巨獣、牙を剥く①

 黒崎昭造の秘書の逮捕が報じられた日の夕刻、本田は釧路市内のホテルに入った。

 ロビーの新聞雑誌が入ったラックを見ると今月号の「月刊セレクト」が目についた。「周防学園問題」をスクープした月刊誌だ。

 江藤総理の支持団体である「大和フォーラム」の会長が理事長を務める「学校法人周防学園」。一週間前、大学新設のために取得した自衛隊施設の跡地が、公示価格の一〇分の一で払い下げられていたことが「セレクト」の誌上で報じられた。さらに記事では、格安価格での払い下げには、江藤総理の関与があったのではないかと指摘され、今週から国会で、論戦が始まっていたのだ。黒崎の秘書の逮捕は、総理への追及に水を差す絶妙なタイミングで「弾けた」ようにも見える。

 早速、記事に目を通すと思わぬ発見があった。取材チームの中に大学の同級生の名前を見つけたのだ。

 矢吹拓也やぶきたくや—— 同姓同名ということも考えられるが、週刊誌を渡り歩くフリーライターになったと聞いていたから恐らく当人だろう。外見にはあまり気を使わない無精者で、ズングリとした体型と相まって妙に人懐っこいところがある男だった。だが鈍重そうな外見とは異なり、ロシア語の語学力には極めて秀でていて、東京外大を出た後はロシアに留学。ロシアの政府要人や外交官を多く輩出しているモスクワ国際関係大学で博士課程まで進んだと聞いた。

 研究者の道を進むと思いきや、一〇年ほど前に博士課程を中退して帰国。そのままフリーランスのライターになった。留学経験を生かしたロシア・東欧関係の硬軟合わせたルポは出色の出来で、近年はコメンテーターとしてテレビにも出演。その主張は、アンチ保守・親リベラルといったところで、特に「江藤一強体制」には辛口の発言を続けている。  

(こいつなら、ルスモスコイ疑惑の背景にも関心を持つかもしれない……)

 メンタルヘルスの問題で、新聞社で現場復帰するメドが立たない中、本田は、週刊誌記者の矢吹と組むことで、黒崎昭造を追い落とそうとする策謀の真相に迫れないかと考え始めていた。

(あすは札幌に戻って長期で外泊する準備をするか……)

 先々の予定を考えながら夜の腹ごしらえのため、本田は釧路市の繁華街・末広町すえひろちょうへ足を運んだ。日が暮れてから釧路の市街地も霧が濃くなってきた。この街の初夏の風物詩だ。太平洋上の南から流れ込んだ暖かい空気が、北から流れ込む寒流の千島海流に冷やされて発生するのがこの霧だ。肌寒さは感じないが、一〇メートル以上離れると、人の姿も判別しにくくなっている。

 馴染みの居酒屋へ向かって歩いていた本田の前に、霧の中から不意に三人組の男たちが現れた。本田が右手の住宅側に寄って避けようとする右手の男が道を塞ぎ、左手の道側にコースを変えると道側を歩いていた男が近寄って、肩をぶつけてきた。

(酔っ払いか? )

 本田はぶつかった男の顔をみた。短く刈り込んだ頭に、つぶれて縮んだ耳たぶが印象に残った。身を包むスーツの張り詰め具合からは鍛え抜かれた筋肉質な体をしていることがうかがえた。柔道選手のような体型をしている。

 「耳たぶ男」は冷たい光を放った鋭い視線を向けてきた。口元には笑みが浮かんでいる。何か用件があって故意に道を塞いでぶつかってきたらしい。かと言って顔に見覚えはない。周りの男たちも知らない顔ばかりだ。いずれも髪を短く刈り込み、精悍な顔つきをしているが、やくざ者には見えない。

「何なんだ? あんたたち。因縁をつけるなら人違いじゃないのか? 」

 三人相手で空恐ろしくはあったが、繁華街で人目もある。交番からも遠くない。あまり下手に出ることもないだろうと、本田の口ぶりも詰問調になった。

「あんたに用はなくても、こっちには大有りなんだ。特に俺たちのボスがな」

 肩をぶつけてきた「耳たぶ男」はそう言って素早く間合いを詰めて、左手を本田の肩に回し、スーツの懐から取り出したものを右手に持って本田の腹に押し付けた。男の右手に握られていたのは、サイレンサー付きの拳銃——それも日本の警察官が持つ三十八口径のリボルバーではなく、もっと大型で自動式の軍用拳銃ということが本田にも分かった。恐怖のために息がつまり、頭頂部と背中から汗が噴き出てくるのを感じた。

