だ。諜報機関としては組織網を拡大する意味で重要度は高かったが、ユリアンの肌には合わなかった。
協力者にするターゲットが男であれば、罠にかけやすいのは当然、女絡みだ。マッチングアプリや、女性を紹介する会員制クラブに金で雇った女を配置し、アクセスしてくる男どもを釣るのだ。
ひっかかった男が防衛や外交上の機密に関わるセクションにいる場合は、握った弱みを伏せたまま協力者に仕立て上げる。だが、さして重要性のない小物たち、例えば当選回数の少ない陣笠議員などは、情報を流してマスコミの連中に恩を売ってやる。慢性的な出版不況で、少しでも売れる記事が書けるならと見境のない新聞、雑誌などはいくらでもSVR(こちら)の流した情報に食いついてくると、「盗聴屋」は普段から嘯いていた。
ユリアンはサハリンを発つ前、「盗聴屋」に、東京地検内のターゲットを指定していた。今、一壁隔てた隣の部屋では、オーダー通りの罠に引っ掛かった男が、転落する直前の至福のひと時を過ごしていた。
ヘッドフォンに聞き耳を立てていた部下から言葉をかけられた「盗聴屋」の指揮官は、再び卑猥そうな笑みを浮かべてユリアンに声をかけた。
「そろそろ頃合いのようだ。このままスピーカーをオンにしておくから、後はよろしく」
すると、盗聴機械のスピーカーから男が女の秘部を貪る湿り気を帯びた下品な音と、快楽に浸る女の嬌声が聞えてきた。「盗聴屋」の指揮官は腕を組み、ユリアンを見ながら黙って首を振り、いつでも好きな時に踏み込めと促した。
ユリアンはため息を一つついた後、ジャケットの下のホルスターからヘッケラー&コッホP7M8を抜き出して
音をたてないようにユリアンは非常用避難口のドアを開けた。照明を落とした室内に目が慣れるのに少し時間がかかったが、想像どおりの姿の男女のシルエットが浮かび上がってきた。快楽を貪る二人が、侵入したユリアンに気づく気配はまるでなかった。
女の股間に顔を埋めた男の背中から視線を上にあげると壁に抽象絵画が張り付けられていた。一瞬の間を置いて、ユリアンの手元からくぐもった発射音とともに三発の9ミリパラぺラム弾が発射されて、抽象絵画に突き刺さった。壁に固定するワイヤーを切断された絵画の額縁は男の背中に落ちてきた。女の嬌声は悲鳴に変わり、女の股間から顔を上げた男は振り向くと驚愕の表情でユリアンを見つめていた。薄明りの中でも、男の口元が女の体液でテカテカと濡れているのが分かった。
「東京地方検察庁、公安事務課長の
薄明りの中から銃口を向ける金髪の男が、流暢な日本語で自分の官姓名を言い当てたことに丘本公安事務課長は衝撃を受けたのか、濡れた口元をあんぐりと開けて目を瞠っていた。
すると、恐慌状態に陥った女が改めて大きな悲鳴を上げ始めた。ユリアンは素早くベッドに歩み寄り、女の首筋に手刀を見舞うと女は昏倒して再び静寂が訪れた。丘本課長が我に返ると、
「さて、お楽しみの後はビジネスのお話といきましょう。急ぎませんので、ご支度をなさってください」
丘本課長の頭上、先刻まで抽象絵画がかかっていた壁面には、たった今ユリアンが放った銃弾よりも前に穿かれた数多の弾痕が見えた。ハニートラップにかかった男たちを夢から現実に引き戻すための単純な仕掛けだ。壁面に穿かれた数多の弾痕は、これまでいかに多くの愚かな男たちが罠に落ちたかを物語っていた。
(何でこんな馬鹿なことをやらかしたんだ!
