晩餐会の夜に③

「……ですから、南クリルの占領を続けることこそ、悪しきスターリン主義の残滓にしがみつくようなものだと申し上げているんです。あの四つの島を日本に返還してこそ、ロシアの正義を世界に示せると、『アニー』は考えてるんですよ! 」

 黒崎昭造が旅の疲れが出たからと、対談を数分で切り上げてレセプション会場を去った後、アリアンナは日本人記者たちの囲み取材に威勢のいい声で答え続けていた。記者連中も発言の大胆さとセクシャルな魅力に引き付けられてアリアンナの周りから離れようとしない。予想以上の盛況ぶりだ。今夜から明日にかけての国際ニュースは、ロシアからの「野党関係者が黒崎外相に北方四島返還を申し出」一色になるだろう。

(それにしても、物怖じしない大胆な語りっぷりだ。これが演技というなら、この国の女というのは恐ろしいな……)

 本田は、手で顎を撫でながら日本人記者たちに熱弁を振うアリアンナの姿を、驚きを持って見つめていた。

「東日新聞の本田さまですね? こちらを預かって参りました」

 声をかけてきたホールスタッフから本田は、一枚のメモ書きを手渡された。

『三〇分後に、水槽のある部屋にお一人にて来られたし 多楽』

 多楽とは歯舞群島多楽島たらくとう出身である黒崎の雅号だ。「水槽」は、電磁波を遮断する盗聴防止加工を施した小部屋の隠語である。それがあるのは重要な機密をやりとりする特別室になる。黒崎は俺に何か機密情報をリークするつもりなのか……本田は胸の高鳴りを覚えた。

 それからほどなく、記者たちは原稿を書くべく次々と大使館を飛び出していった。囲み取材から解放されたアリアンナは満面の笑みを浮かべて本田に駆け寄ってきた。

「あれで良かったかしら? 私もう夢中だったから」

「素晴らしいよ! これで領土交渉も変わってくるはずだ。日本の世論だって『四島返還』の声がロシア側から出ているのに、『二島決着』で妥協することはない、というふうにきっとなる。ありがとう! きみの名演技に乾杯だ! 」

「うれしいわ。あなたに喜んでもらって」

 感極まったアリアンナは目に涙を浮かべていた。

「それと、この後、黒崎大臣にこっそり呼ばれて何やら相談を受けることになったんだ。ひょっとしたら、『アニー』と交渉を持ちたいということかもしれない。きみやセルゲイに協力をあおぐ必要が生じたら改めて連絡させてもらうよ」

 本田は、大使館の外に待たせてある社用ハイヤーで家に帰えるようアリアンナに告げると、黒崎の元へ向かった。


 三〇分後、指定された大使館三階の特別室の前に本田は立った。

 すると、ドアが空いてアタッシュケースを持った二人の黒いスーツ姿のロシア人が出てきた。スーツの襟には奇妙な襟章がついていた。白地に青い三叉槍さんさそい——ギリシャ神話の海の神、ポセイドンが持つ三又の槍を模したデザインだ。

(あれは、確かサハリンの新興財閥オリガルヒの社章だ……そう、ルスモスコイ。北方領土周辺海域の漁業で大儲けしていると聞いたが……)

 「ルスモスコイ」社の男たちは、本田と目を合わすのを嫌ってそそくさと歩き去っていった。

 本田がドアをノックすると、SPらしい目つきの鋭い屈強な男が無言で出迎え、部屋へ入るよう促された。二十畳ほどの部屋の三分一が「水槽」と呼ばれる特殊なアクリル板で囲まれた空間で占められている。その中に据えられた応接セットに腰かけている黒崎に本田は声をかけた。

「今しがたすれちがった人たち、サハリンのルスモスコイ社の社員でしょう。どういうわけです? 北方領土交渉で最大の障害になっている連中が出入りしているなんて」

 サハリンに本社を置く新興財閥「ルスモスコイ」。創設者のドミトリー・ミシチェンスキーは、旧ソ連国境警備隊の将校から身を起こし。サハリンから北方領土周辺海域で水揚げされる魚介類の加工・販売で財をなした。

