暴風来たりて②

「もう島を四つ返せなどとは言うな。お目こぼしに『二島』は返ってくるんだから、それで我慢しろと、そういうことですか? 」

「お目こぼしとは、不穏当な言い方ですね……ただ、目下の交渉で二島返還の可能性が高まっている以上、皆さんにも私どもと足並みをそろえていただきたいのですよ」

「最終的には四島を取り返すつもりだから、まずは二島を、というんなら分かりますよ。でも二島で手を打とうというのは、泥棒に盗んだ罪は問いませんからせめて二つだけでも返しもらえませんかってことでしょう。それがお目こぼしじゃなくて何だと言うんです? 」

 その老婆の口ぶりは至ってもの静かだったが、総理秘書官を鋭く問いつめていた。同じ側のテーブルに座る男たちは、秘書官が怒り出さないか冷や冷やしているようだが、その老婆——玉井輝子たまいてるこは全く意に介する様子がなかった。

(婆ちゃんの女傑ぶりは相変わらずだな……)

 後方の「親族傍聴席」から輝子の背中を見守っている本田一馬は、羨望の思いで目を細めながら思わず微笑んだ。

黒崎昭造が外務大臣を辞職してから半月あまり後の七月半ば。千島列島居住者協会(千島協会)の理事をはじめ返還運動を担う主だった人々が東京の内閣府に集められた。本田一馬の母方の祖母・玉井輝子も元理事として参加することになり、輝子が高齢ということで本田も「付き添いの親族」として立ち合うことができた。

輝子をはじめ理事たちは、内閣府の職員や総理秘書官たちと向き合う形で横長のテーブル席に座り、親族たちはその後方に設けられた傍聴席に配置された。

輝子は間もなく八十九歳になろうとしていた。若いころから洋装を着こなしていたせいか、この日も白髪によく似合うグレーのワンピースを身にまとっている。傍聴席から見ると

 背筋がぴんと伸びているものの背中は随分小さくなったように本田には思われた。他の理事たちも八十歳前後で、戦前の北方領土を知る元島民に残された時間の少なさがうかがえた。

 会合は、この日から十日前、七月初めにマレーシアのクアラルンプールで行われた日ロ首脳会談での合意事項について総理秘書官が千島協会の理事たちに改めて確認することから始まった。

 会談の直後、江藤総理は、ベゾブラゾフ大統領との合意事項について次のように語った。

「一九五六年の日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速させる」

 一九五六年一〇月に日本と旧ソ連の首脳が調印した日ソ共同宣言は、両国が第二次世界大戦から続く戦争状態を終結した文書だ。

 その第九項には、両国が平和条約を締結した後、北方四島のうち歯舞群島と色丹島の「二島」を日本に引き渡すことが明記されている。だが、国後島と択捉島については一切触れられていない。

 新生ロシアの誕生以来、日本政府は、日ロ間には北方「四島」の帰属問題があり、その解決をめざすとした一九九三年の「東京宣言」を足掛かりに領土交渉を行ってきた。それを江藤総理は、あえて「東京宣言」には一切触れず、「日ソ共同宣言」だけを平和条約交渉の基礎に位置付けると宣言したのだ。その意味するところは——

「皆さまには、はっきりと申し上げましょう。今後、領土交渉の軸足は『四島』から『二島』へ移るということです。ついては皆さま方にもそのことをご承知いただいたうえで、政府の交渉へのご支援をお願いしたいのです」

 そんな総理秘書官の言葉に、さっそく噛みついたのが玉井輝子だった。政府の方針転換を「盗賊からのお目こぼし頼み」と切って捨てたのだ。九十歳になろうという老婆から責め立てられたことがよほど不快だったのか、秘書官は輝子を睨みつけたまま押し黙り、その場の空気は一気に緊迫した。

 何とか話し合いをとりなそうと、千島協会の現理事長が総理秘書官に助け舟の言葉をかけた。

「いやいや、会員もいろんな考えの方がおりますからね。そちらも驚かれたかもしれませんが……政府の方針は方針として、そのうえで私どもにどのようなご要望がおありなのか、まずはお聞かせ願えませんか? 」

 低姿勢な理事長に、総理秘書官は幾らか気分を良くしたふうではあった。

 見たところ年齢は三十歳そこそこ。江藤総理肝いりの「共同経済活動」の推進役として最近、総理官邸で幅を利かせている経済産業省から出向してきた若手キャリア官僚のようだ。本庁では、四、五十代のノンキャリを顎で使い、地方の経済産業局でも経歴に傷がつかぬようちやほやされてきたのだろう。千島協会の会員たちを見る態度にも尊大さがうかがえる。

