老人の海②
根室市の入り口にかかる
時刻は午後三時過ぎ。途中、昼食休憩を挟んで札幌からは七時間余りのドライブだった。疲労が肩と首筋に鈍痛をもたらしている。本田は首筋をもみながら直売店に入り、バックヤードに向かった。店内には、風連湖で採れた魚の干物や、五月に入って
『……午後三時ごろには、採れた貝を持って直売所に行っているはずだ……』
電話で話していた恵作の言葉に従い、時間を見計って訪ねてみたのだが、バックヤードに恵作の姿は見当たらず、小柄な人影が一つ、貝についた砂利を洗い流す後姿が目についただけだった。
歩み寄る本田の足音に気づいて身長一五〇センチほどの背中が振り返る。中学生くらいの少女だった。ややえらの張った顔の輪郭と太い眉毛に父親と祖父の面影があった。これが恵雄の娘だろう。
「美咲さんですか? 私、本田と言います。お父さんとは小中学校の同級生だった者です」
本田は、極力優しい口ぶりで話しかけたつもりだったが、少女の太い眉は吊り上がり、警戒の色が濃くなったことが分かった。目つきの鋭さに気圧されて、本田も二の句を継げなくなった。尚も少女は黙ったまま本田を睨みつけてくる。無口なところも父親譲りということか。恵雄の場合、無口でも人懐っこい表情からこちらを受け入れる姿勢が感じられた。だが、この少女の心は固く閉ざされていることが伝わってきた。彼女が目にした惨劇のことを思えば無理もないとは思うが。
「おう、いい頃合いで来たな一馬。ちょうど貝の納品が終ったとこだ。美咲、この人はお父さんの友だちだ。そんな怖い顔して睨むもんでねえ」
救いの声の主は、恵作だった。美咲の表情が幾分緩み、本田は強い緊張から解放された。
恵作と直接顔を合わせるのはほぼ二〇年ぶりだ。記憶にある姿よりも随分痩せたが、背筋は真っ直ぐに伸びて歩き方もきびきびしている。よく日に焼けて顔つきも海の男らしい精悍さを失っていない。恵雄は四〇歳の時の子どもだったというから、今年で八〇歳になるはずだが、年齢よりも随分若く見える。
恵作の目には、何者をも包み込むような温かみが感じられた。その温もりが美咲の心にも伝わるようで、恵作に問いかける声にはどことなく甘えるような響きがあった
「爺ちゃん、誰? この人? 爺ちゃんも知ってる人? 」
「恵雄の小さい頃からの友だちだ。今のお前の歳ぐらいまで一緒に干潟で貝を採りに行ってたんだ」
「へぇ~ 」
「貝を採るのは、恵雄の方がうまかったな。そのことをいつも悔しがってた。美咲、ちょうど今のおまえみたいにな。ハハハハハ……」
「爺ちゃん! もう、余計なこと言わなくていいから! 」
美咲の顔が心持ち紅くなった。先刻まで、氷のように蒼ざめた顔から十代の少女らしい恥じらいのある顔つきになって本田もほっと気が休まった。
「美咲、今日はもうこれで上がりにしろや。来週から学校も始まるし、遅れた勉強も取り戻さんといかんだろう。さぁ、おつかれさん! 」
「は~い! 」
美咲は、照れ笑いしながら本田に頭を下げてバックヤードから直売店の方へ歩き去った。見送る恵作の視線は相変わらず温かだった。
「親父さん、助かりました。なかなか年ごろの女の子と接する機会なんてないもんだから、僕もどう話していいか……」
「どこでどう嗅ぎつけてくるんだか、もう何人も新聞や週刊誌の記者が現れてな。あの子も何度か追い掛けまわされとる。おかげでパニック状態になっとったんだ。ここ数日で漸く落ち着いてきたんだがの」
打って代わって恵作の声は沈み、横顔は俯きがちになった。
「冷や冷やもんだったぞ。お前がまた、新聞記者だと言ったら、どうなったことか……」
「すみません。ご心配をかけて」
本田は、慌てて頭を下げた。
「お話しした通り、今、僕は休職中で記者はやっていません。ここに来たのも記事にしようと思ったわけじゃありません。恵雄があんな亡くなり方をして、しかもそこに黒崎さんが関係しているって言うじゃないですか。どういうことなのか、何としてもお話がうかがいたくなって…」