 特に、択捉島と国後島に建設した水産加工場は世界有数の規模を誇り、人口約一万八千人の北方四島で、千人を超える雇用を生み出していた。そのためミシチェンスキーは「北方領土の帝王」とも呼ばれている。

ミシチェンスキーは、日本の北方領土返還要求に最も強硬に反対していることがたびたび報じられてきた。北方領土の権益が日本企業の進出によって脅かされるのが理由だという。

 一瞬、黒崎の表情が強張ったように見えた。目つきにも剣呑なものが感じられた。

(何か気に障ったか? )

 本田は怪訝に思ったが、すぐに黒崎はにこやかな表情に戻った。

「ふん、四島を返せなんて法外な事を言うなと釘を刺しにきたんだよ。適当にあしらって追い返したところだ。まぁ一馬、こっちに座れや。そんなふうに突っ立っておったんじゃ話もできん」

 黒崎とは、特派員としてモスクワに発つ前、議員会館へ挨拶に行って以来だ。口ぶりには年の離れた後輩への親しみがこめられていたが、表情には苦悶の色があった。

「あまり顔色がさえないですね。長旅のお疲れが出ましたか? 」

 本田がソファに腰かけると、黒崎は苦笑いを浮かべた。

「そんな年寄り扱いするもんでねぇ。ところで一馬よ、あの金髪の娘っ子とおめえどういう関係なんだ? 」

「どういう関係って、取材先のひとりですよ。アナトリー・ビルデルリング下院議員を支持している女性です」

「支持している? じゃあ、議員の秘書というわけじゃねえのか? 」

「ええ、それにはいろいろと事情がありまして……」

 それから本田は、アリアンナと兄のセルゲイと出会った経緯。二人の紹介で『アニー』議員と知り合い、議員が北方四島の全面返還に極めて前向きな考えの持ち主であること。

 しかし、歯舞・色丹の二島返還決着にこだわる江藤総理に忖度する前澤支局長に妨害されて記事が書けなかったこと。そんな中、セルゲイの提案でアリアンナを『アニー』議員の秘書として黒崎と接触させて、議員の『四島返還論』を日本のメディアが報じる状況を作り上げたこと……一連の経過を説明した。

 話を聞き終わった後、黒崎は目を閉じ、ますます苦し気な顔つきで腕組みをした。

(アリアンナと話したのは、まずいことだったんだろうか? いや、たとえ黒崎さんにとってまずくても、これまで報じられてこなかった事実を日本に伝える意味はあったはずだ)

 本田が見つめる中、目を開けた黒崎は深いため息をついた後、語り始めた。

「お前がやったことはジャーナリストとしては何にも間違っておらんよ。知られていない事実を発見、報道する。たとえ、自身のスクープを捨てても、大切な事実を世の中に伝える状況を作りあげる。そういう姿勢は立派だとは思う。だがな、今回のことは、そういうお前さんたちのさがを上手く利用した、ロシアの謀略工作かもしれん」

「謀略? どういう意味ですか?! 」

 声を荒げる本田を見つめる黒崎の表情は悲し気であった。

お前、やっぱり分ってはいなかったんだな、とでも言うように。

「俺という人間が。日本の外務大臣が、『四島返還論』にこのタイミングで耳を傾けたということが問題なんだ。それを『ニュースで知った』という形になるベゾブラゾフ大統領が、次の会談で総理に何と言い出すか……」

 ようやく本田にも黒崎の危惧していることが分かってきた。

江藤総理とは「二島返還決着」に向けた相談をしているのに、黒崎外相は「四島返還」に耳を傾けているではないか。

江藤総理、あんたは俺との話をまとめる気があるのか? それともあくまで「四島」にこだわるのか? どっちなんだ? ということをベゾブラゾフが言い出すのではないかということだ。

「いや、そんなことは……」

「ないとは言い切れんだろう? 」

本田の脳裏に、目まぐるしく変わったアリアンナの表情が浮かんできた。

 泣きべそをかいた可憐な乙女の顔を見せたかと思えば、一国の大臣やメディア関係の男たちを相手に熱弁をふるう女傑ぶりを発揮する。一体、どれが素顔なのか? いや、そもそもあんなに人格を一変させる女を「素人」と考えていいのだろうか。

