晩餐会の夜に①

 二〇一七年の初夏を迎える頃、翌年のロシア大統領選挙に向けて、野党の最有力候補『アニー』ビルデルリングが、極東や中央アジア各地での遊説活動を本格化させていた。ヨーロッパ地域と比べて開発が遅れ、政府への不満が大きいとされる地方部への浸透を図るのがねらいだ。

 『アニー』の地方遊説に二週間同行した後、モスクワに戻ったというセルゲイの誘いを受けて、本田は夜の街に出た。

「何だって? 出張費が出ない? きみの新聞は日本の三大紙の一つなんだろう。実はそんなに経営難なのか? 」

「みんな支局長の判断だよ。『アニー』なんか追いかけたところで何のニュースバリューもない。取材しても業務とは認められないから出張旅費は出せんというのさ」

「意味不明だな。『アニー』の行くところ、ロシアの現状に対する不平・不満が渦巻いている。『ベゾ』大統領には不都合な事実ばかりだが、それこそがニュースじゃないのか?」

「『ベゾ』大統領は、江藤総理のお友達だ。総理のお友達に不都合な事実に価値はないということなんだろう」

「そんなのが大新聞社の特派員をやっているのか? 日本のメディアも末期的だな」

「社内でも、あの支局長に批判がないわけじゃない。でも奴は総理に繋がっているから誰も首に鈴をつけれられないんだ。俺の出身母体の国際部からは、奴が転勤するまで我慢しろと言われている。でも、大統領選挙は予断を許さないし、領土交渉は今が正念場だ。そんな時に宣伝記事しか書けないなんて。俺は何のためにモスクワに来たのか分からないよ」

 本田が、胸の内の鬱屈した思いを打ち明けられるのは、結局この男しかいなかった。

 先日の『ハニートラップ騒ぎ』をアリアンナから聞いていないのか、セルゲイは何の屈託もなく本田の話しに耳を傾けてくれた。

 前回の失態を繰り返すまいと、この夜の本田はセルゲイの勧めを断ってノンアルコールビールしか飲まないことにしている。だからなのだが、この一席もどことなく鬱々とした気分が抜けない。

「何かこう、目の前が明るくなるような景気のいい話はないのかい? あんまり鬱々としていると身体に良くないぜ」

 様子を見かねたセルゲイが励ますように肩を優しく叩いていると、何か思い出したように、本田はむくりと顔を上げて正面の虚空を見上げた。

「秋に予定されている首脳会談の予備交渉で、来月、外務大臣がモスクワに来ることになった。黒崎昭造くろさきしょうぞう——。俺と同じ北方領土にルーツを持つ政治家だ。江藤総理はやたらとベゾブラゾフとの個人的な関係を論うけど、そもそも仲を取り持ったのは黒崎だ。日ロ交渉にもエリツィン政権時代から携わってきたんで年季が違う。

 今月行われた内閣改造で外相になったのも、共同経済活動で自国の法制度にこだわりだしているロシア側を宥められる政治家は、黒崎しかいないと見られたからさ」

 黒崎昭造は、父親が歯舞群島の一つ多楽島たらくとうの出身で、北方領土にルーツを持つ日本で唯一人の国会議員(衆院議員)だ。北方四島出身者の多い、根室・釧路地方を選挙区にしていることから北方領土問題をライフワークとしてきた。

 一九九〇年代後半には、世界通貨危機にともなう経済混乱で疲弊したロシアのエリツィン政権と日本の歴代政権の仲介役として活躍。ロシアへの経済援助への見返りに、日ロ両国の主権を侵さずに双方の住民が北方領土への訪問を可能にする「ビザなし交流事業」の立ち上げや、日本のサハリン出張駐在官事務所を開設するなどの功績をあげてきた。

 また、福島第一原発事故により、原発依存を脱却してエネルギーの多角化を求められた江藤首相と、シベリア・サハリンの石油、天然ガスの輸出を目論むベゾブラゾフ大統領との仲を取り持ち、蜜月関係に結びつけたのも黒崎の働きだった。

「俺の婆さんは、黒崎が最初に選挙に出た時から後援会の取りまとめ役として応援していたんだ。だから黒崎は、婆さんのことを『あねさん』と慕っていてね。その関わりで、俺のことも励ましてくれたよ。『いつか日ロの架け橋になれるように頑張れ』って」

 遠い日の思い出がよみがえり、本田は久しぶりに晴れやかな気持ちになれた。

 思案顔で話しを聞いていたセルゲイは、やがてショットグラスに残ったヴォトカを一気に飲み干し、改まった表情で本田の顔を見つめた。

「とぼけるつもりはなかったんだが……、実は先日、俺が出かけた後のことをアリアンナから聞いたんだ。あいつ、きみに申し訳ないことをしたと言っていた。それで、何かきみの役に立つことができないかと言っているんだ。そこでなんだけど……」

 セルゲイは、本田の耳元に口を寄せてささやきかけた。

「外務大臣が来たとなれば、大使館でレセプションパーティーが開かれるだろう。そこでだ。きみの友人として、アリアンナをクロサキのレセプションに招待してくれないか。きみから黒崎にアリアンナを『アニー』の秘書だと言って紹介してもらえないだろうか? 」

「『アニー』の秘書だって? 何のために? そもそもアリアンナがそんなことを望んでいるのか? 」

 本田は、しかめっ面を向けたが、セルゲイは熱心な口調で話し続けた。

「きみは『アニー』が四島返還を目指していることを日本にも報じたいんだろう。でも、今のきみの新聞では無理だ。だから、アリアンナに『アニー』の代弁者としてクロサキに四島返還論を話してもらう。

 外務大臣が公衆の面前で話を聞いたとなれば日本のメディアは皆、取り上げざるを得なくなる。きみのスクープではなくなるけど、思いはかなうはずだ。何度も言うけど、きみの役に立てるならアリアンナは何でもすると言っているんだよ」

 唐突なセルゲイの申し出ではあった。が、北方四島元住民の思いをよそに江藤総理主導の「二島返還決着」が進みつつある状況に風穴を開けられるかもしれない。それに、両親が元住民である黒崎は、公言こそしないものの「二島返還決着」には批判的なはずだ……。

 カウンターごしの暗い店内の虚空を見つめる本田の視線の先に、鮮やかなブルーの瞳のアリアンナの笑顔が浮かぶ。

『——私は、あなたの役に立ちたいの——』

 笑顔のアリアンナは、本田にそう語り掛けてくるようだった。

(素面だって言うのに顔が思い浮かぶなんて、やっぱり俺は彼女に惚れているのかなぁ)

 心中の思いに戸惑いながら本田はノンアルコールビールのグラスを飲み干した。

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