晩餐会の夜に④
ロシアの短い夏が駆け足で過ぎ、急速に秋が深まり始めた九月末。
モスクワを訪れた江藤総理とベゾブラゾフ大統領の間で行われた会談は、黒崎が恐れていたとおりの展開になった。
「シンサク、僕はきみのことを信用していいのか、分からなくなったよ」
会談冒頭から『ベゾ』大統領は顔を紅潮させながら怒りを江藤総理にぶちまけてきた。
曰く、せっかく二人で歯舞・色丹の主権について話し合いを進めてきたのに、貴国の外務大臣は、国後・択捉を含めた四島返還を唱えている野党関係者と会合を持っている。貴国の真意は一体、どこにあるのか? 国後・択捉までよこせというのでは、これまでの話し合いの意味がなくなるではないか!
赤鬼のような形相で迫る『ベゾ』大統領に対して、江藤総理はひたすら恐縮して弁明に追われる形になった。
——黒崎外相は、野党関係者から一方的に話をもちかけられただけであって「四島返還」に同意するようなことは何も言っていない。領土交渉は、「ワシリーとシンサク」の信頼と友情の上にたって今後も進めていくつもりだ——『ベゾ』大統領の怒りを鎮めるのに必死な江藤総理の姿を、大統領官邸で取材にあたっていた本田は冷ややかに見つめていた。
(まるでお目こぼしを頂こうと必死な乞食だな。でも、これで『二島返還決着』というシナリオも先が見えなくなってきた。歯舞群島と色丹島だけが還ってきても、その先がないんじゃ仕方ないと思っていたけど、二島すら危うくなってくると、これは……)
本田の脳裏を納沙布岬から、霧のたちこめた海の向こうに霞む島影を見つめる祖母・輝子の姿が過った。
一緒に故郷・北方四島に帰ろうというのが合言葉だった元島民たち。だが、元島民たちの中には、たとえ二島あっても生きているうちに故郷の返還が実現してほしいという思いもあるのではないだろうか。
(婆ちゃんたち引き揚げ経験のある人たちの本音はどこにあるのか。一度、きちんと話を聞かなきゃいけないな……)
本田が祖母への思いにかられていた時、マナーモードのスマホが唸りを上げた。ディスプレイを見るとアリアンナからだった。
「もしもし、こんにちは、お久しぶり。日本から首相が来て忙しいところごめんなさい」
「いや、その……こちらこそ、黒崎外相のレセプションでは、大活躍してもらったのに。その後は、無しの礫で申し訳なかったね」
「いいのよ、気にしないで。あの……実は、直接会ってご相談したいことがあるの。できるだけ早く。忙しいとは思うんだけれど」
一瞬、アリアンナから誘いがきたことに本田は心浮き立つものを感じた。だが、スパイとして疑えという黒崎からの警告がある。安易に接触するのは避けるべきだろう。
「すまない、江藤総理がモスクワに滞在する金曜日までは取材が続くんでね」
「夜、ほんの少しの時間でいいからいただけないかしら? 」
何か焦っているようだ。どう捉えたらいいだろうか。
これまでの行状を考えればアリアンナをただの一般市民とは思わない方が賢明だ。
夜ではなく昼間。それも人出の多い場所で会った方が、先日のハニートラップ未遂のような目に遇う危険は少ないだろう——本田は、机周りにあった新聞の行楽情報に目を通した。植物園で秋バラが見ごろか……
「平日はちょっと難しいな。土曜日はどう? モスクワ中央植物園でバラが見ごろらしいから一緒に見に行かないか? 」
「そう……分かったわ」
本田の答えに落ち込みが隠せない感じだ。何か困ったことが起きたようにも思える。
「電話では話せないことなのかい? 」
「ええ……誰かに聞かれる危険は避けたいものだから」
盗聴を恐れている。もちろん
「込み入った事情があるようだね。分かった。レセプションの借りもある。出来る限り力になれるようにするよ。土曜のお昼一二時に、植物園の入り口でいいかな? 」