 不安げな表情を浮かべた本田に、黒崎は決定的な一言を告げた。

「あの女、相当高いレベルでエスピオナージの訓練を受けていると俺は見た。女の武器を使って情報を集めたり、時には欺瞞情報を流したり。プロ中のプロと見ていいと思う」

「まさかそんな。彼女の兄は反体制派のジャーナリストですよ。そんなはずは……」

「一馬、わしはこの国の連中と付き合って四半世紀以上になる。連中に利用されて身を滅ぼした人間の話は山ほど耳にしてきたし、わしにもいろいろと働きかけはあった。その中には、自分を反体制派だと語っとった者もおる」

「じゃあ、アリアンナだけでなく兄のセルゲイも……」

「ロシアの諜報員、という可能性は否定できんと思う」

(何もかも俺を騙すための欺瞞だったというのか! 何て間が抜けたことだ! 異郷での人恋しさにまんまと付け込まれて、相手の謀略に利用されていたなんて……)

本田は、深いため息をついて頭を垂れた。

「黒崎さん、僕はこのまま『二島決着』で話が進んでいくことに我慢がならなかった。だってそうでしょう。総理のレガシー作りのために元住民の願いが踏みにじられるなんて。

だからこそビルデルリングの『四島返還論』を伝えなければと思ったんだ。本来、我々が目指す目標を見失わないために。でもそれが、日本側に揺さぶりをかけるロシアの工作だっただなんて……」

 俯く本田の肩に、黒田は優しく手を置いた。

「一馬。俺も『二島決着』など論外だと思っている。それは国後、択捉出身の島民がいるのに、という感情的な問題だけじゃねえ。ロシアが北方四島を占領していることには、結局、何の法的な根拠もない。俺にはそうとしか思えねぇんだよ」

 本田の肩に置かれた黒田の手に次第に力がこもり、表情も険しさを増していく。

「千島を旧ソ連が占領するというのは、第二次大戦末期のヤルタ会議で、ソ連が日本に参戦する条件として米英と交わした密約に基くものだ。所詮、密約であって国際法で認められた正式な条約なんかじゃない。

 そして、第二次大戦後の対日講和条約だ。確かに日本は千島列島を放棄することにはなったが、この「千島列島」に北方四島が含まれると明確には書かれちゃいない。しかもソ連はこの条約に署名もしておらん。つまり北方四島は、国際法上、ソ連領にもロシア領にもなってはいねえ。大戦末期のどさくさに紛れて力づくで攻め取ったにすぎんのだ。言い方は悪いが、盗賊が押し入った家にそのまま居座っているのと変わりはしねえ。

 『二島決着』っていうのは、ロシアの盗賊行為を認めたうえで、善意にすがって歯舞、色丹だけでも返してもらおうっていう手打ちの仕方だ。そんなことを本当に元島民が望むと思うか? そんなものがどうしてレガシーになるっていうんだよ!」 

 激しい言葉が途切れたところで、黒田は手にこめた力を緩めた。

「だからこそ、目指すのはあくまで『四島返還』でなくてはならねえ。どんなに道は遠くてもな。日本とロシア。この二つの国の間に立って生きていくのは並大抵なことじゃない。人を信じられなくなることの連続だ。だからこそ、何を大事にしなくてはならんのか。絶えず見失わないように考え続けることが大切なんだ」

肩に置かれた黒崎の手の温もりが伝わってきた。祖母に連れられて初めて会った時。故郷を離れて東京の大学へ進学する時。そしてモスクワへ赴く時……これまで何度もこの手の厚みと温もりに励まされてきた。そして今もまた。

「わしが言っていることは単なる杞憂かもしれん。実のところ何の裏付けもないからな。それでもわしの勘を信用してくれるなら、これから先も騙されたふりを続けてくれんか。

 そして、連中の意図がどこにあるかを探り続けてもらいたい。それを頼むためにお前をここに呼んだんだ」

 本田が顔を上げると、黒崎は穏やかな語り口からはとても想像できない厳しい表情を浮かべていた。強大な力を背景に、さまざまな詐術を繰り出してくる国家と向き合うことがいかに過酷なことか。黒崎の表情は、無言のうちに雄弁に語りかけていた。

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