蕩児の帰還③
「ほんと素晴らしいアサリやホッキですね。サハリンではなかなかこれほど大きくて、身の厚そうなのは取れないですよ」
ユリアンは、水槽からタモ網いっぱいにすくいだした貝を手に取って驚嘆の声をあげた。
「ロシアの兄ちゃん、あんたもいい目利きしてるねえ。根室・
「えーと、ルーブルだと四千ちょっとですか、いやぁ、その倍出してもサハリンの金持ちなら買いますね。あっちも今、天然ガスや石油の価格が上がって潤ってますから」
「景気のいいこと言ってくれるじゃねぇか。なぁ、恵作さん、この兄ちゃんに言わせたら、あんたは湖でドル箱拾っているようなもんだ。組合としてもロシアとの取引っていうのは悪い話じゃねえと思ってるんだよ。どうだい、漁場(りょうば)の方とか案内してもっとくわしく話、聞かせてやったら?」
うまく漁協の組合長をけしかけたおかげで、「その男」とは怪しまれることなく二人きりで話ができそうだった。ユリアンが「その男」——古河恵作と会うのはかれこれ二〇年ぶりだ。髪の毛はすっかり白くなり、顔に深く刻まれた皴は歳月の経過を思わせたが、黒目がちな瞳は相変わらずで、すぐに見分けがついた。もうけ話に興奮気味の組合長はやたらと、かしましいが、恵作は時折、相槌を打つくらいで殆ど声を発していない。
二〇年前、国後島でミシチェンスキーと相対した時もこうだった。あまり口を利かず、それでいて深い沼を思わせる黒い瞳でこちらの胸の内まで見透かしているような静かな威圧感を醸し出す男だった。だが、今の恵作の瞳には、なぜか以前よりも悲し気な色が見えた。
稚内港から日本に上陸したユリアンは、陸路を丸半日かけて根室まで移動。翌日、ルスモスコイ社と契約しているスーパーや料理店などを回った後、あらかじめ打合せたとおり、根室湾中部漁協の直売店で、古河恵作が採ってきた貝に驚嘆の声を上げることでランデブーに成功した。
恵作の家は、玄関から入ると広い土間があり、漁具や小舟、そして冬季に凍った湖で漁をする際に移動手段となるスノーモービルなどが置かれていた。ユリアンは久しぶりに靴を脱いで日本間に上がった。すると、恵作の黒目がちな瞳に悲し気な色が刺していた理由が氷解した。
「ブツダン」と呼ばれる日本人が先祖の霊を祀る祭壇に、恵作とよく似た中年男とその妻らしい女性の遺影が飾られていた。写真立ては真新しく、二人が亡くなって間もないことがうかがえた。恵作には息子が一人いるという話を聞いたことがあったので、多分、写真の男がそうなのだろう。
ユリアンが写真に見入っているのに気づいた恵作が声をかけてきた。年老いた印象とは裏腹に、声はやや高音で力強く張りがあった。
「お前は会ったことがなかったかもしれないが、倅は……
「息子さんのことは父から……いやミシチェンスキー会長からもうかがっていました。おかげで日本との商売も軌道に乗るようになったと」
「でも、そのことが結果として恵雄の命とりになっちまった。やはりロシアとの商売は綺麗ごとだけじゃ済まねえ。危ないことがあるのは当然と思ってはおったんだがな……」
恵作は、恵雄と妻が惨殺された経緯を話してくれた。ユリアンは表情を変えなかったが、内心大いに動揺していた。状況としては、日本との領土交渉に抵抗する姿勢を見せていたミシチェンスキーと深く関わったことが恵雄を死に至らせたと言えた。
息子を死なせる原因をミシチェンスキーが作ったわけだが、果たして恵作が今回の依頼を引き受けてくれるだろうか。次にどんな言葉を発するかユリアンが逡巡するうちに、恵作が問いかけてきた。
「それでお前はミシチェンスキーから、俺に何をさせろと言われてきたんだ? 」
恵作の黒い瞳からは何の感情も伝わってこなかった。怒りや悲しみ、憎悪も何もなく、ただ目の前のあらゆる現実を吸い込んでしまう底なしの深みがあるように思われた。その深みに誘い込まれるようにユリアンは、来訪の目的を話し始めていた。
「ミシチェンスキー会長にとってクロサキ衆議院議員は、これからも無くてはならないパートナーです。今、東京地検特捜部が何とか逮捕しようと贈収賄事件をフレームアップしていますが、その企みを阻止して彼らの陰謀を暴くのが私の日本に来た目的です。
そのために、古河さんにもご協力をいただきたいと思っています。それは——」
ユリアンは、作戦の中で恵作に担ってもらいたい役割について説明した。話を聞き終えた恵作は、目を閉じて腕組みをしながら何か考えを巡らしているようだった。
「なるほど……ミシチェンスキーがそれだけわしのことを買ってくれているのはありがたいが、これは下手をすると命を落とすことになるな」
「危険を冒していただくうえに、大変手前勝手なお願いであるとは重々承知しています。しかし、CIAと日本の捜査当局を相手にするとなると、最後のところはフルカワさんに頼るほかないのです」
頭を下げるユリアンに対して、恵作は微笑みながら、右手を広げて前に差し出した。危ない橋を渡ることへの気遣いなら無用という意志表示のようだった。
