青い瞳の女③

 デモの鎮圧騒ぎを逃れてセルゲイとアリアンナの家に匿われてから、ひと月がたった。

 アリアンナが東日新聞モスクワ支局に電話をかけてきた。約束どおり手料理を持って本田の家にうかがいたいという。断るのも角が立つし、さすがに未婚女性を夜、自宅に招くのは憚られたので、日曜日のお昼時を指定した。

 その日、アリアンナは鍋と黒パンを入れたバスケットを持って本田の部屋の前に現われた。鍋の中身はロシア風の水餃子「ぺリメニ」。ニンニクの風味が効いたオニオンスープに入った餃子に、ヨーグルトと生クリームを混ぜて作ったサワークリームをたっぷりつけて頂くのがロシア風だ。

 部屋に入るなり、エプロンを身に着けて料理を盛りつけていくアリアンナの手際の良さを本田は呆然と見守るしかなかった。

 気が付くとテーブルで向かいあい、サワークリームで酸味の効いた水餃子と黒パンを頬張っていた。

「いきなり来られたんで驚いたよ。セルゲイには言ってきたの?」

「子どもじゃないんだからいちいち兄貴にお断りなんか立てないわよ。それとも迷惑だったかしら? 」

「いやいや、男ひとりじゃロクな食事もできないから本当にありがたいよ。でも、どうして俺なんかにここまでしてくれるのか……」

アリアンナは少し照れるような笑みを浮かべた。

「ちゃんとこの前、予告はしていたわよ。昔、日本が仕掛けた奇襲攻撃じゃありませんからね」

 照れ隠しのたとえがお堅い歴史話なのが奇妙だったが、本田への好意が表情や話しぶりに現われていた。

 それにしても妻帯者の単身赴任の身の上で、こんな形で異国の女性が近づいてくるのは警戒すべきことではなかろうか……。本田の自制心を振り払うようにアリアンナは次の行動を宣言した。

「おなかも膨れたし、こんないい天気だからこれから一緒に出かけない? 春のモスクワを堪能しないのはもったいないわよ」

 魅惑的な青い瞳を輝かせて微笑みかけるアリアンナの提案を断る理由は見つからなかった。結果、二人はモスクワ川をゆく遊覧船の客となった。

 午後三時を過ぎても中天に陽は高い。

 日差しに川の水面が輝く中、クレムリンをはじめ白亜の救世主キリスト聖堂やゴーリキー公園などの風景が二人の前を通り過ぎていった。

 本田は大学生のときに一度ロシアを旅している。卒業前の三月で、遊覧船が行くモスクワ川も凍り付き、街は酷寒の中にあった。

「モスクワがこんなに穏やかで美しい町だというのは新鮮な発見だったな。日本人には閉ざされた国の寒さ厳しい都というイメージがあるからね。それにしても分からなくなるなぁ」

「何が? 」

「こんな穏やかで美しい風景の中で暮らす人たちがどうして他国の主権を犯すことにあれだけ肯定的でいられるのか。別にクリミア半島や南クリルがなくたって、この穏やさが覆るわけじゃないだろうに」

 笑みを浮かべて本田を見つめていたアリアンナが表情を硬くし、正面を向いた。その横顔を見ると表情に怒気が含まれていることが分かる。

「この平和は黙って与えられたものじゃないわ。ナチスや日本の侵略をとてつもない犠牲を払って退けたからこそ得られたものよ。そのことをこの国の大勢の人たちは胸に刻んでいる。クリミアや南クリルは先人たちが血を流して手に入れたものよ。その権利を主張して何が悪いっていうのかしら」

 本田は呆気にとられてアリアンナの顔をのぞきこんだ。ウクライナや日本に同情的な兄のセルゲイとは真反対の主張だからだ。アリアンナもウクライナ人のはずだ。にもかかわらず、なぜこんな「ロシア寄り」なことが言えるのだろうか?

「私は、兄貴ほど自分がウクライナ人だ、なんて意識はないわ。ロシアという国が豊かになったからこそ大学まで行かせてもらえて、まともな仕事にも就けたんだから、むしろベゾブラゾフには感謝している。ウクライナが私たちに何かしてくれたわけでもないしね。まあ、こんなこと兄貴の前で言ったら喧嘩になるから黙っているけど」

 兄のセルゲイは、ソ連崩壊の時期に青春時代を過ごし、ウクライナをはじめ旧ソ連圏諸国の民族主義が高揚するのを目の当りにした。それより一〇歳近く若い妹のアリアンナは、ベゾブラゾフ政権のもとで経済成長するロシアで思春期を過ごした。同居する兄妹の間でも、世代の違いが大きな政治意識の隔たりを生み出していることに本田は気づかされた。

