青い瞳の女④

 インタビューから十日後、夜のモスクワ。歓楽街・アルバート通りの酒場で本田は、セルゲイ・コンドラチェンコと苦い酒を飲んでいた。

「まったくあの野郎、いつまで永田町の論理を通すつもりでいやがるんだ。ここはモスクワだぞ。もっと国際的な視野で日本の国益を考えなきゃいけないのに、何なんだ、江藤の太鼓持ちめ!」

「もういいよ。日本の新聞に紹介されて、大統領への批判も伝えてもらえて、アニーは十分満足してるんだから」

「ビルデルリングが反大統領の急先鋒ってことは、周知の事実だ。それだけ伝えて何のニュース性がある? 彼が北方領土に踏み込んだことを言ったからこそ、日本でのニュースバリューはあるんだ。その部分をみんなボツにしやがって! 」

「総理に極めて近いと評判の男が上司なんだ。想定できたことなんじゃないのか? 」

「ここまで腐った野郎とは思わなかったんだ! 」

「それはきみの考えが甘いよ。それにまだいいじゃないか。記事が消されたくらいで」

「何だと! 」

「この国じゃ政府の意に反したジャーナリストは、いつ消されるか分からんのだからな」

 セルゲイは、首を掻き切られる仕草をしてみせた。

「もうきみは飲みすぎだ。さあいい加減切り上げよう」

「せっかくつかんだスクープを政治家への忖度からボツにされたんだ。この悔しさは、きみにだって分かるだろう」

「ああ分かるよ。でも仕方ないだろう。僕にはどうしようもない。さあそろそろ帰ろう」

「ちくしょう!」


 この前日、本田の署名入り記事としてアナトリー・ビルデルリングの独占インタビューが日本に配信された。だが、「北方四島を返還することこそロシアの正義」とまで踏み込んだビルデルリングの発言は一切掲載されなかった。

 本田の上司、モスクワ支局長・前澤の判断で、北方領土に関わる発言はすべて削除されたのだ。本田がそれを知ったのは最終稿が東京に送られた後のこと。当然、本田は前澤に食って掛かった。

「あんな発言が記事になったらどうなるか。きみには想像がつかんのかね? 」

本田の怒声をひとしきり聞いた後、前澤は、細いシルバーフレームの眼鏡ごしに瞳を光らせながら冷たく言い放った。

 「目下の日ロ間の領土交渉は、総理とベゾブラゾフ大統領間との関係を基軸にして進められている。ここで大統領の宿敵の記事を日本のメディアが報じたらどうなる。せっかく総理が築いてこられた信頼関係に水を差すことになるのが分からんのかね」

「ロシアにも北方領土に対して多様な考え方がある。それを伝えることも日本の読者にとって必要なことではないですか」

「記事はロシア側の目にも触れるんだ。これを見て、やはり日本は四島一括返還を求める気だと思われてみろ。歯舞と色丹の二島は返還の用意があるという感触を見せているロシア側にヘソを曲げられて今の交渉が頓挫しかねない。そうなったらきみ、総理に……いや、期待を高めている歯舞、色丹出身の方たちにどう申し開きするつもりだ」

「北方領土交渉は、二島返還で終わりじゃない。あくまで目指すは択捉、国後を含めた四島返還のはずです。私の祖母は歯舞の志発島しぼつとう出身ですが、自分たちの故郷だけ還ってきておしまいじゃ、国後や択捉の方たちに申し訳ないと言っています。総理とベゾブラゾフ大統領が二島返還を言い始めてから、元住民たちの間に亀裂が生じてきていて悩ましいと」

「とにかく今は四島にこだわっているとロシア側に思わせるのはまずいんだ。ビルデルリングのインタビューには国益を損なうリスクがある。私は管理職としてリスクを回避する責任があるんだ」

「支局長の言われる国益とは何ですか! 」

 声を荒げた本田に前澤は一瞬たじろいだが、すぐにしらけた表情を浮かべた。

「決まっているだろう。総理が進めておられる二島返還で領土交渉がまとまることだよ。それを支えるのも我々責任あるメディアの務めだ」

「それが四島住民の思いに応えないものであってもですか?!」

 前澤は嘲笑を浮かべながら本田の顔をのぞきこんだ。

「四島にこだわる住民感情に引きずられたことが、戦後七〇年以上事態が動かない結果を招いたんじゃないのかね。古いしがらみを捨てて一島でも二島でも取れるものはとっていく。未来志向で物事考えていかないと時勢に置いていかれるだけだよ」

 「国益」「未来志向」……もっともらしい言葉が、言われなく故郷を追われた四島住民の思いを「古いしがらみ」と断じて切り捨てていく。それも「ご時勢」だと割りきれれば、前澤の江藤総理に対する露骨な忖度も受け流すことができただろう。

 だが、体内に四島住民から受け継いだ血が流れる本田には無理な相談だった。その感情の発露が、記事の配信された翌晩、セルゲイへのとりとめのない絡み酒になった。


 カーテンから漏れた日の光で目を覚ました本田は、たちまち頭痛に襲われた。ひどい二日酔いだ。セルゲイが「帰るぞ、帰るぞ」と言っていたことは憶えているが、どうやってこのベッドにもぐりこんだか記憶が定かでない。いや、そもそもここはどこだ……。

 頭痛をこらえて起き上がり周囲を見回すとわが家でないことは分かった。ラップトップのパソコンが置かれたデスクの上を見ると、ロシアの与野党政治家の取材資料が積まれている。どうやらセルゲイの寝床で一夜を明かしたようだ。

 部屋のドアを開けてダイニングキッチンを覗くと誰もいない。セルゲイもアリアンナも出かけているようだ。テーブルの上にはサモワールが一基置かれ、鉄瓶に触れるとかなり熱かった。中は温かいロシアンティーで満たされているようだ。