「ありがとう。とても心強いわ。忙しいところごめんなさい。じゃあ、土曜日にまた」
電話を切る時の声を聞いていると不安や心細さを抱えている感じが伝わってきた。アリアンナに何があったのだろうか。
それからの二日間は、江藤総理が日本刀の贈り物をしたら、ベゾブラゾフ大統領は、モスクワ郊外の別荘に案内して秘蔵のワインをプレゼントするなど、「ワシリーとシンサク」のお友だちパフォーマンスが続いた。
仕事とは言え空虚な時間が続く中で、本田は、アリアンナが伝えてきた不安と焦りが何からくるものなのか、考え続けていた。
土曜日は朝方、霧雨模様だったが、お昼ごろには晴れ間が見えてきた。
植物園の来園者は殆どが高齢者だったので、アリアンナを見つけるのにも苦労はしなかった。
ベージュ色のジャケットの下には、淡いピンクのワイシャツ。デニムのジーンズにカーキ色のショートブーツ。シンプルで飾り気はないが、気品が感じられる。
本田に気づくと精一杯の笑顔を作りはしたが、顔色は青白く、ひと月前と比べて明かに頬がこけていた。
お昼どきだったので、二人は近くのカフェでランチをとることにした。
「午前中は雨で心配だったけど、晴れてきてよかったわ」
「そうだね」
「ここの植物園のローズコレクションはヨーロッパ一と言われているから一度見てみたかったの。誘ってくれてうれしいわ」
急用があるので会いたいと言っていながら、アリアンナは本題に入ろうとしない。店内が混みあっているので話を聞かれるのを心配しているのか。或いは、話をすることをためらっているのか。本田は、敢えて相談事が何なのかを問わずにアリアンナの様子をうかがうことにした。
互いに腹を探ろうとしていたためか、男女のひと月ぶりの逢瀬にも関わらず会話は弾まない。食後のお茶もそこそこに二人は植物園に向かった。
モスクワ中央植物園。正式名称ロシア科学アカデミー植物園は総面積三六〇ヘクタール。ヨーロッパ最大の規模を誇り、ほぼすべての大陸と気候帯の植物が植えられている。バラ園では、約二五〇〇種類のバラを見ることができる。
「うわぁ、きれい……」
アリアンナは、スマホのカメラでバラの撮影を始めた。一見、無心で花を愛でているように見える。
春と比べて秋に咲くバラは、白や淡いピンク色が目立つようだ。その中をブロンドの髪を揺らしながら歩くアリアンナの姿は妖精のようで、本田は暫し見とれてしまった。〝妖精〟は微笑みながら本田に近づくと耳元でささやきかけた。
「もう少し人がいないところでお話がしたいわ。この植物園には日本庭園があるから、そちらに行ってみない? 」
ハッと我に返ったときにはアリアンナは先導するように前を歩き始めていた。本田は慌てて後を追う格好になった。
木々の葉は、夏の名残でまだ緑が濃い。
この植物園の日本庭園は、池の周りに灯籠や石塔、あずまやを配し、百種をこえる植物を散策しながら鑑賞できる。本格的な池泉回遊式の庭園だ。だがこの時期、桜やシャクナゲなどの花は見られず、モミジやカエデが色づくにはまだ早い。
高台に位置する茶室の軒先に本田とアリアンナは腰かけた。ここからは庭園全体を見渡せるが殆ど人影は見られない。
(人目につきにくいところへ誘いこまれてしまったか……)
本田は内心、身構えていたが、アリアンナは一人立ち上がって茶室の傍らに立つ桜の若木の方へ歩いて行った。
「四月の終りから五月の初めには、この桜も満開になるのよね。桜ってあなたの国のシンボル的な花なんでしょう? 」
青葉を茂らせる桜の若木に手を添えて見上げるアリアンナ。横顔には、まるで目の前に満開の桜の花を見るような晴れやかな笑みが浮かんでいる。その艶やかさに引き付けられたように本田も口を開いていた。
