蕩児の帰還①

 宗谷海峡の視界は良好だった。サハリン最南端のクリリオン岬も、すでに四〇キロ彼方に離れたが、青くくっきりと見えている。

(十代の頃、あの岬から何度か対岸を見たことはあったな……近いからいつでも行けると思っていたが、意外と機会はめぐってこないもんだ)

 男がブロンドの髪をなびかせながら視線を上げると、貨物船の船尾には二琉の旗が翻っていた。一つは三色のロシア国旗。もう一つは、白地に青の三叉槍さんさそう——ギリシャ神話の海の神・ポセイドンが手にしていたという三又に別れた槍を象った「ルスモスコイ」の社旗だ。

 一方、視線を船首の方に向けると、左手に宗谷岬が迫り、船は間もなく宗谷湾に入ろうとしていた。日本に潜入するのはこれで五度目だが、「父」の会社の船に乗り、サハリン経由で北海道・稚内に上陸するというルートは初めてだった。

 男は、去年の秋まではモスクワにいて「セルゲイ」と名乗っていた。北方領土交渉で日本側を攪乱するため、モスクワ駐在の外交官やメディア関係者に近づき、協力者に仕立てあげるのが、所属組織・SVRロシア対外情報庁から与えられた任務だった。

 ひとりの新聞記者への工作は、非常にうまくいっていた。ベゾブラゾフ大統領、最大の政敵・アナトリー・ビルデルリングが北方領土の「四島一括返還」を考えていることを、記者を介して日本の外務大臣・黒崎昭造に、大使館でのレセプションという「公の場」で伝えるという状況を演出した。そのことを捉えてベゾブラゾフ大統領は「二島返還」を進めようとしているのに、話が違うじゃないか、と日本の江藤総理に激怒してみせた。ロシアとしては日本への不信感から「二島返還」にも慎重にならざるを得ない……という状況をまんまと作ることができた。

 ことし秋のロシア大統領選挙は、「ベゾ」大統領と「アニー」ビルデルリングとの接戦が予想される展開になってきた。北方領土交渉で譲歩することは、支持基盤である保守層の離反を招く恐れがある。何とか日本側に示した「二島返還」提案を都合よく撤回できる方策はないか……

「ベゾ」大統領は、旧ソ連KGB赤旗大学以来の盟友であるSVRウチの長官に頼み込んだ。結果、今回の作戦が下令され、「セルゲイ」は具体的な工作を行うことになった。

 うまくいったとは言え、所詮、政治家のご都合主義に迎合した「茶番劇」を演じたにすぎない。個人的に日本の新聞記者には、非常に好感を持っていただけに何とも言えない後味の悪さが残った。

 確かに、あの日本人記者、ホンダと言ったか……。高潔な勇気と優しさを持った魅力的な男だった。その人柄が思わぬ誤算を生んでしまった。「セルゲイ」の相棒であり、彼が心密かに思いを寄せていた女・アリアンナの心を本当に奪ってしまったのだ。

 貨物船が稚内に入港した後、元は「セルゲイ」と名乗っていた男は、入国と税関手続きへと進んだ。男が、提示したパスポートの氏名には「ユリアン・コンドラチェンコ」と記されていた。手続きを終えた「ユリアン」は四トントラックに乗りこみ、港を後にした。

 左手には快晴の下、宗谷湾が広がり、きらめく波濤の先にサハリン島が青く霞んで見えている。これから根室まで休憩をとりつつ一〇時間余りのドライブだ。

 根室には、「父」の四〇年来の日本の友人がいる。この前会ったのは、二〇年近く前になるか。

男は温厚で物静かだった。黒目がちの瞳がひどく寂しげだったことが印象に残っている。今度の作戦では、最後の詰めのところでの協力が欠かせない。船乗りとしては申し分ない腕だと「父」は言っていたが、すでに八〇歳をこえているはずだ。どこまで無理が効くか入念に確かめておく必要がある。

 車窓から見える晴れたオホーツク海の風景はのどかで美しいが、どこまでも単調だ。次第にユリアンも気鬱になってくる。

(なぜ俺は、未だにこんなことをしているんだろう? 俺の大事な人を奪った「祖国」なんかのために……)

 アリアンナの命を奪ったのは、FSBロシア連邦保安庁が差し向けた暗殺・破壊工作部門の連中だと「父」からは聞かされている。ホンダに懸想したアリアンナは自らの素性と作戦上の重大な秘密を打ち明けることで西側に亡命しようとしていた。それを察知したFSBの殺し屋どもが手にかけたというのだ。問答無用で命を奪ったのは、漏らそうとした秘密がそれだけ重大なものだったからとのことだ。だが、どんな情報であるかは「父」にも分からないという。

 さらにアリアンナが裏切り者であった事実も隠滅しなくてはならなかった。未遂であれ、諜報員の西側への内通が警察の捜査で公になればFSBにとってもSVRウチにとっても大失態だ。