間近で見ると短く刈り込んだ髪の毛は真っ白で、白い無精髭に覆われた恵作の横顔には心労の影が色濃かった。恵作は暫し無言でしゃがんでいたが、やがて意を決したよう立ちあがると黙って顎を振り、本田に着いてくるよう促した。
漁協の直売店を出て駐車場を抜け、道道44号を渡ると目の前にはオホーツクの海が広がった。札幌から来た本田には、吹き付ける海風は冬の冷たさをまとっているように感じられた。海上には雲と霧が垂れ込めて、対岸にある国後島の姿は見えない。
「わしが生れたのは、国後島の
恵作の口から出てきたミシチェンスキーとは、「ルスモスコイ」現会長のドミトリー・ミシチェンスキーのことだった。国境警備隊に勤務していた頃のミシチェンスキーと恵作は、東西冷戦下の北方領土周辺海域で生まれた奇妙な縁で結ばれることになったという。
「レポ
昭和五二年(一九七七年)三月、旧ソ連は領土の沿岸二百海里を自国の専管漁業海域であると一方的に宣言した。そのため千島列島からカムチャッカ沖に至る海域での日本のサケ・マス、スケソウダラ等の漁は大幅に制限されることになり、根室、釧路をはじめ北海道の水産業界は大打撃を受けることになった。
その頃に現れたのが、防衛関係の情報をソ連国境警備隊に渡し、二百海里内での操業を見逃してもらうことで利益を確保しようとする日本の漁船群——レポ
「北方の海で漁を終えた後、こっそり国後の警備隊本部に寄って、防衛関係情報のレポートを渡しに行くんだ。合わせて相応の金品もな。すると二百海里内でソ連の警備艇に見つかっても見逃してもらえる闇の許可証がもらえる。二、三か月ごとの更新だったから、それくらいの頻度で国後詣でをしたもんだ」
「じゃあビザなし交流で国後に行く前から……」
「ああ、レポをやっていた頃は年に三、四回は
白い無精髭に覆われた恵作の顔に笑みが浮かぶ。いたずらがばれて罰が悪そうな悪童のようでもある。
「ミシチェンスキーはなかなか気のいい奴だったよ。あいつの両親はウクライナの生まれで、第二次大戦中にドイツ軍から逃れて命からがら樺太にやってきたらしい。そのせいか、故郷を追われたわしの境遇にも同情してくれてな。ちょうど警備隊の武器庫があるあたりがかつての日本人墓地なんだが、出入りするのに便宜を図ってくれたよ。
『おれはユダヤ系だから、本当はソ連という国の権威を笠に着るようなことはしたくない。もっとあんたらとも対等に商売がしたいんだ』とよく言ってたな」
北方領土交渉で日本側にとって最大の抵抗勢力とされるミシチェンスキーについて興味深い証言だった。だが、恵作たちがレポ船に手を染める一方で、二百海里時代に国同士の取り決めに従い、廃業に追い込まれた漁業者が多かったことも事実だ。黙って険しい表情をする本田の内心を察したように恵作が話を続けた。
「確かにまじめに二百海里を守って廃業したり、首を括った漁師もいた。そんな連中もいるのにソ連に情報売っているお前らは売国奴だと面と向かって言われたこともある。腹も立ったし情けなかったけど、女房・子どものためには仕方ないと思ってたんだ。ところが、
レポ船を始めて五年ほどで女房がガンでぽっくり逝っちまった。
やっぱり罰が当たったのかなと思ってな。レポ船からは足を洗って、
やがて東西冷戦が終結し、ソ連が崩壊するとともにレポ船は姿を消した。そして、北方領土周辺海域での漁業は、「安全操業協定」の時代を迎える。
「安全操業協定」とは、北方領土に対する日ロ両国の法的な立場を侵さないことを前提に、日本側が入漁料を支払うことで周辺海域での日本漁船の操業をロシア側が認めるというものだ。平成一〇年(一九九八年)五月に締結され、以後、北海道水産会とロシア連邦漁業委員会、同国境警備部隊庁の間で毎年、操業水域・漁獲枠・魚種について覚書を交わすことになっている。日本からロシアへ支払われる入漁料は、二〇〇〇年以降は年間三千万~四千万円。これとは別にサハリン州に対して、毎年二億四千万円の支援金も支払われている。
