暴風来たりて①

 それはあたかも巣を突かれたスズメバチが一斉に反撃を始めたかのようだった。

六月下旬、東京地検特捜部は、黒崎昭造の関係先への家宅捜索と逮捕劇を演じ始めたのだ。

 捜索を受けたのは、オホーツク海沿岸の網走港と紋別港の防波堤工事を受注した北見市の建設工事会社と、大雪山系にある国有林の公売入札を受けた帯広市の木材加工会社だ。

 建設工事会社は受注の便宜をはかってもらった見返りに六〇〇万円を、木材加工会社は入札を受けた見返りに五〇〇万円を、それぞれ黒崎昭造事務所の関係者に渡したという贈収賄容疑だった。

「反撃に出てくることは予想していたけど、随分早く派手に動き出したもんだな」

 テレビから流れてくる特捜部長の会見を見ながら本田は、矢吹につぶやいた。本田の対面の席で眠そうな目で新聞を読んでいた矢吹は、テレビに一瞥をくれた後、冷ややかに口角を上げた。

「それだけお前の記事が出たのが痛かったし、特捜部の連中も慌てたということやろう。

しかし、事情聴取を受けたとなると、世間は〝黒崎には金にまつわる疑惑がある〟と思うやろうな。となると、この先、閣内に留まれるかは微妙かもな」

「俺の記事がかえって藪蛇になったということか……なぁ、本田。あの河田秘書の記事、出す意味はあったんだろうか? 」

「当たり前やろ! 記事が出たその週は、〝こいつは冤罪やないか〟ということで取り上げるテレビ局もあったやろう。それがマズいから特捜部は早速、火消しに動いたということや。俺はこの特捜部のリアクション、連中を追いつめた証やと思うてる。見てみいや、怖い顔してわめいとる部長はともかく、横に座っている副部長検事の冴えない顔を」

 赤ら顔でプロレスラーのような巨躯の特捜部長は、記者たちに威圧的な視線を送りながら大声で捜査方針を述べ続けている。対して傍らに座る副部長検事は白髪交じりの痩せぎすで顔色も悪く、憔悴しているように見えた。

 この男が、河田の言っていた東堂という特殊直告一班班長の副部長検事だろうか。捜査の実務を担うのはこの男になるわけだが、確かに捜査が行き詰っている時に会見に出てくる幹部にありがちな生気のない表情を浮かべているように本田には見えた。矢吹の言う通り、本田の書いた記事がそれなりの打撃を与えたのだろうか。

 東京地検特捜部による一斉検挙が行われる一週間前。本田が河田美幸を取材した記事を特集した「月刊セレクト」が発売され、大きな反響を呼んだ。

記事では、美幸がダウン症の子どもを支援学校に預けたままで、いずれ音を上げるだろうと検察官が見越していたことなど、人権を著しく侵害した取り調べを受けたことが明かされた。

 検察の力にねじ伏せられたことで感じた無力感と恐怖感。記者を目の前にしても取材に応じるべきか悩んだこと。それでも、女手一つで障害のある我が子を育ててきた誇りを失いたくない。身の潔白を訴えたいと決意したことなど、心の中の葛藤が美幸の肉声を活かしたインタビューで綴られていた。

 特に、強大な力の前で揺れ動きながらも前を向こうとする姿が、シングルマザーや働く女性たちの共感を呼んだ。

 記事が出てからの先週、一週間。世の中の気分は黒崎昭造をターゲットにした東京地検特捜部の捜査に疑問を抱き始めていた。その空気を打ち消すように特捜部は、今週、一斉検挙に動いたのだ。だが、記者会見での副部長検事の表情を見て、本田は、特捜部が捜査方針に何らかの問題を抱えているのではないかと感じた。

 やがてテレビからニュース速報を知らせるアラームが響いた。数秒後に内容を知らせるテロップが映し出された。

『黒崎外務大臣 辞任を表明』

「何でだ!! 」

 本田は大声を張り上げて立ち上がった。驚きと怒りが一気にこみ上げてきて、目がくらむような感覚がした。

(どうして、そんなにあっさり職を放り出してしまうんだ! 恵雄が命をかけたのは一体何のためだったんだ! 河田美幸もあんなに勇気を振り絞ってくれたって言うのに……何を考えているんだ、黒崎さんは……! )

 恐らく真っ青な顔をしていたためだろう。本田の様子を案じた矢吹が歩み寄って肩に手をかけた。

「まぁ、落ち着けや。何か事情があってのことやろう。それよりこれからマスコミ各社が黒崎を追うはずや。お前、独自で談話とれそうか、あたってくれるか? 」

 いわゆる『黒崎担当』として雇った以上、ここが本田の使いどころと矢吹は、早速、指示を出してきた。だが、これまでの信頼関係を揺るがすような黒崎の「外相投げ出し」に、本田の感情は収まらなかった。

「少し時間をくれ、頭を冷やしてくる」

 本田は矢吹の手を払いのけて、出版社のビルを飛び出し、駿河台下から明大通りの坂道を御茶ノ水に向かって上り始めた。

 駿河台下から御茶ノ水にかけては、大学や予備校が集中している学生街だ。夕方五時を回り、午後の授業を終えて、家路につくか、或いはこれから街に繰り出そうという若者たちの賑やかな声が、本田の傍らを通り過ぎていく。

 検察側を告発する美幸記事が出れば、検察が何らかのリアクションを起こすことは黒崎も想像していたはずだ。美幸は黒崎を守ろうと取材に応じ、その意を汲んで黒崎が北方領土交渉を担うために外相として踏ん張ってくれることを期待した。なのに、あっさりと黒崎は辞任してしまった。これでは、美幸が勇気を振るい、記事が世

に出た意味もなくなってしまう。

 坂を上って十分ほどで本田は御茶ノ水駅にたどり着いた。そのまま御茶ノ水橋の中ほどまで歩き、欄干に両手を載せながら聖橋の方向を眺めた。橋の下を流れる神田川を砂利運搬船が進んでくる。夕暮れ近くになって橋の上では涼しげな風を感じられるようになってきた。風に吹かれることでいらだった気分が落ち着いてきた。

 運搬船が通り過ぎると、神田川の水面は静かな淀みに変わった。水は濃い緑色に濁り、川の底までどれくらいの深さがあるのか皆目見当がつかない。

(この問題は、CIAとその意を受けた特捜検察がロシアに近い黒崎昭造を追い落とそうということだけではないんじゃないか。まだまだ底の知れない深い闇があるのかもしれないな……)

 日没が近づくにつれて、濁った川面は夕日を浴びて赤みを帯びてきた。帰宅時間帯を迎えて川岸に見えるJR御茶ノ水駅のホームは乗降客で埋め尽くされていた。大勢の人々の足元を滔々と血の川が流れているように見える神田川——本田はその光景に言いようのない不吉なものを感じた。。

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