 やがて総理秘書官は、左右に首を振りながら居並ぶ会員たちを睨みつけると、慇懃ではあったが有無を言わさぬ口調で言葉を発した。

「今後の皆さまの活動の中では、『島を返せ』とか『返還』という言葉を一切使わないようにしていただきたいのです。代わりに『一刻も早い平和条約の実現を』ということを活動のスローガンとして徹底していただきたい」

 テーブル席の理事たちだけでなく、傍聴席の親族たちからも、どよめきの声があがった。本田がまじまじと見つめた先では総理秘書官が、不遜な笑みを浮かべていた。

(この男は、自分が言っていることの意味がわかっているのか……)

 そもそも千島協会は、不法に占領された北方領土の返還を求めて元島民たちが立ち上げた団体だ。『領土返還を求めるな』ということは、千島協会に本来の活動を取りやめて、ただ政府の応援だけをしていろと申し渡すに等しいことなのだ。

 どよめきが静まりかけたところで、総理秘書官は再び口を開いた。

「これまで、長年掲げてこられた『返還』という看板を下ろすことに抵抗を覚える向きがあることも分かります。ですが、私どもとしては交渉の中で必要以上にロシア側を刺激したくない。二島返還という成果を確実にするためには、日本側が必要以上の領土要求を持たず、平和条約を結ぶことに官民とも一体になっていることをロシア側にアピールする必要があるのです。

 二島返還が実現すれば、特に隣接する根室市は歯舞群島、色丹島と周辺海域の豊かな水産資源を地域振興策の中に組み入れることが可能になります。皆さん方にとっても間違いなく実入りの大きい話になるはずです」

 総理秘書官の話を聞きながら、千島協会の理事たちの何人かは大きく頷いていた。

歯舞、色丹の二島に隣接する北海道・根室市には、同島からの引揚者とその子孫が多い。

 冷戦後も続くロシア側による漁船の拿捕・銃撃、度重なる漁業規制の拡大によって打撃を被ってきたのは多くが根室市の漁業・水産業者たちだ。そのため根室市民や、在住の元島民の中に、「二島返還」でも受け入れようという考えが広がっているのも事実だ。

 と、そこへ。

「じゃあ、国後や択捉の人たちの思いはどうなるんだい——」

とても九十歳近い老婆のものとは思えない張りのある女の声が響いた。

「元島民の間が真っ二つに割かれてしまう。あんたらはそのことを考えてくれたことがあるのかい? これまでみんな、いつか必ず故郷を取り戻そうと一緒に頑張ってきたっていうのに。そちらの都合で、わたしらの間を引き裂くようなことをして……」

 そうだ。返還される二島と、切り捨てられる二島——国後・択捉の元島民たちとの間に分断を生むことになる。輝子が、二島返還を受け入れがたいと考えているのは、国際法的な問題がどうこうよりも、国の都合で、これまで苦楽を共にしてきた仲間が引き裂かれてしまうことに耐えられないからであるように本田には思われた。

だが、そんなものは、勝手な内輪もめだと言わんばかりに秘書官は、冷ややかに言葉を続けた。

「いつまでも四島返還にこだわっていても事態は動かない。かえってロシア側を頑なにさせるだけです。それよりも実をとりましょう。経済で。お金で解決するんです。そうすれば二島は返ってくる。国後や択捉へも行きやすくなって、これまでよりずっと気軽にお墓参りもできるようになるはずです」

「——気軽に墓参りだって? 」

 輝子の声が微妙に裏返っている。

(あ~あ、婆ちゃんがとうとう切れちまったか)

 なぜ、元島民の神経を逆なですることしかこの若い役人は言えないのか。本田は思わずため息をついた。案の定、長い白髪を後ろで束ねたグレーのワンピースを着た背中が、すくりと立ち上がり、総理秘書官に向かってまくしたて始めた。

「これまでの墓参の実態がどうだったか、あんたたちは分かってものを言っているのかい? 国後島にはまともな波止場すらないんだ。波が高いと上陸できないし、上陸できても砂浜にはしけで乗り付けるしかない。そこからかつての日本人居住地や墓所へ行くにも整備されていない岩だらけの道を歩くしかないんだ。八十や九十の年寄りが何キロも歩かされたあげくに、ここからは軍事上の理由で立ち入りできないとロシア側に追い返されて、墓参りどころか墓を見ることさえできなかった人も多いんだよ。特に国後と択捉では、近年立ち入りを制限されるところが増えている。気軽に墓参りができるようになるなんてとても信じられないね。あんた、何を根拠にそんなことを言っているんだい! 」