 アリアンナは、テロ事件に巻き込まれて運悪く亡くなった女性ということにされ、諜報員であることを伏せるため、日本人記者の愛人になっていたという情報が流された。その証拠とばかりに本田と二人で会っている場面の隠し撮り写真も出回った。

兄の「セルゲイ」も存在しなかったものとされ、ユリアンは半年余り、サハリンで「父」の〝私兵〟である国境警備部隊庁の監視下に置かれていた。

 どんな理由があるにせよアリアンナを奪った「祖国」は、ユリアンにとって許すべからざる存在になった。だが、「父」には深い恩義があった。

 ユリアンは、気分が沈むとよく左わき腹がむず痒くなった。そこにはトカレフ弾による貫通銃創を縫い合わせた手術痕があった。トラックのハンドルを右手で操作し、左手でわき腹をかきながらユリアンは思った。

(あの時、「父」に出会わなければ俺は間違いなく死んでいた。アリアンナに出会うこともなかった。「父」は俺に生き直す機会と「生きがい」を与えてくれたんだ)

 ユリアンが「父」と呼ぶ人物。ロシア国境警備隊の一将校から身を起こし、今や極東地域随一の財閥「ルスモスコイ」を築いた男、ドミトリー・ミシチェンスキーである。


 ミシチェンスキーとユリアンは、どのようにして出会ったのか。

ユリアンは、一九八〇年にウクライナで生まれた。首都・キエフ近郊のコルホーズ(集団農場)に属する零細農家の一人息子だった。

 ソ連崩壊の翌年(一九九二年)、ウクライナでは多くのコルホーズが民営化され、余剰人員とされた父は、故郷を追われてモスクワに出た。だが、知り合いもコネもない大都会では日雇いで食いつなぐしかなかった。貧困に耐えかねた母は、飲み屋のアルバイトで知り合った男と駆け落ちし、失意の中で酒浸りになった父も息子を捨てて姿を消した。この時、ユリアンは十二歳——中学校に行きたくても行けなかったことが悲しくて、よく覚えている——秋から冬へ向かうモスクワで、孤児となった。

 急激な市場経済の導入で貧富の格差が広がった時代である。その日の食べ物にも事欠き、子どもを捨てなければならない貧困層が増える一方、モスクワ最大の繁華街・アルバート通りには、欧米の高級ブランド店が進出し、高級品を買いあさる富裕層が押しかけた。特権的な地位を利用して、富にあり着くことが出来た旧共産党関係者や政府、軍部の高級官僚たち。旧支配層はより豊かになっていた。そうした富裕層を狙って孤児たちは、万引きや窃盗を試みた。去年、日本人記者のホンダと飲み歩いたアルバート通りは、少年時代のユリアンにとっては猟場であり、警官たちと追いかけっこを繰り返した場所だった。

 腕っぷしに心得のあったユリアンは、アルバート通り周辺で一端の不良少年グループを率いるようになっていた。だが、縄張りをめぐってマフィアとつながったグループと対立。だまし討ちにあって半殺しの目にあったあげく、トカレフの銃弾を左のわき腹に撃ち込まれた。

 激しい痛みと出血で意識が薄れる中、目の前に立ったマフィアの男がとどめの一発をユリアンの額に撃ちこもうとした時だった。連続して銃声が鳴り響き、その男を含め、周囲にいた数人が血煙をあげて崩れ落ちた。

悪寒が全身を襲い始めた時、大きな腕がユリアンを抱き起してくれた。

ああ、こんな俺にも神さまのお迎えは来るもんなんだなと思って、抱いてくれた相手を見た。そこにいたのが「父」なる人、ドミトリー・ミシチェンスキーだった。ミシチェンスキーは、極東の国境警備部隊庁から一時期、FSB連邦保安庁に派遣され、モスクワ市警と協力してマフィアの壊滅作戦に加わっていたのだ。

 ユリアンを撃った弾丸はわき腹を貫通していたため、大量の出血をともなった。後から聞いたところでは、体重の一〇%以上の血液を失い「出血性ショック死」の一歩手前だったという。

 目を覚ました時、ユリアンは今度こそ天国に来たのかと錯覚した。目の前にブロンド髪の白いドレスを着た五歳くらいの女の子がこちらを見つめていたからだ。これが神さまのお使い、天使という奴か。かわいいなぁ…そんなことをぼんやり考えていると天使が大きな声をあげた。

「ああ! 目を覚ました! よかった! 生き返ったわ! パパの願いが神さまに届いたんだわ!」

(ん? 死んじまったわけじゃないみたいだ。 うっ!腹がたまらなく痛え。ん? 俺、痛みを感じている。ってことは俺は生きているのか! 助かったんだ! ハハハハハ…ざまぁ、見やがれ! 確か、マフィアどもは撃たれてくたばりやがったはずだ! 勝ちだ! 生き残った俺の勝ちだ! ハハハハハ… うう…痛え!くそ、なんて痛ぇんだ畜生!)

