老人の海①

 眼前の風景は白い霧に覆われていた。

そして、どこからか若い女のすすり泣きが聞えてくる。嗚咽に交じって何かを呟く声も聞こえてきて、次第に鮮明になっていく。

『寒い……暗い……寂しい…… お願いカズマ、私のところへ来て……』

 本田は、自分の名を呼ぶ、若い女の声をはっきりと聞き取った。しかもロシア語で。

(馬鹿な。彼女の声が聞えてくるはずがない。これは幻聴だ)

 しかし、両手で耳を塞いでみても声は小さくなるどころか、ますます大きくなっていく。

白い霧は次第に赤みを帯びて本田の視界を覆い始めた。

 やがて赤い霧の中から黒い人影が現れた。顔は美しいブロンドの白人女性だ。その表情には、すがり付くような寂しさと悲しみが浮かんでいる。

 『寒い……暗い……寂しい……』

 繰り返し同じ言葉が聞こえてくるのに、女は口を閉ざしたまま悲し気な視線を送り続けている。ふと女の顔から下に目を移すと胸元あたりから赤い霧が勢いよく吹きだしていた。まるで傷口から激しく流れ出した血が止まらないかのように。

 そうだ。モスクワの日本庭園で。俺の目の前で彼女はテロリストに射殺されたのだ。

 さぞ、苦しかっただろう。怖ろしかっただろう。誰がきみをこんな目に遭わせたのだ。アリアンナ……。


 窓から差し込む陽ざしで本田は目を覚ました。すでに陽は中天に近く、時刻は昼近くになっていた。半身を起こすと、枕元にある抗うつ剤と睡眠導入剤の入った袋が目についた。ここ数日、睡眠不足気味だったので、昨夜は眠剤を多めに服用したのだったが、かなり寝過ごしたようだ。すっかり生活リズムが崩れてしまったことに改めて自己嫌悪が募った。

(一体、俺は何をしているんだろう)

 札幌中心部にほど近い中島公園を望む自宅マンションのベッドで本田は項垂れていた。

(あれからもう半年がたったか……)

 あれから——つまりアリアンナが射殺された事件のことだが、その後の展開は本田を奈落の底に突き落とすものだった。

事件は正体不明のテロリストによる襲撃だったにもかかわらず、ロシアのメディアでは殺害されたアリアンナと一緒に出歩く本田の写真が何枚も掲載されて、二人が不倫関係だったという記事が大々的に報じられたのだ。一方で、アリアンナが銃を所持していたことや諜報部員である疑いには一切触れらなかった。

 しかも、モスクワ市警の取り調べを受けている中で、本田は衝撃的な事実を知らされた。アリアンナは、十年前にガスで一家心中した家族の生き残りで身内は皆、亡くなっているというのだ。セルゲイという兄もおらず、養父に当たる者もいない。

(黒崎さんの感が当たった。やはり、俺は騙されていたわけか……)

 臍を噛む思いだったが、本田には事態を嘆く余裕はなかった。

ロシアメディアが報じた日本の大手新聞社特派員のスキャンダルに日本のメディアも食いついたのだ。大衆紙や週刊誌、テレビのワイドショーで本田とアリアンナの不倫報道が流れ、東日新聞社には抗議の電話や投書、一部では不買運動も起こる事態になった。

 本田はアリアンナとの不倫など事実無根だと社の上層部に訴えた。ところが、疑惑を否定している情報もなぜか社外に洩れて報じられてしまった。結果は、却って往生際の悪さを叩かれることになった。

『これほど社の信用を失墜させた者を特派員にしておくわけにはいかない——』

 前澤モスクワ支局長の上申を本社も受け入れ、本田は特派員を更迭されて帰国を命じられ、人事部預かりという立場になった。

 その後、本田は亡くなったアリアンナの幻聴・幻覚に悩まされるようになった。精神科医から「統合失調症」の診断を受けて休職になったのは三か月前のことだった。

 さらにロシア人女性の幻影に付きまとわれる本田に不信感を拭えなくなった妻が家を出て行ったのは一か月前のことだ。札幌市内では、漸く根雪も解けて春の兆しが見え始めていたが、本田は先の見えないどん底状態の中で、自宅にひきこもる生活を送っていた。

 何も後ろめたいことなどないはずだった。だが、精神科医の診断では、アリアンナが目の前で亡くなり、自分だけ生き残ったことが罪の意識となって本田に心的外傷後ストレス障害を引き起こしているという。

(四〇歳、不惑の男と言っても、存外脆いもんだ……)

 すっかり無精髭が伸びて青白くなった本田の顔に自嘲の笑みが浮かんだ。

 本田は、ベッドから這い出してテレビのスイッチをつけた。鬱々とした気分を少しでも転換できたらと思いながら。

 画面には、札幌中心部から西に六㎞ほど離れた中央区宮の森の住宅街が写った。画面奥に大倉山スキー競技場のジャンプ台が見え、手前に広さ一〇〇坪はあろうかと思われる三階建ての邸宅が大写しになっている。多くの報道陣の息づかいや車両の行き交う音。上空を飛ぶヘリコプターのプロペラ音も聞こえている。

 一週間ほど前から大写しになった邸宅に住む男に日本中の関心が集まっていた。

 古河恵雄ふるかわけいゆう、四〇歳。

札幌市内で貿易会社「古河通商」を経営している。古河通商の主な取引先は旧ソビエト連邦諸国。新生ロシア建国時に成り上がった新興財閥オリガルヒの経営者たちとつながりを持ち、最大の取引相手はサハリンに本社を置く「ルスモスコイ」だった。