 輝子に怒鳴りつけられた気恥ずかしさと怒りで秘書官は真っ青な顔になっていた。これでは話し合いにならないと、さすがに千島協会の理事長が仲裁に入った。

「私どもとしては、政府の交渉を妨げるつもりはありません。できるかぎり協力していきたいとは思っています。ただ、急に領土の返還という看板を下ろせと言われましても……

 会員にもいろんな思いや考えの方がおられます。その思いまで押さえろとおっしゃるからには、何としてでも今回の交渉で、一島でも二島でも領土返還を実現できるという、何か勝算となるものを示していただかないと……」

 顔をひきつらせていた総理秘書官は、やや気を取り直して理事長に向き合った。

「江藤総理とベゾブラゾフ大統領の間には、二十数回にわたり会談を重ねてきた中で築かれた深い信頼関係があります。ロシア側は私どもが掲げる経済協力プランにも至って前向きです。ベゾ大統領も日ソ共同宣言の有効性についてはたびたび言及しています。それに総理も強調されていますが、総理とベゾ大統領は同世代です。お二人は、自分たちの世代で国境問題を解決し、平和条約を締結するという決意をかわしています。その決意の上でお二人が折り合えるところが、一九五六年の日ソ共同宣言。すなわち二島返還による領土問題の解決なのです」

「二島返還」にかける江藤総理をはじめ『(総理)官邸官僚』たちの熱意のほどと、「今度は行ける」という感触の強さは分かった。だが、二島返還に向けたロシア側との交渉プロセスやスケジュールはどうなっているのか。総理秘書官は具体的なことは何も語らなかった。

 輝子は、なおも「勝算があるなら具体的な根拠を示せ」と食い下がったが、秘書官は「外交機密に関することを簡単には口外できない」と言って取り合わなかった。会合は結局、官邸側が一方的に千島協会に「返還運動の自粛」を求めて終わり、今後、話し合いを行う予定も示されることはなかった。

 会合が終わると官邸官僚たちはそそくさと引き上げていったが、千島協会の関係者たちの多くは会場に残り、顔に徒労感を浮かべてため息交じりの会話を交わしていた。総理秘書官に食いついていた輝子も肩を落として座りこんでいた。さすがに心配になった本田は輝子の傍らに歩み寄り、横顔を覗き込んだ。輝子は眉を吊り上げて厳しい表情を浮かべていた。

「随分食い下がったね。婆ちゃん。見ていて冷や冷やしたけど、さすがだと思ったよ」

 本田の労いの言葉にも、輝子は顔を向けるはことなく、苦い表情を浮かべて俯きがちに前を見据えていた。

「それにしても、ひどいよな。千島協会に、もう北方領土の返還を求める活動をやるな、なんて。そこまでのことを言う権利が政府にあるのかよって思うよ。俺も」

 何か張り詰めていたものが緩んだのか。輝子は大きなため息をついた。

「何で、国なんてものを信用しちまってたんだろうね……」

「え? 」

「私もね、心のどこかで、国はきっと味方になってくれると思いこんできたんだよ。日本はアメリカと組んで、ソ連やロシアとは対立する道を歩んできたわけだから。歴代の総理や保守党の大物の議員さんたちもよく納沙布まで来てくれた。そんな時代がずっと続くもんだと思ってた。

でもね、情況次第で、国は平気で民衆を切り捨てるってことをすっかり忘れちまってたんだよ。戦争末期に、満州や樺太に取り残された人たちを関東軍や政府の役人たちが見捨てて真っ先に逃げたこと。取り残された人たちに戦後も長い間救いの手を差し伸べようとしなかったこと……国なんてそんなもんだと分かっていながら、私らは、求めていることが国の方針と一緒だから大丈夫なんて勝手に思いこんじまってさ……フフフフ、ああ~情けない。この歳になって自分のおめでたさに漸く気が付くなんてさ。フフフフ……」

 輝子は、真正面を見据えたまま薄ら笑いを浮かべていたが、目にはいっぱいの涙をためていた。輝子の気性を考えるとそれは悔し涙だろう。国に裏切られた、というよりも信じてしまった己の不覚に対する怒りからくるものだと本田は思った。

「あなた方のその態度は何だ! それでも日本人か! 江藤総理が今まさに国のために大事を為そうとされているのに、足を引張るとは何事だ! 」

 廊下の方からいきなり怒鳴り声が聞えてきた。

 先に会議室を出た千島協会の理事長などが何者かから叱責されているらしい。不審に思った本田は、輝子を置いて会議室を飛び出した。

 廊下に出ると、千島協会の老人たちの前に屈強そうな男たちが十人ほど、通せんぼするような恰好で立ちはだかっていた。右翼団体の連中かと思って本田がさらに近寄ってみると男たちのスーツの襟元には揃いのピンバッジが見えた。