「ああ、でもここで見られる桜は、エゾヤマザクラとチシマザクラという北海道の寒冷地で咲くものなんだ。日本のシンボルの桜はソメイヨシノという品種だよ」
「ソメイヨシノ……」
「日本の本州各地では、そうだな、モスクワ川の遊覧船みたいに、船で川を進みながら両岸に咲き誇るソメイヨシノを見られるところもあるんだよ」
「素敵ね……ソメイヨシノ。あなたの国の桜か……」
アリアンナの言葉が途切れた。横顔には相変らず笑みが浮かんでいるが、目にはいっぱいの涙をためている。
「いつか私も見てみたい……そう、あなたと一緒に日本に行ければ見ることができるわよね」
目を閉じたアリアンナの頬に涙がこぼれ落ちるのが見えた。突然の言葉に本田は戸惑わざるを得ない。
「俺と一緒に日本に行けたらって……それって、どういう……意味なのかな? それと……きみが折り入って相談したいことって何なんだい? 」
本田の慌てぶりを察したアリアンナが目を見開いて振り向いた。心持ち頬が赤らんでいるように見えた。
「あなたを困らせることじゃないのよ。その……あなたには奥さんがいるわけだし。そこは私もわきまえているつもり」
「そう……」
アリアンナが自制心を失っていないことに本田は少し安堵した。
が、日本に行きたいということは、彼女が諜報機関の人間とするならば組織内で何らかのトラブルを抱えているということか。そのため、ロシアに居られなくなったということなのか。
「私と、家族を助けてほしいの。できれば日本大使館で保護してもらう道筋をつけてもらえないかと思ってる」
「身柄の保護? つまり、亡命したいということ? 家族というと、セルゲイも一緒にということなのかい? 」
「ええ、実はもう一人。父についてもお願いしたいの」
「父? きみたち兄妹の両親はもう亡くなっているんじゃないのか? 」
「そうなんだけど……実は、育ての父が、養父がいるのよ」
「養父がいる? 一体どういうことなんだ? 」
本田は、茶室の軒先から立ち上がってアリアンナの方へ歩み寄ろうとした。
すると一瞬、背後を振り返ったアリアンナが急にダッシュして本田に駆け寄り、体をぶつけてきた。本田はアリアンナにのしかかられて茶室の中に倒れこんだ。
次の瞬間、機銃掃射が桜の木と軒先を襲い、埃と煙がもうもうと立ち込めた。
「茶室の奥に隠れて! 」
アリアンナに腕を引っ張られて立ち上がった本田は、そのまま一緒に茶室を走り抜けて障子を突き破り、奥の庭に飛びこんだ。直後に茶室内も機銃掃射に見舞われた。
本田が身を屈めながら、庭から茶室ごしに桜の木の方をうかがうと、煙の向こうに数人の黒い人影が見えた。サブマシンガンらしきものを構えながらゆっくり近づいてくる。
「何なんだ、あいつら……」
本田は、アリアンナに話しかけようとして思わず口を噤んだ。アリアンナがベージュのジャケットの懐を開いてホルスターから拳銃——ロシアの警官が持っているのをよく見かけたタイプ——マカロフPMを抜き出していた。
「やはり、きみは……」
本田が口をききかけたところで、アリアンナはマカロフPMを両手で構えるとフルオートモードで連射した。黒い影はその場に伏せ、続いてサブマシンガンの掃射がやってきた。
急いで伏せたため、その拍子に庭の土と玉砂利が口の中に入ってしまった。たまらず唾とともに砂利を吐き出しながら本田は声を張り上げた。
「何者なんだ、あいつらは! きみはなぜ狙われているんだ! 」
「分からない……でも、『ベゾ』が動くには早すぎる……」
(『ベゾ』……ベゾブラゾフ大統領のことか。一体、彼女は何をやらかしたんだ)