 創設者は、元国境警備隊の将校だったドミトリー・ミシチェンスキー。

「北方領土の帝王」とも呼ばれ、日本への北方領土返還に最も強硬に反対しているとされている。

 古河は、一九九八年のロシア経済危機を契機に始まった北方領土支援事業を通してミシチェンスキーと関係を深め、択捉、国後で建設された水産加工場への工作機械の納入とメンテナンス事業を一手に引き受けた。その後もスケソウダラなどの加工品を日本や欧米の外食・流通チェーンに仲介するビジネスを展開し、巨額の利益を得たとされる。

 折から、日本の江藤政権とロシアのベゾブラゾフ政権の間では、北方四島のうち、歯舞群島と色丹島の「二島返還決着」をベースに領土交渉が進められようとしていた。だが、ミシチェンスキーはなお一切の領土返還に反対する姿勢を崩さなかった。 

日ロの領土交渉に立ちはだかる最大の抵抗勢力・ミシチェンスキー。それと結託して巨万の富を築いた「国賊」とも言うべき男・古河。

 このひと月前、週刊誌がその関係を報じ、「ルスモスコイ・スキャンダル」報道が始まった。さらに先週、このスキャンダルを真っ先に報じた週刊誌の記者が、北海道根室市で水死体となって発見された。記者は古河の親族を取材しようと出身地の根室に向かったと見られ、死体発見の前日まで古河も根室に滞在していたことが地元紙で報じられた。また、北海道警が任意で古河の事情聴取を行ったことから、「ルスモスコイ・スキャンダル」は古河による殺人疑惑となってにわかに熱を帯び始めたのだ。

そして、疑惑の男・古河は、本田にとって小中学校で同級の幼馴染みでもあった。

(あいつがロシアの新興財閥オリガルヒ相手に大もうけした商人になったなんてなぁ……)

 古河恵雄とのつきあいは、本田が高校入学とともに故郷の根室を離れてから殆どなくなった。記憶にあるのは小柄で気弱そうな口数の少ない少年だったこと。いつも寂しげな表情を浮かべていたことが印象に残っている。古河も、本田と同じく幼少期に母親を亡くしていた。幼くして母親を亡くした者同士、同じ心の痛みを抱えていたからか、二人は自然と親しくなり、休みともなれば本田はいつも古河と一緒に遊んでいた。

 本田が過ぎし日の思い出にふけっている中、テレビからは異変の発生を知らせるざわめきが伝わってきた。

「どけ! お前ら、そこどけ! わしらここの住人に用があるんじゃ! そこ、どけ! 」

 中継のテレビマイクは、男の怒声をはっきりと拾っていた。

 間もなく画面には、二人の男が映し出された。いずれも肩からゴルフクラブ用のケースを下げている。高級そうなスーツを身に着けているが、首から上に乗った顔はとても堅気の者とは思えなかった。何か興奮剤でも服用しているかのように二人はいきり立ち、正面玄関の前で中に向かって怒鳴り声を上げ始めた。

「おいこら、古河! 中に居るのは分かっとるんじゃ! 貴様の所業は国賊そのもんじゃ! これから天誅を加えてやるけえ、覚悟せえやぁ! 」

男たちは一旦、ケースを地面に置いた後、中から長さ一メートルほどの棒状のものを取り出した。一見木刀と思われたが、どうやら真剣を収めた白鞘のようだ。取り囲んだ報道陣のざわめきが一層大きくなった。

「待っちょれやぁ! 今、行くけぇ! 待っちょれやぁ! 」

 ひとりがヒステリックな声を張り上げた後、男二人は、そろって刀の白鞘で玄関のガラス戸を叩き割り始めた。ガラスの割れる音が大きく響き渡る一方、呆気にとられたように周囲の報道陣は静まり返っていた。

ガラス引き戸の鍵をかける部分が叩き割られると男のひとりが、割れ口から手を入れて中のロックを解除。引き戸を開けると、二人は白鞘の刀を手に家の中に踏み込んでいった。


 二〇一八年四月二日の正午ごろ、札幌市中央区宮の森の住宅に男二人が日本刀を持って乱入。世帯主である貿易商の古河恵雄(四〇)と妻を斬殺した。両親が凶行にさらされる間、ひとり娘で長女の美咲(一四)は、トイレに隠れて難を逃れた。

 古河夫婦を殺害した二人の男たちは、犯行後、表玄関に現われ、カメラの放列の前に姿をさらした。それぞれの手には血に染まった日本刀が握られ、顔とスーツの上着は返り血で赤く染まっていた。暫し仁王立ちしていた二人は、互いに顔を見合わすと刀を持った手を突き上げて雄叫びを上げ始めた。

「国賊に天罰を与えてやったぞぉ! やったんは俺たちや! 逃げも隠れもせん! 天誅やぁ! 天誅やぁ! 」

 返り血で赤く染まった顔をさらに紅潮させながら大声を張り上げる男たちの姿はおぞましくはあった。だが、本田はどこか芝居がかったものを感じていた。「国賊」「天誅」といった言葉を使い、さも自分たちを民族派の行動右翼であるかのように印象づけようとしているように見えたのだ。

 本田のこれまでの取材経験上、行動右翼の連中は、団体として声明が発表されるまでテロを敢行した者は沈黙を守るか、自決を図るケースが多い。こんな顕示欲に満ちた言動をとることはあまり考えられなかった。自分たちの出自を偽り、背後の黒幕の正体を気取らせまいとする作為があるように思えたのだ。

 そんな本田の直感を裏づけたのが、事件の翌日、根室で漁師をしている古河恵雄の父・恵作に電話した時に聞かされた言葉だった。

『……恵雄があんな騒ぎに巻き込まれたのは、黒崎昭造を守るためだったんじゃないかと思うんだ……』

 世間を騒がした「ルスモスコイ・スキャンダル」に外相・黒崎昭造が関係している可能性がある。本田は、古河恵作が住む根室へと向かった。

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