 十六紋菊の上に日の丸を乗せたデザイン——「大和フォーラム」の会員たちのようだ。

 日本国憲法第九条第二項を改正し、自衛隊を「国軍」と明記することを組織目標に掲げた日本最大の右派市民団体で、会員数は全国で約四万人。国会・地方議会議員、学者、経済団体役員、企業経営者、自衛隊OBなどの中に幅広く会員がいて、もっぱら江藤総理の「親衛隊」的な役割を担っている。特に、国政・地方議会の選挙活動や、街頭行動を担う青年部には自衛隊のOBが多いという。千島協会の老人たちを怒鳴りつけたのは、その「青年部」の連中らしい。

「一体、あなた方は何の権限があって私どもの活動に介入されるのですか? 誰かから指示でもされているのですか?」

 いきなり脅迫まがいの行動を見せた大和フォーラム青年部の者たちに、温厚な千島協会の理事長もさすがに気色ばんでいた。だが、一団のリーダーらしい男は、うすら笑いを浮かべながら胸をそらすようにして理事長を見据えていた。

「私たちもご高齢の皆さんに乱暴なことをするのは本意ではありません。ただ、国益を損ねるようなことをされるのを黙って放っておくわけにも参らんのですよ。ここはどうか政府の指示通り、北方領土返還を求める活動は自粛していただければと……」

「江藤総理には、これまで何度かお会いしていますが、そのたび四島返還のために全力を尽くすと言っておられました。それを情勢が変わったからと言ってもう返還はナシだと言われたんじゃ、それは……私たちへの裏切りなんじゃないですか?」

 『裏切り』という言葉を発するとき、理事長にはためらいがあった。だが、先刻からの官邸官僚たちとのやりとりで胸に渦巻いていた感情が思わず吹き出してしまったようだ。

「そうだ、そうだ」

「いくら何でも国民の心の中にまで踏み込んでいいものか……」

 千島協会の老人たちが抗議の声を上げ始めたところへ——

「裏切りって言うんだったら、あんたらだってそうだろ! 散々国から補助金をもらっておいて、いざ返還が進む可能性が出てきたところで、少しの我慢もできんのか! あんたらは自分たちのエゴで、国民の税金をかすめ取っているようなもんだぞ! 」

 大和フォーラムの男たちの中から前に進み出て声を上げた者がいた。かなり乱暴な物言いだったが、何よりも、声の主の顔を見て本田は目を見開いた。

(あの男だ……)

 それは夜の釧路の街で、「イーグル」と名乗ったCIAの工作指揮官ケースオフィサーの指示を受けて消音装置サイレンサー付きの自動拳銃を本田に突きつけた男だった。重量級の柔道選手のような体型に一重の細い切れ長な目と、つぶれた「耳たぶ」が忘れがたい印象を残していた。

(やはり、黒崎さんの追い落としの線でCIAと江藤総理はつながっていたわけか……)

 あの「耳たぶ男」が目の前に現れたことの意味するところは——

CIAの日系アメリカ人工作員が、「大和フォーラム」に潜り込んでいるということなのか。

 それとも、「大和フォーラム」に多い元自衛隊員がCIA工作指揮官管の元で活動し、諜報分野でも日米の一体化が進行しているということなのか。いずれにせよ、本田は深い闇の淵を垣間見たような思いになった。

 本田が息を飲むと同時に、それまで抗議の声を上げていた千島協会の老人たちも押し黙ってしまっていた。「耳たぶ男」の物言いは、国からの支援も受けて運動している元島民たちの贖罪意識に訴えかけるものだったからだ。

 そこへ漸く、警備員が駆けつけてきた。頃合いと見た一団のリーダーと見られる男は、仲間たちに目配せをしつつ、千島協会の理事長の顔を覗き込んだ。

「今日のところはこれで引き上げますがね。このまま政府の方針に従わないようなら、私どもは、決してあなたたちを許しません。いや、日本人にして心ある者は皆、あなたたちを国家に対する裏切り者だと見なすでしょう。そのことを重々、ご承知おきください」

 十数名の男たちは、本田たちの前を悠々と歩いて立ち去っていく。贖罪意識につけこむ言葉を吐いた「耳たぶ男」は、本田を見つめながら口角をゆがめて笑みを浮かべていた。

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