恐怖と疑問がない交ぜになって、本田の思考はかき乱される。その間にも、こちらが身動きをとれないように機銃掃射が見舞われた。
「ごめんなさい。こうなる前にあなたに相談したかったんだけど。間に合わなかったみたい。あなたまで巻き込んでしまって……ごめんなさい……」
けたたましく機銃弾の炸裂音が響いていたが、アリアンナが涙声になっているのが分かった。
「俺はどういう状況に巻き込まれたことになるのかな? 」
「彼らのねらいは私だけよ。計画を進めるにはどうしても私が邪魔になったということ」
「計画? 一体、何のことなんだ? 」
「それは……」
アリアンナが言葉を継ごうとした時、茶室の屋根ごしにいくつか金属片が庭に投げ込まれるのが見えた。
「手榴弾よ! 茶室の中に飛びこんで! 」
アリアンナの掛け声に慌てて、本田は庭から茶室にダイブした。直後に背後で轟音が数回響いて、爆風が押し寄せた。
幸い手榴弾の破片に背中をやられることはなかったようだ。本田は上半身を起こそうとした。
「今、立ち上がっては、だめ! 」
叫び声をあげたアリアンナに当て身を食らった本田は、横倒しになった。その直後、アリアンナの背中をサブマシンガンの一掃射が駆け抜けた。アリアンナは弾かれたようにうつ伏せで茶室の畳に倒れ込んだ。突っ伏した体の下からは夥しい血が流れ出していた。
「アリアンナ! 」
本田はアリアンナの体を引きずって茶室を出ると庭側の軒下に身を隠した。
仰向けにして抱き起こすとアリアンナの淡いピンクのシャツは鮮血に染まり、貫通銃創でできた胸と腹の複数の穴から血がどくどくと流れ出していた。咳こむたびに口からも血があふれ出し、息が苦しそうだった。
「お願い……どうか……父をとめて……やめさせて……」
アリアンナの目はすでに焦点を結んでいない。息絶えるまでそれほど時間がないことが本田にも分かった。血のぬるぬるした感触で、抱き起したアリアンナの上半身が腕の中から滑り落ちそうになる。魂が自分の体をすり抜けて、どこか遠くへ行こうとしているようだ——本田はこみ上げる悲しみを押さえて問いかけ続けた。
「やめさせてって、何をやめさせるんだ? 父って一体、誰のことなんだ? 」
「やめせて……ポ、ポ……ポセイドン……」
「ポセイドン? 」
本田はなお問い返そうとしたが、一瞬痙攣したアリアンナの体からはすべて力が抜けて、ダラリと首が垂れた。改めて首を抱き起してみた。思いの他、苦悶の表情が見られなかったのがせめてもの救いというものか、と本田は思った。
気が付くと辺りは、妙に静かだった。遠くで非常サイレンが鳴っているものの周囲に人の気配はない。襲撃者たちはアリアンナに致命傷を負わせた後、すぐに立ち去ってしまったようだ。
本田は、アリアンナの遺体を茶室の畳の上に寝かせると見開いた目を閉じた。
不思議と涙はこみあげてこなかった。衝撃の大きさで人間的な感情が麻痺したのかもしれないが、何にもまして不可解さが残ったからだ。
(アリアンナが言っていた「計画」「ポセイドン」というのは何のことだ? そしてあの状況——俺も一緒に殺されていてもおかしくなかったのに、なぜ襲撃犯はアリアンナを仕留めた後、俺には手を出さなかったんだ? 分からん……)
疑問ばかりが湧いてくる。だが、答えを知っているはずのアリアンナは、もう何も語ることはない。
(それに…‥こんな状況で生き残った俺も、このままただでは済まないだろうな)
現実に引き戻されると、手と上着にこびりついた血のぬめりと独特の鉄分臭が鼻をついた。跪きながらアリアンナの死に顔を見つめる本田は、己を待ち受ける不吉な運命に慄きを感じていた。
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