晩餐会の夜に②
黒崎外相がモスクワを訪れたのは、盛夏を迎える頃だった。とは言ってもこの街の最高気温は二五度をこえることは、まずない。夜ともなれば暖房を入れる店もある。日本大使館で黒崎のレセプションが開かれた夜も、コートが無くては肌寒かった。
この夜、本田は、セルゲイから六時少し前にアパルトマンの近くに車をつけてほしいと言われていた。自分は別件で同席できないが、アリアンナが一人で出て行くので迎えてもらいたいとのことだった。
アリアンナと会うの二か月ぶりだ。本田は車を出て部屋から降りてくるのを待つことにした。気まずい別れ方をしたのに、自分のために一芝居打とうとしてくれる好意に、まずは礼を言わねばと思ったからだ。コートを忘れてきたので、車外に出て数分でくしゃみが出た。いつもながらのそそっかしさが情けない。
午後六時を知らせる教会の鐘が聞え始めた頃、アパルトマンの玄関から漆黒のコートに身を包んだアリアンナが現れた。鮮やかな金髪は黒貂の帽子の中で束ねているようだ。表情は硬く、足取りもぎこちない。内面に抱える不安が透けて見えるようだった。余りに可憐であり、とてもハニートラップを仕掛ける女スパイには思えない。
(俺の思い過ごしだったかな。もう少し落ち着かせないと。とても大臣相手に、ひと芝居打つなんてできそうもないな……)
安心感を与えようと本田は努めて、にこやかな表情でアリアンナに歩み寄った。
「どうしたんだ? これからきみの名女優ぶりを拝見しようと思っていたのに、もっとリラックスしなくっちゃ」
本田の掛け声に立ち止まったアリアンナは、黙ってこちらを見つめてきた。鮮やかなブルーの瞳には、涙がたまって溢れそうになっていた。
「ごめんなさい。この前は、迷惑をかけてしまって。紅茶に少し睡眠薬を入れておいたの。ウチでゆっくり休んでもらおうと思っていたから。でもあの後、お仕事だったのよね。差し障りあったんだったら本当にごめんなさい」
アリアンナは泣き出しそうな声で話しながら頭を下げた。下を向いた顔には恐らく涙がこぼれ落ちているだろう。
(睡眠薬も好意でやったことか……まあ、とりあえず信じてやることにするか。とにかくこれから『女優』になってもらわないといけないんだからな)
本田は、頭を下げ続けるアリアンナの肩に優しく手をかけた。
「俺の方こそ、乱暴にきみを突き飛ばしたりして申し訳なかった。女性に対してとるべき態度じゃなかったと反省しているんだ。でも、何だか気まずくて、なかなかきみを訪ねることができなかった。あれからは心にぽっかり穴が開いたようだったよ。
何か大事なものを失ったような気がしてね。改めて、きみとセルゲイと一緒に過ごした時間が俺の中で賭け外の無いものになっていたことに気づかされたんだ」
顔を上げたアリアンナの顔は涙に濡れていたが、安堵の笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、許してもらえるかしら」
「ああ、それに今夜これからのこと。協力に感謝するよ。俺の手詰まり感を打ち破るだけじゃない。元四島住民の思いに応える芝居を演じてもらえることに対してね」
本田が差し出した右手を、アリアンナは両手で堅く握りしめてきた。
東日新聞の社用ハイヤーで日本大使館近くに着いた後、本田とアリアンナは別行動をとることにした。より効果的に参加者の注目をアリアンナに集めるには単独行動させたほうがいいと思ったからだ。
本田は先に大使館に入った。レセプション開始の午後七時を少し回り、会場の大広間を覗くと、金屏風を背負った赤絨毯を敷いたひな壇の上に、日焼けした農夫然とした顔つきに、にこやかな表情を浮かべた男が立っていた。この夜の主賓・黒崎昭造外務大臣だ。
背丈は一七〇センチに届かないが、若い頃、農作業で鍛えた身体はスーツよりもニッカポッカが似合いそうで、六〇代とは思えないほど筋骨たくましい。
「……いやぁ、東京は連日四〇度近い暑さっしょ。ところが、こちらに降り立つとコート無しではいらねぇ。根室に里帰りしたみたいでねぇ。なんか晴れがましくシャンパン飲むより、ストーブ当たりながら熱燗をキューっとやりたいのが本音であります」
北海道弁丸出しの黒崎のスピーチに会場からは、どっと笑い声が上がり、本田も思わず表情が緩む。飾り気のない庶民的な人柄は黒崎の持ち味だ。外相就任直前までは党幹事長を務めて二度の総選挙で与党を圧勝に導き、議員たちからの信望も厚い。来年に予定されている保守党の総裁選挙では、江藤総理を脅かす存在になるとささやかれ始めている。
「まぁ、与太話はこれくらいにして、ご多忙の中お集まり頂いた皆さまのご厚意に深く感謝いたします。では、乾杯! 」
乾杯を終えた後、黒崎の周りには各国大使や大手企業の駐在員たちが次々と集まってきた。黒崎は一人ひとりに愛想よく、時折瓢けた表情や動作を交えながら相対していく。
世襲議員が九割以上を占める保守党内にあって、黒崎は北海道の片田舎から身を起こし、一代で要職を歴任して実力を身につけてきた。ベテラン記者の中には、昭和の頃「今太閤」と呼ばれた政治家の姿を重ねる者もいる。本田も同郷の先輩として、同じ北方領土元住民の血を引く者として羨望の眼差しを向けてきた。