経済負担は伴うものの、これで平和に漁が出来る時代になる——と思ったら大間違いだった。折からのロシアの経済危機で生活苦に陥った国境警備隊が、日本漁船に銃撃を加えて拿捕し、魚介類や金品を奪う事件が、「安全操業協定」締結後も相次いで起きたのだ。
「状況はむしろレポ船の頃よりも悪くなった。何とか国境警備隊の連中との間で手打ちをしなくちゃいかん。その頃、ミシチェンスキーは警備隊の高級幹部になってたんだが、北海道水産会の連中がどこからか、わしが奴と親しいことを聞きつけてきて、直談判してくれないかと言ってきたんだ」
「引き受けたんですか? 」
「レポ船をやってきた後ろめたさがあったし、罪滅ぼしになるかと思ってな。それで当時始まったばかりのビザなし交流で国後島に渡って、密かにミシチェンスキーと交渉することになった。その時、一緒に国後に行った政治家がいる」
「それが、黒崎さんだった? 」
「千島協会の会合で会った時に、ミシチェンスキーに会わないかと持ち掛けたら、ぜひに、と言って乗ってきた。まだ黒崎も議員になって二期目ぐらいの頃だ。北方領土問題で何か成果を上げたいと思っていたんだろうな」
「で、親父さんの仲立ちで黒崎・ミシチェンスキーの秘密会談が行われた? 」
「ミシチェンスキーの申し出は食い詰めた国境警備隊の部下を食わせるために、日本から融資の金をくれ、ということだった。その金で部下を雇い、魚を獲って加工して輸出販売する会社を興す。そうでもしないと部下が日本の漁船を銃撃・だ捕するのを押さえられんと言うんだ」
「それで、ミシチェンスキーの申し出に黒崎さんは乗ったんですか? 」
「ああ、黒崎は外務省にかなり圧力をかけて億単位の対ロ経済支援金を引き出させた。その殆どがルスモスコイの設立資金になったと言われている」
「それは問題なんじゃないですか? ロシアの一私企業のために日本の国費が使われていたなんて! 」
「だがその後、漁船の銃撃やだ捕は起こらなくなった。対ロ支援事業は、特に経営が危なかった道東や道北の企業を持ち堪えさせることにもなったんだ。黒崎が国から引き出した金は、決して捨て金になったわけじゃねぇ。
ミシチェンスキーと話しを終えた後なぁ、黒崎は言ってたよ…」
恵作は再び顔をオホーツクの海辺に向けて、霧の彼方に国後島を探すような遠くを見つめる目つきをしながら話を続けた。
「親父さん、あんたらは国が無策だったから売国奴扱いされたけど、俺はあんたらの倅たちにはそんな情けない思いはさせねえ。ロシア相手にまともな生業ができて、その先に
ふん! 浪花節もいいとこだが、事あるごとにその浪花節を聞かせたせいかな、恵雄は黒崎を慕って事務所に出入りするようになった。やがてミシチェンスキーとパイプが出来て、ルスモスコイの工作機械や漁具の修理を請け負う会社を立ち上げたわけだが…国を売らずに済む、まともな生業が出来るようになったはずだったんだがな…それが、最期は…俺と同じように売国奴だ、国賊だって言われながら…」
恵作の言葉は震えて、途切れ途切れになっていた。白い無精髭に覆われた頬には光るものが見えた。
やがて一陣の強風が吹きつけたために本田は目を瞑り、顔を俯けた。再び本田が顔を上げたとき、恵作は涙目ながらも、強い意志を感じさせる眼差しを本田に向けていた。
「恵雄は、自分がスキャンダルの標的になった時、背後に黒崎を追い落とそうとする者の影を感じたんじゃないかと俺は思っている。途轍もない巨大な力を持つ者の影をな。その連中から何とか黒崎を守るためにスキャンダルを一身にかぶろうとした。そう思えてならねぇんだよ」
その時、本田のスマホがメールの着信で震えた。液晶画面を見るとニュース速報だった。
「東京地検特捜部が黒崎昭造外相の公設秘書を逮捕。収賄容疑か」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます