蕩児の帰還②
黒崎昭造の公設秘書・河田美幸と娘の絵里奈は、浅草寺に程近い隅田川に面したマンションの一室に身を寄せていた。窓の真正面には、川向こうに聳え立つ東京スカイツリーを望むことができた。
もともと母娘は世田谷区若林で暮らしていたが、美幸の逮捕騒動で押しかけたマスコミの目から身を隠すため、黒崎が新たに設けた
『——このままで済ましちゃいかんですよ。
これは
本田は、美幸を矢面に立てることを渋る黒崎を何とか説得して、美幸の元を訪れる機会を得た。美幸もまた、黒崎の危機を救うには、検察で受けた仕打ちを告発した方がいいと考えたようだ。
「いらっちゃい! こんにちは!」
ダウン症の娘・絵里奈は、初対面の本田に物怖じすることなく、満面の笑みであいさつしてきた。母親の躾が行き届いていることと、この幼女には人を恐れるよりも信じる気持ちが強いことがうかがえて本田は暫し心が癒された。
「かわいらしいお子さんですね。笑顔がいい。あの顔を向けられると本当に心が癒されますね」
追従ではなく、絵里奈と接して正直に感じたことを本田は口にした。幼い子を持つ母親は子どものことが話しやすいだろうという目論見もあった。
ところがかえって美幸は険しい表情を向けてきた。
「あなたは私が検察からどんな取り調べを受けたのかを取材に来られたと聞いていましたけど、それと子どものことと、どんな関わりがあるんですか? 」
「いや、あの……、すみません。お子さんがあまりに可愛らしかったものですから。余計なことを申し上げて不快な思いをされたなら、謝ります」
「いえ……なんか大人気なく突っかかるようなことを言ってしまいましたね。娘のことに触れてほしくないなら、あなたに見られないようにしておけばよかったのに。こちらも配慮が足りませんでした」
「では、恐れ入りますが、そもそも東京地検特捜部がどのように接触してきたのか。そこからお話をうかがわせていただけますか? 」
「ええ、分りました」
美幸は、最初、特捜部の東堂という副部長検事に面会を求められたこと。環境やコスト面での条件の悪さから国後島の太陽光発電施設の建設工事の入札を東京の大手ゼネコンが断念したこと。その影響で、黒崎の肝いりで結成された釧路・根室の建設会社の共同企業体が工事を受注した経過を正直に伝えたことを話した。
ところが、一〇日後、再び東堂に呼び出されると、その部下の検事が用意した検面調書——美幸が、釧路・根室の建設工事会社からの一千万円供与と引き換えに東京の大手ゼネコンに事業撤退を迫ったという内容——に署名捺印するよう迫られたという。
拘束は九時間余りに達した。取り調べの際、検事は美幸に、養護学校に預けているダウン症の子どもがいることが分かったうえで、狙いを定めたとまで言ったという。
「……悲しくて、腹が立って。でも、絵里奈のことが心配で仕方なかったものですから、とうとう署名・捺印してしまったんです。その後、検察から解放されて外に出ると、もう夜になっていて。ぼんやり夜風に当たっているうちに、私が、これまで大事にしてきたことって一体何だったんだろうって思えてきたんです」
「どういうことですか? 」
「私にとって絵里奈は、生きていく力の源でした。障害児を抱えたシングルマザーなんて言われて憐れまれたくなんかない。障害のある子がいたって誰にも頼らずに生きていけることを世間に認めさせてやるんだ——そんな思いがありました。だけど……」
それまで美幸は本田を正面から見据えて話していたが、何かに打ちのめされたように目を逸らし、項垂れてしまった。
「政治の世界は甘くない。潰したい相手を叩く時、最も弱いところを突くのが、この世界の鉄則です。私は、黒崎先生に狙いを定めた者たちから恰好の標的にされてしまった。先生を『国後疑惑』の渦に巻き込んでしまったんです。
どんなに意気がってみたところで、所詮私は、足手まといにしかならないんだってことを思い知らされました」
項垂れた美幸の肩が小刻みに震えていた。小柄な体がさらに一回り小さくなったように本田には思われた。
「あなたのような人の弱みにつけこむなんて……特捜検察のやり方はあまりにひどい。
私の祖母は、北方領土出身者です。私にも元島民の血が流れています。元島民の立場で領土交渉に臨んでくれる黒崎さんが、そんな悪どい連中に陥れられるなんて、あってはならないと私は思っています。河田さんもそうでしょう? 」
目元の涙をぬぐいながら美幸は前を向いた。少し落ち着いたように思われたが、表情にはどこか諦観のただよう笑みが浮かんでいた。
「ごめんなさい。せっかく来ていただいているのに、実はここまで話したことを記事にしていただくのをお断わりしたい気持ちも正直あるの。黒崎先生のために、私も検察に陥れられたことを告発したいとは思うわ。でも、一方で、何だか疲れちゃったというか……もう何もかも、どうでもよくなったというのが正直な気持ちなの。どんなに頑張ったって私みたいな女は、強い者にねじ伏せられるしかないんだっていう、どうしようもない無力感が心の底にこびり着いちゃったみたいなのよ。それにね……」