出勤途上に、本日発売の大手出版社系の週刊誌を立ち読みしていた本田は、その記事を見た途端、書店を飛び出して駿河台下の交差点で捕まえたタクシーに飛び乗った。
めざす先は、台東区浅草。河田美幸母娘の
記事には、昼日中にマンションに向かう黒崎の後ろ姿と、その約二時間後にマンションの玄関を出て空を見上げる黒崎の顔を俯瞰の位置から捉えた写真。そして黒崎の出入りしていたマンションの外観写真が掲載され、「前外相・黒崎衆院議員、仮釈放中の〝愛人秘書〟の元へ通う日々」という見出しがつけられていた。
『……地元北海道の公共事業をめぐる贈収賄疑惑で外相を辞任した黒崎昭造衆院議員(六五)。傷心の日々を癒してくれていたのは、元秘書のK女史(三七)だった——。
K女史は、黒崎議員をめぐる一連の疑惑の発火点になった北方領土・国後島での太陽光発電施設の工事入札で、大手ゼネコンに手を引くよう圧力をかけて、釧路・根室の建設会社の共同企業体に受注させ、見返りに共同企業体から一千万円を受け取ったとされる〝疑惑の女〟だ。K女史は大学卒業後、政策担当秘書として黒崎事務所に採用された。結婚後は職場を離れ、故郷の釧路市に帰郷したが、去年、夫が亡くなったのを機に上京し、再び東京の黒崎議員の事務所で働き始め、黒崎議員とは程なく〝ただならぬ関係〟になったようだ。
K女史は、偽計業務妨害の疑いで東京地検特捜部に逮捕されたが、黒崎議員は多額の保釈金を払って留置所から仮釈放させた。さらにマスコミの目を避けるため台東区の高級マンション(写真参照)の一室を用意。ほどなくK女史の公判も始まるとされる中、二人は〝愛の巣〟で何を語らっていたのであろうか……』
K女史——つまり、河田美幸を、女を武器にして黒崎議員を手なずけ、その権威を傘に企業経営者や後援会組織をほしいままに動かす悪女のように書き立てていた。
(恐れていたことが起きた。河田美幸をますます追い詰めてしまうことに……それにしても、何でこんな不注意なことをやったんだ
外相を辞任してからの黒崎に本田は全く連絡がとれなくなっていた。東京の事務所や議員宿舎、なじみの料亭、居酒屋など、めぼしい場所を手当たり次第に当たったが、行方はつかめなかった。そのさなかに、白昼堂々、河田美幸のマンションに現れて恰好の週刊誌ネタになる写真を撮られてしまう——周到で用心深い黒崎にしては信じられない失態だった。
あるいは、作為的なものなのか? しかし一体何のために? 河田が愛人ということになれば、「国後太陽光発電」をめぐる問題は河田の単独犯ではなく、黒崎の意を受けたものだという見方をされてしまう。状況は黒崎にとって不利に傾くのだ。それなのに、なぜ?
頭が混乱したまま、本田は目的地の近くでタクシーを降りた。そこから数分歩くと予想どおりの光景が広がっていた。河田美幸と娘・絵里香が暮らすマンションの周囲いたるところにテレビ、新聞、週刊誌各メディアの取材班が押し掛けていたのだ。
(あの時と同じだ……)
本田の脳裏に一つの光景がよみがえっていた。北方領土返還に頑強に抵抗するロシアの
不吉な予感がし始めた時、本田のスマホのバイブレータが振動した。画面に表示されていたのは河田美幸の番号だった。
『もしもし、本田さん? 河田です。この前、取材ではどうもお世話になりました。もう、ご覧になってますよね? 今週の週刊新星は… 』
美幸の声に動揺は感じられなかった。むしろその落ち着き具合に本田は不吉なものを感じながら視線をマンション上層階の美幸の部屋あたりに向けた。
「すまない。私が記事を書いたことで、かえってあなたが狙われるようなことになってしまったかもしれない…」
『あなたは何も悪くない。あなたの記事は、私の思いのありのままを伝えてくれたわ 』
「今は、マンションの中ですよね? つらいだろうが暫くはそこを動かないほうがいい。それにしても、黒崎さんや事務所の人たちはどうしてるんですか? 何かあなたを救いだす手を打ったりということは? 」
『黒崎先生からは、週刊誌に載った写真を撮られた時以来、連絡はありません。事務所からもここ一週間ほどは何も言ってきては……』
「あなたがこんな目にあっているのは、黒崎さんが白昼マンションを訪ねてくるようなことをしたからだ。なんであんなことをしたのか、問いただそうとしてるんだけど、どういうわけかあの人が全然捕まらないんだ」
『もういいんです。あの記事が出て、よく分かりました。黒崎先生が私に望まれていることが何なのか』
恨みも、つらみも、何の感情もこもっていない声だった。そんな感情をすでに超越していしまっているかのようだ。その静けさにかえって本田は慄きを感じた。そんな本田の胸中をよそに美幸は淡々と話し続けた。