 喜びと痛みが絶えず襲う中で、泣き笑いするユリアンを不思議そうに女の子は見つめていた。それがアリアンナだった。この二年前、ガスで一家心中したウクライナ人家族のただ一人の生き残りで、ミシチェンスキーが引き取って育てていた。

 ユリアンが退院するころ、モスクワへの派遣期間を終えたミシチェンスキーは、国境警備部隊庁の原隊に復帰するためサハリンに戻った。その際、ユリアンとアリアンナを伴い、二人は兄妹同然に育てられた。


 稚内港を出ておよそ五時間。夕食を終えた頃には、日はとっぷりと暮れていた。根室まではあと四時間余り。目的地への到着は真夜中になりそうだ。

ユリアンは、トラックのコンテナに潜り込み、シマホッケの入った冷蔵庫を開けた。冷蔵庫内の収納棚の一つを開けると油紙で包装された小包が出てきた。開封すると蛍光灯に照らされて青白く黒光りした拳銃が姿を現わした。ミシチェンスキーが持たせてくれた特注の護身道具、ヘッケラー&コッホP7M8。ドイツ製の自動拳銃で、命中精度は、ロシアのマカロフPMは勿論、西側諸国のベレッタやコルトなどよりも高い。

 ミシチェンスキーは、孤独な男だった。子どももないまま妻を二〇代で亡くし、四〇代までやもめ暮らしを続けてきた。その孤独を癒すことになったのが、モスクワで拾った孤児のユリアンとアリアンナだった。

元来、兵士の素養しかない無骨な男である。その愛情はいかに過酷な状況でも生き残れるスキルを身に着けさせるという形をとった。銃器類の扱い、格闘術の修練などがユリアンとアリアンナの遊びのようなものになった。

加えて英語と日本語の学習が着いてきた。これからユリアンが会いに行こうとしている日本の友人といつか商売をすることをミシチェンスキーは夢見てきた。同じ夢を「息子と娘」にも受け継いでもらいたかったのだ。二人とも高校を卒業する頃には、かなと漢字交じりの高度な文章を読み書きができるほどになっていた。

 ユリアンは八発の9ミリパラぺラム弾を装填したマガジンを差しこみ、スライドを引いた。セーフティロックが解除されないよう軽く銃把グリップを握ってヘッケラー&コッホP7M8を構えてみた。

 やれやれと思ってしまう。

確かに命を助けてもらったのはありがたいし、愛情をかけてもらったことにも感謝はつきない。でも、こんな注がれ方をされては自ずと進むべき道は決まってしまう。ユリアンはサハリンの高校を卒業した後、モスクワのロシア対外情報庁の士官養成機関・対外情報アカデミーに進んで、諜報部員の道に入り、八年遅れてアリアンナも同じ道をたどった。

 刺激と冒険に満ちた日々を懸命に生きたい——その志は、自分よりもアリアンナの方が強かったとユリアンは思っている。それだけに、嘘と欺瞞に満ちた諜報戦の現実に精神を蝕まれる度合いが大きかったことも察しがついた。

『もうこんなところに居るのは嫌、私、カズマのところへ行きたい』

 そういって夜中に深酒をして暴れ始めると手が付けられなかった。今いるところから飛び出さないと彼女の精神は破綻しかねない、とはユリアンも思った。だが、朝を迎えると冷静さをいつも取り戻していた。まさか、本当に飛び出していくとはユリアンは、思いもしなかった。あんな最期を遂げることになるとも。

 銃をコンテナの床に下ろしたユリアンは、アリアンナを奪った「祖国」への怒りがふつふつと湧いてくるのを感じていた。

(今の俺に「祖国」などない。あるのは「父」への恩義だけだ。そう、あの人が「祖国」のために最後のミッションを果たしてほしいと言うから、俺はここにいるんだ……)

 そのミッションとは「父=ミシチェンスキー」にとって大事な日本のパートナーを救うことだ。今、パートナーは罠にかかり窮地に陥っている。罠にかけたのは日本最強の捜査機関だ。恐らく背後にはアメリカがいるのだろう。

 今回の作戦は、アメリカと、日本の捜査当局が仕掛けた陰謀を白日の下にさらすことで、パートナーの名誉回復を図るのが目的だ。

——『あの男は、これからの日ロの国益のために無くてはならない存在なんだ。だから何としても守ってほしい。願いを託せるのはお前しかおらんのだ』——

 目を潤ませながら話すミシチェンスキーの心の内の寂しさと悲しみにユリアンは心を動かされ、命を受けた。だが、「祖国」のために働くのはこれが最後だと決めていた。

 その時、スマホのバイブレーションが作動し、メッセージの着信を知らせた。日本人潜伏協力者スリーパーからの連絡だった。

『今後の作戦で利用できるカードが向こうから飛び込んできた。きみの友人でもある男だ。とりあえず彼に狼煙を上げさせてみることにした』






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