 やがて、玄関の鍵を外す音がして廊下を足音が近付いてきた。ダイニングキッチンのドアが開いて買い物かごを抱えたアリアンナが入ってきた。

「やあ、お目覚めのようね。昨夜はかなり飲んだみたいだったけど」

「セルゲイには本当に面倒をかけたようだ。この家まで担いでくれて、おまけにベッドまで使わせてもらって。彼はきのうどこで寝たの?」

「テーブル横のソファよ。けさも取材があるって早くに出かけていった」

「朝早い仕事が控えていたのに、本当に申し訳ないな。いや、それにしてもお恥ずかしいかぎりだ……」

 泥酔して醜態をさらしたところを見られたと思うと本田は、アリアンナの顔をまともに見ることができなかった。

「誰にもやるせない思いにかられることってあるものよ」

 慈愛に満ちた声に誘われるように本田が顔を上げると、アリアンナは穏やかに微笑みかけていた。青い瞳には優しく包み込むような光が宿っていた。

「ロシアンティーを温めておいたの。アルコールの吸収がよくて二日酔いにはもってこいなのよ。さあ、めしあがれ」

 アリアンナはサモワールからカップに紅茶を注ぎ、本田に差し出した。本田は、青い湖のように光るアリアンナの瞳に見入りながらカップに口をつけた。ストレートティーと思いきや、ほのかな甘さが感じられた。果実のような芳醇な香りが鼻孔に届き、気持ちが落ち着いていく。

「どう、気分はいい?」

「ああ、落ち着くよ。ありがとう。それにしても俺は甘ったれているよな」

「どうして? 」

「この国では、政府に物申すためにはジャーナリストは命をかけなきゃならない。そんな厳しい状況でセルゲイたちは働いているというのに、一本記事をボツにされただけでヤケ酒あおっているなんて。みっともないかぎりだよ」

「そんなに自分を責めなくてもいいんじゃないの」

いつの間にか距離を詰めていたアリアンナは、そっと自らの手を本田の手に重ねた。

「故郷に家族を残して遠い国にやってきて、それだけでも精神的に大変だと思うもの。もっと自分を労わることも大切よ」

「ありがとう、でもきみの好意に甘えてばかりもいられない。俺はそろそろ行くよ」

そう言って立ち上がろうとした本田の手をアリアンナは強く握り返してきた。驚いて本田が見つめ返すと、アリアンナの瞳は幾分潤み、桃色の唇は、露をまとう花びらのようにかすかに開いていた。

「気づいていないかもしれないけど、ここで料理を食べたりおしゃべりしているときも、あなたは時々、寂しそうな表情を浮かべていたわ。それを見ていて私、心の支えになってあげたいと思うようになったの」

 アリアンナは、握った本田の手を頬に当て、さらに距離を詰めて見つめ返してきた。本田は胸の鼓動の高まりを感じるとともに、目の前の光景に薄っすらと霧がかかったように見え始めていた。

(妙だぞ。急に頭がボーっとしてきた……あの紅茶に何か入っていたのか……それに、これはまずい……)

 ロシアのみならず旧共産圏諸国に赴任する記者、外交官、ビジネスマン、誰もが警戒するよう釘を刺される言葉がある——ハニートラップ。

 諜報機関の手先である女性と関係を持つことで弱味を握られ、協力者に仕立てあげられるという構図だ。発覚すればキャリアや家庭を失うばかりか、国家機密の漏洩に荷担した犯罪者とされてしまう。

 辛うじて自制心が勝った本田は、よろめきながらもアリアンナの手を振りのけて立ち上がった。振りのけた勢いが強かったことにアリアンナは驚き、目を瞠った。

「いや……すまない。ご厚意はありがたいんだけど、やっぱり給料分は働かないと日本人というのは気持ちが落ち着かないんでね。これで失礼させてもらうよ。セルゲイにはくれぐれもよろしく伝えておいてくれ、それじゃあ……」

 本田は、ダイニングキッチンを出て行こうと思ったものの足がもつれて倒れそうになり、壁に手を突いた。アリアンナが駆け寄り、本田の腕をつかんだ。

「大丈夫? 具合が悪いなら、もう少し休んでいけば? 」

 アリアンナは、本田をソファに誘おうとする。本田の視界にかかる霧はさらに濃くなってきたが、むしろ恐怖心の方が大きくなってきた。

(だめだ……あの霧の向こうに行ったら、もう戻って来られなくなる……)

 故郷で夏の霧深い海を見ていた頃の記憶がよみがえってきた。

本田は、アリアンナを突き飛ばすように振り払った。ソファに倒れこむアリアンナの悲鳴が背後から聞こえたが、本田は振り返らず、壁に手をつきながら歩き、アパルトマンの玄関を出てタクシーを拾った。

 後部座席に座りこんでからも動悸は収まらず、額を脂汗が伝い流れたが、視界にかかった霧は少し晴れてきた。

(あれは、ハニートラップだったんだろうか? それとも好意からだったんだろうか?)

 本田の頭の中では思いが堂々巡りを続けていた。ただ、はっきりしていることは当面、コンドラチェンコ兄妹との接触は避けた方がいいということだ。

 故国を離れた孤独な暮らしの中で、ようやく心を通わせる仲間ができたと思っていたのに、人生とはうまく行かないものだ……。

 タクシーは、モスクワ川沿いのクレムリン川岸通りを走り抜けていた。車窓から高く聳えるようにクレムリン宮殿の赤い城壁が見える。アリアンナと遊覧船から見た時の鮮やかさとは対照的に、本田にはこの日の城壁がひどく陰鬱で冷たいものに感じられた。

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