巨獣、牙を剥く②

 街には、独特の匂いというやつがある。

 東京・神田神保町。岩波ホールに接した地下鉄駅の出口から地上に出た本田は、この街に漂う匂いが、以前とは明らかに変わったと思った。

 かつては、古い書物の発するかび臭い匂いだった。それが今や食欲をそそる香辛料の匂いに変わっている。昨今、この界隈にカレーの専門店が増えているからだ。昼どきともなれば人気店の前には、老若男女の行列ができる。

 この日、本田は行列ができる名店のひとつ「ボンディ」に席を予約し、神田神保町にある出版社に勤務する大学の同級生の男とランチを共にすることになった。男の好物が、この店のチーズカレーだと聞き、おごるから相談に乗ってほしいと持ち掛けたのだ。

 だが、おごった相手——「月刊セレクト」所属のライター・矢吹拓也は、好物を口にしたにも関わらず、爪楊枝を口にしながら憮然とした表情を崩さなかった。

「人にモノを頼むときは、まずはうまいものを食わせろ——俺のアドバイス、ちゃんと守っとるようやな」

「ああ、学生時代には散々おごらされたが、円滑なコミュニケーションとるには必要なもんだなと、記者稼業についてからは実感しているよ」

「せやけど、力になれるかどうかは話次第やで。昔からのよしみと仕事の話は別や」

「あんまりお前の触手は動かんのか? 国後太陽光発電問題の背景に、アメリカの諜報機関が関わっているという話は」

「あり得る話とは思う…しゃーけど、どうやって裏をとるんや。CIAさん、これで間違いおまへんかぁ? とか聞きに六本木のアメリカ大使館へでも行くんか? つまみ出されるのがオチやぞ」

「へぇ~、おまえの雑誌も一応、裏どりできるかどうか気にして取材はするんだ…」

「当たり前やろ! 何でも書きゃええ、ちゅうもんちゃうわい! お前、俺のとこの雑誌を何やと思てるねん! 」

「ただ、このケースの場合、相手はCIAだ。いちいち抗議なんかはしてこないだろう。その代わり…」

「サイレンサー付きのピストル持った怖いお兄さんたちがさらいに来るってか? 冗談やないぞ、カレー一杯で、どてっ腹に風穴開けられたんでは割にあわんがな。それにやな、仮に、アメリカが黒崎を排除したいと言うんやったら、江藤も従うしかないやろう。それだけのことやないんか? 」

 矢吹は大阪生まれで、西成区の不動産屋の息子だ。根っからの商売人の家ではない。矢吹の父親は、元は日本共産党員で、日雇い労働者のオルグ活動を行っていた。だが、一九六〇年代に党の主流派から「ソ連派」と見なされて追放された一派に属していため、党の支援を受けられなくなり、やむなく商売を始めたという。

 矢吹は身長が一七〇センチ少々ながら体重は八〇キロオーバー。髭濃く毛深く浅黒く、NHKのマスコットキャラクター「どーもくん」を思わせる体躯の持ち主だ。だが、金で苦労した両親を見て育ったせいか、一見、豪放磊落に見える風貌に反して、損得勘定の判断はいたってシビアである。

 そのソロバンで弾いたところ『CIA陰謀論』だけでは話には乗れないようだ。

 確かに取材対象があまりにも茫漠としていてつかみどころがない。それに国後問題と、矢吹が追っている江藤総理のスキャンダルとの直接的な関りは、今のところ見えていない。

 本田が考えあぐねていると、食後のエスプレッソコーヒーをすすっていた矢吹が口を開いた。

「それより、自白を強要されたかもしれへん黒崎の女性秘書を追いかけたほうがええんやないか? 漏れ伝わってくる話によると、かなりえげつない取り調べを受けたみたいや。彼女の証言を突破口に、検察の暴走の背景に何があるのか? みたいな記事は書けるんやないかとは思うんや。黒崎サイドが保釈金を払ったんで、もう留置所からは出てきてるんやけどな 」

 矢吹は眠そうな表情をしながら新たな取材の道筋を示してくれた。

 CIAらしき連中に拉致されそうになったショックからか、アメリカにばかり目が行っていたが、確かに今、表で動いているのは特捜検察だ。その牙にさらされた女性秘書は黒崎を追い落とす工作に間近で接した生き証人と言える。

「とは言え、女性秘書は相当精神面でショックを受けたそうやから、黒崎サイドのガードも堅くなっとるんや。俺の方から『秘書の方の名誉回復ために取材させてください』と話をもちかけても、全然相手にされへんのや」

 矢吹のねらいが見えてきた。この男も「国後問題」には関心を持っている。それも本田と同じく、問題自体が「黒崎の追い落とし」を意図したものであると見て。

ところが突破口はあるものの、対象になかなか近づくことができない。そこへ関門を突破できそうな奴——本田が飛び込んできた。黒崎とルートのあるこいつをうまく使えば突破口が開けるのでは…と、眠そうな顔をした裏側で、矢吹は計算していたようだ。

「なるほど。CIA云々の話しはともかくとして、お前にとって俺は使い道があるということか……」

「どうや? 力を貸してくれるちゅうんやったら、俺から編集長にかけあって、お前を『国後問題』担当ということで、取材経費も出してもらえるようにしてもええぞ。それにドクターストップが、かかとってお前、当面、東日(新聞)に復帰できるめどは立っておらんのやろ? お前にとっても俺の話しは渡りに船なんと違うか? 」

 カップに残ったエスプレッソを飲み干した矢吹は、カッと目を見開いて本田の間近に顔を寄せてきた。

「北方領土交渉が動くかもしれへんこのタイミングで、これまで金銭問題には無縁やった交渉のキーマンに、振って湧いたようにスキャンダルが出てきた。何か裏があるんやないかと思うてはいたんや。

そこへお前が、CIAと思しき連中に脅されたという話を持って飛び込んできた。これは相当、手の込んだ大きい陰謀めいたもんが背後にありそうや。

真相はまだ深い霧の中やけど、俺は行けるところまで行ってみたいんや! そのためにお前に手を貸してほしいと思うとる。なぁ、頼むわ、力になってくれへんか? 」

矢吹は右手を差し出してきた。浅黒く毛深く、ごつごつとした手だ。本田は、気持ちの高ぶりを覚えながら矢吹の右手を握りしめた。

「分かった。ここはお前の投げる石になってみることにしよう。俺から黒崎さんに、こちらの意図をちゃんと伝えれば、秘書に接触することができるかもしれん」

「よくぞ言うてくれた! それでこそ友達や! まぁ、地獄への道行きになるかもしれへんけどなぁ。水先案内、よろしく頼むわ! 」

 目を細めて満面の笑みを浮かべた顔を見ていると、まんまと矢吹の思惑に乗せられた感がしなくもない。

(こいつも「人たらし」だな…)

 とは言え、今の本田には他に寄る辺もなく、古河恵雄の死の真相に迫る道筋もない。モスクワでも、工作員だったと思われる男女に、故国を離れた孤独感という心の隙間につけこまれた。今度の矢吹との「取り引き」にもどこか似たものを感じなくはない。

(記者を生業にするにしては、俺は人に利用されやすいのかもしれないなぁ……)

 本田は、自嘲の苦笑いを浮かべた。だが、今は、特派員の任を解かれて以来、長く続いた孤立無援の状態から、ようやく協力者を得られたことを素直に喜ぶことにしよう——本田は、エスプレッソの残りをすすりながら、何とか気持ちを奮い立たせようとした。


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