「いやいや、わしの身の上の心配なら御無用だ。恵雄が命をかけて果たそうとした役目。わしとしては何としても代わってやりとげたいとは思っておるよ。しかし、もしもわしがいなくなっちまうとな……」
恵作は立ち上がって仏間から隣り合うリビングに歩いていった。食卓代わりのダイニングテーブルの上には、スケッチブックが置かれていた。スケッチブックを手に取り、表紙を開いた恵作は大きくため息をつきながら考え込む様子だった。
ユリアンは恵作の背後からスケッチブックを覗きこんだ。鉛筆で描かれた色づけする前の下絵のようだった。
船に荷物を吊り上げるもっこ網に覆われた荷台の上に四人の人物が描かれていた。粗末なぼろ布のような服を身にまとった母親と子ども三人が身体を寄せ合っている姿だ。。
いちばん小さい赤ん坊は泣いていて、少し大きい男の子は今にも泣き出しそうだが懸命に堪えている。長女らしい少女は不安げに母親を見上げ、母親は悲し気な表情で虚空を見つめていた。
スケッチを見て問いたげなユリアンの顔を見て、恵作は黒い瞳を細めて破顔した。
「これは孫娘……倅のひとり娘を引き取って一緒に暮らしているんだけどよ。孫娘がな、わしと家族がソ連に占領された国後島を追い出されて、樺太に渡る時の様子を語って聞かせたら、描いてくれたもんなんだ。話を聞いただけなのにまるで見てきたみたいに描くもんだからびっくりしちまってよ。この後、絵具で色付けて仕上げるから色合いのことを詳しく教えてくれと言われてるんだ」
孫娘が描いた母親と三人の子どもたちの絵。三人の子どものうち、今にも泣きだしそうな顔をしている少年が恵作だった。赤ん坊だった妹は、その後、樺太の収容所で、栄養失調で亡くなり、姉は、囚人上がりのソ連兵に強姦されたために心を病み、帰国後に自殺したという。
「絵を描いた娘さんは、ご両親が亡くなった時、どうしていたんですか? 」
「同じ家の中にいた。たまたまトイレに入っている時に暴漢が押し入ってきたんで、見つからずにすんだ」
「でも、襲われた後の両親の姿は……」
「見とるよ。血の海の中で虫の息でもだえている二人の姿が目に焼き付いて離れないらしい。よく夢に見るみたいでうなされとる。わしにはどうすることもできんがな」
「それでも、こんな絵を描いてくれるなんて……人の痛みや苦しみに寄りそえる心の優しい娘さんなんですね。そんなひどい目に遭ったというのに」
ユリアンには、恵作の手元にあるスケッチが急に神々しく眩しいものに見え始めた。
そこへ玄関の方からお訪いを告げる声が聞こえてきた。日本家屋が狭いためか、姿が見えなくても数人の男たちが訪ねてきた気配を感じる。ユリアンはジャケットの懐に仕舞ったヘッケラー&コッホP7M8の
「お巡りだよ。恵雄が襲われて亡くなる前に、恵雄のことを追い回していた週刊誌の記者が根室まで来て、水死体で発見されたんだ。殺しの可能性も捨て切れんということで、未だに捜査を続けとる。倅にはその嫌疑もかかっておったんだ」
「それで警察は息子さんだけでなく、ケイサクさんにも疑いを? 」
「死体で見つかる前々日に、記者をここに泊めてやってな。たらふく酒を飲まして酩酊状態にしたあげく、縛り上げて包丁突きつけて問い詰めてやったんだよ。何で恵雄とロスモスコイのことを書き立てるんだと」
「何ですって?!」
「言っとくが、わしが殺ったわけじゃねえ。奴が水死体で上がったのは、俺が解放した日のさらに翌日の朝だ。警察の調べだと死体で見つかる前の日の昼間、二日酔いでふらついて歩いているところを数人の男たちにワゴン車へ乗せられるのが目撃されているらしい」
「なるほど。で、雑誌記者は何か吐いたんですか? 」
「よく素性が分からない連中に頼まれたと言っていた。ロスモスコイと恵雄が関係している資料を渡されて、記事にしたら金をやると言われたんだと。酒と博打が好きであちこちに借金があって首が回らなかったらしいから天の助けとばかりに飛びついたらしい。さらに黒崎昭造との関係も書いたらまた金をやると言われていたそうだ」
「それで、ケイサクさんはロスモスコイ・スキャンダルが、クロサキ議員を狙って仕掛けられたものだと思ったわけですか。すると記者が殺されたとして、犯人は……」
「金を渡して記事を書かせた連中だろうな。口封じか。或いは殺しの嫌疑を恵雄にかけて、さらに追い詰めるために殺ったのかもしれん」
「やるもんですね。CIAの連中……」
「ともかく、わし自身への疑いを晴らすためだ。警察の捜査には極力、協力するようにしている。もっともこの先、お前の依頼を受けたら、今度は俺が警察に追いかけられることになりそうだがな」
恵作は、ユリアンの強張った顔を愉快そうに見ながら、警官たちを待たせてある玄関へ悠々と歩いて行った。
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