『被告人の私がいなくなれば、裁判は成り立たなくなります。国後島の太陽光発電をめぐる裁判はおしまい。黒崎先生がこれ以上追及を受けることもなくなりますから』
「いなくなるって、どういうことですか? 馬鹿なことを考えるもんじゃない! もしもそれが……黒崎昭造の本意だと思うなら、そんな理不尽なことを受け入れていいはずがない! あなたほどの勇気がある人なら戦うべきだ! 」
二人の間に沈黙が流れた。だが本田には、美幸が力なく微笑みながら首を振る姿が目に見えるようだった。
『私ひとりなら、黒崎先生と戦う決心もついたかもしれません。でも、私には子どもがいます。絵里奈が……。重い障害を持って生まれたあの子が、黒崎昭造を手玉にとった札付きの悪女という汚名を背負った私と一緒に生きていくことがどんなに大変なことか。黒崎先生を敵に回せば、これまで私を支えてくれた東京の事務所や選挙区の人たちもみんな敵に回る。なんて、恩知らずな女なんだと言われて——私の娘であるということがこの先、あの子をどんな苦境に立たせることになるか……』
「落ち着くんだ、美幸さん。あなたは、この前の取材を、お互いが生き直すきっかけに——俺は新聞記者として。あなたは母親として。新しい一歩を踏み出すきっかけにしたいと言ったとき、力強く頷いてくれたじゃないか。大丈夫だ。あなたはきっと絵里奈ちゃんを守ることができる。いや、美幸さん。あなたがいなくなったら一体、誰が絵里奈ちゃんを守ってあげられるんだ! 」
典型的なうつ症状だ。このままだと発作的に自殺しかねない。焦った本田は、スマホを耳に当てながら、マンションに向かって走り始めた。
『あなたがいてくれるって思ったの……』
暫しの沈黙の後、再び話し始めた美幸の声は涙ぐんでいた。
『本田さん。あなたは自分のありのままを話してくれた。特派員の立場を失った時、どんなにみじめか。自分のことを信じてもらいたかった奥さんに出ていかれたとき、どんなに絶望を味わったか。それでも、小児がんの後遺症から逃れられない奥さんのことを今も深く愛していることを。
本田さんにだったら。本田さんと奥さんにだったら。お二人には、障害を持つ者の痛みや悲しみを分かってもらえる。絵里奈をお任せできると思ったんです。そう思えたら、とても気持ちが楽になりました』
マンションの玄関口まではあと五十メートルほど。久しぶりの全力疾走に本田の息も上がってくる。周囲に屯する報道陣たちも、血相を変えて突っ走る本田の姿を呆気にとられて見つめている。あえぎながら本田はスマホに向かって叫んでいた。
「落ち着くんだ! 何もせずにじっとしているんだ! これからすくそばに行く! すぐ行くから待ってるんだ! 」
美幸からの返事はなかった。電話は先方から切られてしまっていた。
本田はマンションの玄関口にたどり着いたが、オートロックになっているから中には入れない。美幸の部屋番号のインターフォンを何度も押してみる——反応はない。本田は、管理人室に飛び込み、このままだと住人の命にかかわる事態になるから開けてくれと管理人に懇願した。が、住人の許しもなくオートロックは解除できないと管理人は撥ねつけた。
開けろ! だめだ! と本田は管理人と怒鳴りあいになった。
やがて屋外がざわめき始めた。報道陣や通行人などがマンションを見上げて騒いでいる。慌てて本田も外に出た。
十三階建てマンションの最上階から一つ下のフロア。美幸の部屋のベランダに人影が見えた。すでに体を柵の外に出してしまっている。目を凝らしてみると美幸であることが分かった。顔面蒼白でさすがに表情が引きつっていた。
「待て! お願いだ! 待ってくれ! 」
本田の上げた叫び声が果たして聞こえたのか。美幸が一瞬、自分の方を見て微笑んだように見えた。なぜかその顔がアリアンナに重なって見えたかと思うと、本田の視界には急に白い霧が立ち込め始めた。
(待ってくれ……きみもそのまま、アリアンナのところへ行ってしまうのか? 一緒に頑張っていこうって言ったじゃないか。待ってくれ。俺を置いていかないでくれ……)
霧の中に美幸の姿は見えなくなり、本田は声を上げることもできずに喘ぎ続けた。
やがて、人間の体がアスファルトに叩き付けられて骨の砕ける鈍い音が響き渡り、一瞬にして霧は晴れた。
本田の目の前では、頭蓋が割れて脳漿の飛び出した美幸の遺体から大量の血が流れだしていた。流れる血潮は、たけり狂う夏の日差しを照り返して、ゆっくりと歩道いっぱいに広がっていった。
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