本田の視野の片隅に、天敵の男の顔が見えた。支局長の前澤だ。周囲の和やかな雰囲気をよそに冷ややかな表情で、黒崎と談笑する人たちの話しに聞き耳を立てている。江藤総理の最大の政敵となり得る男の動静を漏らさず首相官邸までご注進するつもりなのだろう。
(あの野郎、きっとこの後の「ひと芝居」に水を差しに来やがるなぁ……)
本田は、前澤の姿を見ながら苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
やがて、大広間の入り口あたりがざわついているのが聞えてきた。
本田が目を向けると、ホールスタッフに誘われたイブニングドレス姿の若い女が、ブロンドの髪をなびかせながら大広間に入ってきた。アリアンナである。
胸元と背中の大きく開いた漆黒のロベルト・カルヴァリのドレスが白い肌と鮮やかな金髪を引き立て、会場の視線をくぎ付けにしていた。アリアンナの進む先には人波が引いて道が出来、それは本田の方へ真っ直ぐに向かってきた。ホールスタッフは本田の前で立ち止まり、声をかけてきた。
「東日新聞の本田さまですね。お連れの方が見えられたのでご案内いたしました」
慇懃に頭を下げたアリアンナは満面の笑みで本田を見上げ、右手を差しだした。
「こんばんは、ガスパジーン・ホンダ。今夜はお招きいただきありがとうございます」
アリアンナの表情には先刻の不安気な様子は微塵も感じられず、笑顔からは心の余裕がうかがえた。青い瞳には、男が思わず見ってしまう妖艶な光があった。
(ついさっきまで泣きべそかいていた女とは思えないな。少しの励ましでこうも変わるものなのか……)
アリアンナの華やかさに気押された本田は、ぎこちなく彼女の右手を取って答えた。
「ようこそいらっしゃいました。今夜は……きっとあなたにとって……有意義なものになると……思います」
気の利いたセリフが全然浮かんでこない。完全に舞いあがっている。どうした? これから彼女をエスコートして大臣の所へ連れて行かなきゃいかんじゃないか! いや、ずっと彼女を見つめているから気もそぞろになるんだ。ちょっと周囲を見てみると……。
人々の視線は皆、本田とアリアンナに集まっていた。黒崎をはじめその周りで挨拶を交わしていた連中も皆、何事かと好奇の目を向けている。アリアンナに会場の視線を集める作戦は成功だ。アリアンナが目で合図を送ってきたのをきっかけに本田は、彼女の手を引いて黒崎の方へ歩み寄った。
「黒崎大臣、こちらロシア下院議員、アナトリー・ビルデルリング氏の秘書をされているアリアンナ・コンドラチェンコワさんです。野党政治家が今、日ロ間の問題をどう捉えているかお知らせすることも今後の交渉に資するところがあると思い、お招きしました」
「おい本田! どういうつもりだ! 差し出がましいぞ!」
さっそく前澤の怒声が飛んできた。だが、それは華やいだ空気に水を差すものと見られ、非難するような視線が一斉に前澤に向けられた。前澤は赤面して沈黙せざるを得ない。
気まずい空気をなだめるように、黒崎は前澤に歩み寄って肩に手をかけた。
「まあ支局長さん、そう固いことは言わずに。ざっくばらんな酒宴の席です。おたくの記者の粋な計らいだ。うかがいましょう」
黒崎は本田に代わってアリアンナの手を取るとエスコートしてテーブル席へ案内した。向き合う黒崎とアリアンナの周りには、新聞・テレビ各社の特派員たちが集まり、大使館広報が動画とスチールのカメラを向けている。
「今夜は、ぜひクロサキ外務大臣閣下のお耳に入れておきたいメッセージを議員から預かって参りましたの」
「ほう、ビルデルリングさんが私に何を? 」
「北方領土交渉についての考えです。ビルデルリング議員にはベゾブラゾフ大統領よりも積極的な腹案があります」
ブロンドの美女が、いきなり北方領土交渉について提案があると言いだしたことに二人を取り囲んだ記者連中はざわめき始めた。通訳の言葉に聞き耳を立てていた黒崎の顔も少し強張ったが、深呼吸を一つしてからアリアンナにほほ笑み返した。
「領土交渉は、総理の専権事項で、私はお手伝いをしているだけです。お話は江藤総理とされた方がよろしいのでは……」
「私どもの提案は、エトウ総理よりも、むしろクロサキ外相閣下の真意に沿うものだと思っています」
語気を強めたアリアンナは、やや前のめりになって黒崎の顔をのぞきこんだ。アリアンナの顔に強い闘志が宿っているように本田には見えた。
「ビルデルリング議員は、来年の大統領選挙に勝利した場合、直ちに北方四島を日本に返還することを前提に平和条約の締結協議に入りたいと考えています。ですから、クロサキ閣下には、現在ベゾブラゾフ大統領との間で進められている交渉内容で安易に妥協されぬよう、エトウ総理にご進言願いたいのです」
黒崎の表情からは笑みが消え、二人を取り巻いていた記者たちのざわめきは一斉に止んだ。レセプション会場には暫し水を打ったような沈黙が流れた。
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