美幸は、両腕を交叉させて肩を抱え込み、再び身体を小刻みに震わせ始めた。
「あの検察での取り調べで感じた恐ろしさが忘れられないのよ。検察官って、自分たちの力で、思う通りに犯罪者を作り出せると思っているし、それは事実よね。
それに今回の『国後疑惑』の背後には、検察さえも操るとてつもない大きな力があるみたいだし、そんなものを向こうに回して、この先、あの子と二人安心して暮らしていけるのか。最悪の場合、私はどうなってもいいけど、あの子を、危険な目に遭わせはしないだろうか。それが怖くて心配でならないの……」
今度は、本田が俯く番だった。怒りと悲しみがない交ぜになった激しい感情が腹の底からわいてきた。
障害を持つ我が子を守り育てていくことは美幸の生きがいであり、自信と誇りの拠り所でもあった。決して他人が侵してはならない賭け外の無いものだ。それを特捜検察は、無残に踏みにじったのだ。
(検察には何としても一矢報いてやらなくては、でもな……)
本田の記事が出ることは、黒崎昭造の疑惑を追及する特捜検察の捜査に疑問の一石を投じることにはなるだろう。だが同時に、美幸と娘の絵里奈を世間の好奇の目にさらすことにもなりかねない。美幸が逮捕されたことで、二人は隠れ住まなくてはならなくなり、娘を養護学校に通わすこともできなくなった。自分の記事が、ますます美幸と絵里奈を追いつめることになりはすまいか——
本田がふと顔を上げると、美幸が静かにこちらを見つめていた。涙で目は潤んでいたが、表情にはそれまで心に抱えていたこと——検察の取り調べを受けたことからくる無力感と恐怖感——をようやく打ち明けられたという安堵感が浮かんでいた。
(彼女は誰にも言えなかったことを打ち明けてくれたんだ。ならば、俺もありのままの自分をさらけ出そう。せめて俺という人間を信じてもらえるように)
本田は、美幸を安心させられるように穏やかな口調で語り始めた。
「私にもありますよ。もう、何もかも嫌になること、どうでもよくなってしまう感じ。虚無感っていうのかな。
実は私、今、統合失調症と診断されて新聞社を病気休職扱いになっているんです。去年の秋まではモスクワで特派員として勤務していました。
そこで、私……妻は日本に残していったんですが、心に思う女性ができましてね。ところが、その女性は私の目の前で何者かに殺されてしまったんです。私だけが助かった。
それから、ずっとそのロシアの女性の幻影や幻聴に悩まされているんですよ。医者からは大事な人を死なせてしまった罪悪感からくるトラウマだと言われました。
そう、思い出したでしょう。去年の秋、テロ事件がきっかけでロシア人の愛人を囲っていたのがばれて、特派員を更迭された東日新聞の記者の話。あれは私のことです」
美幸は、目を瞠って本田を見つめていた。だが、本田が何か覚悟を決めて話しを始めたと察したようで、続きを促すように頷いていた。
「何も後ろ暗いことをした覚えはないから、会社の連中や世間にどんなに叩かれても構わないと思っていました。でも、妻にも信じてもらえなかったのにはさすがに堪えました。家を出て行ってしまったんです。
寝ている時、うわ言で殺されたロシア人の女の名前を口にしていたそうだから、仕方ないとは思いながら……やっぱり妻には信じてもらいたかった。
でもダメだった。その時ですよ。もうこの先、俺の人生、もうどうでもいいやと思うようになったのは。何もかも嫌になったのは。
或いは死ねばよかったのかもしれない。でも、できなかった。まだ、この世でやり残したことがあるような気がしたんです。やっぱり俺は記者でありつづけたいと。
あの世界へ戻りたい。時代と斬り結ぶような感覚を味わえるあの現場に、もう一度立ちたいと言う気持ちが捨て切れないんだ。
あなたにも絵理奈ちゃんを守って誇りを持って生きてきた人生がある。ならば、それを踏み付けられて諦めたままでいいのかな。まだ、やり直したい気持ちはあるんじゃないかな。誇り高く生きたいって思いが。
河田さん、この取材での出会いをお互いの人生をやり直すきっかけにしてもらえないだろうか。私は記者として。あなたは、子どもを守る母親として。どうだろうか」
本田の声は、最後絞り出すような感じで低くなり、美幸の厚意に縋るような響きがあった。
美幸は暫く呆けたような表情で本田を見つめていたが、やがて——
「何言ってんのよ! この浮気者! 」
そう言ってけたたましい笑い声を上げた。
ひとしきり笑った後の美幸の表情は、少し若返ったように見えて晴れやかだった。
「こんな恥ずかしいことをおおっぴらに話せるお馬鹿さんには久し振りに会ったわ。
いいわ。あなたが奥さまの信頼を取り戻せるようにひと肌でもふた肌も脱ぎましょう。ぜひ、週刊誌で大々的に書いてちょうだい! 」
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