「ここでぶっ放してあんたが倒れても、酔った仲間を介抱しているようにしか見えんよ。車で運んで湿原に死体を捨てればいいだけだ。ただし、大人しく着いてきてくれれば危害は加えない」

 「耳たぶ男」は、軍用拳銃を突き付けながら静かだが断固とした口調で告げた。すぐに殺そうというわけではないらしい。本田が体の力を抜くと、三人は本田を取り囲むようにして歩きだし、一区画先の雑居ビルの地下階段を降りて行った。

 階段は地下一階までで、突き当りには青地に白線二本をクロスさせたスコットランド国旗をあしらった看板が見えた。看板の下には「セントアンドリュース」と書かれている。以前にも来たことがあった。確かスコッチウイスキーがたくさん置かれたバーだったと本田は記憶していた。

 ドアベルを鳴らして木製のドアを開けると、白熱灯の間接照明で薄暗い店内からジャズピアノの音色が聞こえてきた。入って右手には十席ほどのカウンターがあり、カウンターごしにウイスキーやジンなどのボトルが三段の棚にざっと七~八〇本は並んでいた。酒の入った棚に当たる照明は心持ち強めてあって、そこだけがスポットライトを当てたように暗い店内の中で浮かび上がっていた。

 時刻はまだ宵の口。一軒目で腹のふくれた客が飲み直しに来る店だからカウンター席に客の姿は見えない。店の奥には黒い革ソファのボックス席が三つあり、その一つに、真っ白なスーツに身を包んだ痩せた初老の男が一人腰かけていた。三人の男たちはそちらに向かって本田を引っ立てていく。本田に用があるという彼らの「ボス」は、この男らしい。

 腹に拳銃を突き付けた男に押し込められるようにして本田は黒革のソファに座った。テーブルごしに「ボス」の顔を見た。薄暗い照明の中だったが、肌の色が白く、やや青みがかった目をしているのが分かった。顔から首筋にかけて深い皺が幾重にも刻まれ、白髪の頭頂部はかなり薄くなっている。痩せたハゲワシを思わせる風貌だった。

 オンザロックのウイスキーに一口つけてから「ボス」は口を開いた。

「まともな酒が飲める店を探させたんですがね。この店ぐらいしかないということで入ってみたんだが、煙臭い酒ばっかりだ。イギリス人というのはどうして、ああいう煙たい酒をありがたがって飲めるんでしょうかねぇ」

 男は、酒についての蘊蓄を語り始めた。銃で脅迫されているとは言え、相手のペースに飲まれてはなるまい。本田は、男の話しを受けてやることにした。

「ここはスコッチが売りの店ですからね。確かアイラ島のモルトウイスキーが多かったように思います。アイラモルトはスコッチの中でもスモーキーフレーバーがきついですからね。で、結局何にされたんですか? 」

「バーボンですよ。ジャックダニエル。こいつはまず外れがない」

「なるほど、普段から嗜んでいるものに勝るものはありませんか。すると、おたくたちは、やはりアメリカからお越しになったということですね? 」

 本田を取り囲んだ男たちの間に緊張が走り、先ほどまで軍用拳銃を突き付けていた「耳たぶ男」が再び、スーツの懐に右手を入れて銃(グリ)把(ップ)をつかんだ。「ボス」は、苦笑いしながら右手でグラスをかざした。「気にするな」というサインらしい。

「病人とは言え、さすが東日とうにち(新聞)の記者さんだ。古河の父親に話を聞いただけで、我々の存在に勘づかれたとはね」

 彼らは、ずっとこちらの行動を監視していたようだ。本田は動揺を抑えながら会話に応じた。

「北方領土の交渉が、黒崎昭造の手で進むことになったら、日本がロシアに接近しすぎてしまう——お国の事情からすれば、黒崎にこれ以上立ち回られるのが目障りなのは想像がつきますよ。おたくたちの国益に反する政治家が社会的に葬り去られるとき、必ず特捜検察が動く。昭和の疑獄事件以来の伝統でしょう。

まぁ、そもそも特捜検察は元をたどれば、GHQが旧日本軍の隠匿物質を摘発するために作らせた組織だ。幹部には、駐米大使館の勤務経験者も多い。今度の件で、改めて子飼いの組織なんだなぁと実感しましたよ」

 本田は相手を挑発してみたつもりだったが、「ボス」は変わらず余裕のある笑みを浮かべていた。

(どうやら基本的なことは分っているようだな…)

とでも、品定めするかのようだ。いら立ちを覚えた本田は、最も引っ掛かっている疑問をぶつけることにした。

「でもね、私が分からないのは古河のことだ。何で彼まで手にかける必要があったんだ? 」

「古河を手にかける? 」

「〝ルスモスコイ・スキャンダル〟も黒崎を追い落とすためにあなたたちが仕掛けたことだったんでしょう? まずは古河を追い詰めてその後、本丸の黒崎を叩くつもりだった。でも、古河を、それも家族ともども殺すというのはあまりにひどい」

「なるほど……ある程度正しい読みですが、分析としては五〇点といったところですね」

「何だと? 」

「古河を葬り去ることで一体誰が得をするのか、もう一度考え直されたほうがいいですよ。

だいたい今どき、この大事な同盟国で、明らかに殺しと分るような工作を我々がやると思いますか? 中国やロシアじゃあるまいし。我々はもっとスマートな仕事を信条としているつもりですよ。ハハハハハ……」

 ひとしきり嗤った後、ボスは急に堅い表情になった。青みがかった目に冷たい光が宿ったように思われた後、淡々とした口調で話しを続けた。

「ですから、悪いことは言いません。これ以上『国後問題』に関わるのはおよしなさい。今、殺しと分るようなことはしないと言いましたが、我々がったと分らないようにターゲットを片づける方法ならば、いくらでも心得ておりますから」

嘲笑と脅し。そう、日本人など脅しさえすれば何でも言うことを聞く。アメリカの諜報機関——恐らくⅭIAであろう——が日本人をどんな目で見ているのか、本田は間近に接することで実感した。

 しかし、古河殺しについての問い掛けへの答えをどう捉えたらいいのか。否定しているようでもあるが、額面通り受け止めていいのかどうか。欺瞞情報を流して追及の矛先をかわし、逆に工作を仕掛けるのは彼ら、アメリカの諜報機関が最も得意とするところだ。

 やがて「ボス」は、話を切り上げるかのように、ジャックダニエル・オンザロックの残りを飲み干し、グラスをテーブルに置いた。

「用件はお伝えしましたので、これで退散いたします。不快な思いもされたでしょうから、お詫びに一杯おごらせていただきましょう。何になさいますか? 」

「とてもそんな気分にはなれませんよ。それにあんた、これで俺が引っ込むとでも思っているのか?」

「ほう、かえって闘争心に火がつきましたか? それもまた結構。あくまで『国後問題』を追いかけるおつもりならば、あなたは私たちの敵を釣るエサにもなっていただけるということですから」

「エサ? 」

「ええ。『国後問題』を追うことは東京地検特捜部、ひいては背後にいる我々を追うことですからね。そんなあなたには、必ず私たちの『真の敵』が接触してくるはずだ。まさに敵をあぶり出すエサということですよ」

本田が、言う通りに退けばよし。仮に立ち向かってきても、自分たちの有利になるように利用すればいい—— いつの間にか諜報機関が仕掛けた罠に絡めとられてしまっていることに、本田は怒りとも無力感ともつかない感情に襲われていた。

本田の内心の動揺をよそに、のんびりした様子でボックス席から立ち上がった「ボス」は、ふいに思い出したように口を開いた。

「おっと、すっかり自己紹介を忘れていました。いわゆるコードネームしか名乗れませんがね。『イーグル』という名前を頂いています。我が国の紋章。いやはや何とも恐れ多いことですが」

 部下たちがすでに勘定を済ませておいたらしい。『イーグル』と名乗った工作指揮官ケースオフィサーは、つぶれた「耳たぶ」の男をはじめ三人を従えて悠々と店を出て行った。一人残された本田は、緊張の糸が切れて倒れるようにボックス席にもたれかかった。

 不可解だった。諜報機関の者が自らの素性を名乗って現れるなど通常は考えられない。かと言って、いたずらとは到底思えない。あれは本物だろう。

 あのイーグルという老人は、本田が「真の敵」をあぶり出すエサになるとも言っていた。

(どういうことだろう? 俺がこれからやろうとしていること——黒崎昭造の追い落としの背景を探ることが、彼ら(CIA)の敵を利するということなのか? では、敵とは何者なのか? )

 いずれにせよ、記者としての再起をかけて友の死の背景を探ろうとしたが、それは列国間の諜報戦に巻き込まれる道につながっていたらしい。

 身の安全を考えれば、何も見なかったことにして引き下がるしない。だが、それでは生きる目標を失い、精神病治療を続ける日々に逆戻りだ。

(このままじゃあ、俺は二度と記者として立ち上がれなくなるんじゃないか……)

 四〇歳。夢を見るほど若くはないが、このまま無為に生きるほど年老いてもいない。本田は腕を組み、固く目を閉じて考え続けた。

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