 本田が驚いているのが気になったのか、アリアンナは再びにこやかな表情に戻った。

「本音を言えば、兄貴があんなにビルデルリングに肩入れするのはどうかと私は思っているんだけど、あなたが興味を持っているなら、兄貴を通して独占インタビューできないか掛け合ってみてもいいわよ」

 自宅に押し掛けて料理を振る舞い、デートに誘いだしたうえに特ダネのチャンスまで与えてくれる。あまりにめまぐるしい展開に目を見張る本田をアリアンナは微笑みながら見つめていた。


 アリアンナの意を受けたセルゲイの仲介で、野党指導者、アナトリー・ビルデルリングへのインタビューが実現したのは、初デートから、ひと月余り後のことだった。

「ハーイ! 日本のサムライに会えてとても光栄だよ! きょうはよろしく! 」

 ホテルの一室に、アリアンナの案内で現れたビルデルリングは、のっけからハイテンションだった。アリアンナとはかなり親しげで、時折彼女を見つめる視線には熱っぽいものが感じられた。この男、セルゲイに頼まれたというよりも、アリアンナが目当てで取材に応じたのではないかと本田は勘ぐってしまった。 

 これまで日本のメディアは、ビルデルリングに単独取材を行なったことがない。日本の江藤晋作総理は、ベゾブラゾフ大統領との「個人的関係」をテコに北方領土交渉を進めようとしている。

 本田の東日新聞も例外ではないが、総理への忖度から大統領の天敵とも言うべき野党政治家を敬遠する向きが日本のメディアにはある。その天敵が北方領土問題に対してどのようなビジョンを持っているのか、これまで明かされたことはなく、その発言は極めてスクープ性が高い。

 インタビューは、本田が二か月余り前の集会に参加し、そのままデモ行進に紛れ込み、機動隊の高圧放水の洗礼を受けた話を披露することから始まった。

「ほう、デモ取材で必需品のレインコートを忘れて、ずぶ濡れになったところをセルゲイに助けられて、それがご縁で、きょうの取材にたどりついたと」

「どんだ災難にあったと思いきや、思わぬ幸運が舞い込んできまして」

「そりゃあ、大統領にも感謝しないといけないなぁ」

 ビルデルリングは爆笑し、座の空気がなごんだ。

 序盤は、クリミア併合に対する欧米の制裁で、ロシアの経済危機を招いたベゾブラゾフ大統領への政策批判で話が展開した。大統領批判が熱を帯び、ビルデルリングの口が滑らかになってきた頃合いを見計らい、本田は本題をぶつけることにした。

「ところで『アニー』、わが日本もウクライナと同じくロシアとの間で領土問題を抱えています。南クリルです。これについてはどういうお考えをお持ちですか?」

 ビルデルリングはうっすらと笑みを浮かべた。ようやく本題に入ったと思ったようだ。

「あの問題こそ、悪しきスターリン主義の残滓そのものです。中立条約を一方的に破棄して不法に奪い取ったのは明らかでしょう。私はあの四つの島を日本に返還することこそ、ロシアの正義と、名実ともにスターリン主義と決別したことを国際社会に示すために必要だと考えています」

 本田は、こめかみのあたりがにわかに熱くなるのを感じた。

『——四島を返還することこそロシアの正義——』

 かつてソ連崩壊直後のエリツィン政権時代に、そうした主張がなかったわけではない。だが、ベゾブラゾフ政権が発足して以降、ロシアのどのレベルの政治家からも出てこなくなった発言だ。野党党首とは言え、そこまで踏み込んだことの意味は大きい。

 ビルデルリングはさらに畳みかけるように言葉を紡いだ。

「南クリルは人口の少ないへき地だし、返されても迷惑という人もいるかもしれませんがね。たとえ日本人が要らないと言っても南クリルは引き取ってもらわないと困るんです。

 ウクライナ問題で国際社会を敵に回してしまった今の状況を打開するには、大統領のように先に二島を返す、返さないという条件交渉を日本と続けているよりは、思い切った解決策を率先して我が国から示すべきだと私は思います。それが結果として国益にもかなうはずです」

 ロシアが、日本や欧米諸国と協調していく理想的な行動パターンをビルデルリングは示したと言えるだろう。だが、その主張は、現政権はもとより、ナショナリズムに煽られた大多数の国民や軍部。長年の実効支配の下で暮らす北方領土のロシア住民の納得を得られるとは到底思えない。あまりに理想的でありすぎる。本田は問いかけた。

「それが今のロシアで果たして可能でしょうか? 実現する具体的な方策はありますか?」

 すると、ビルデルリングは口角をあげて意味ありげな笑みを浮かべて本田の顔を覗き込んできた。

「きみは、日本人だよな?」

「はい、そうですが」

「ロシアという国がこの先、大きく変われるかどうかはきみたちの国との関わりが大きく影響してくるだろうね」

「日本との関わり……北方領土交渉が、ということでしょうか? 」

「むしろ、その先だよ。新しい我が国のために、きみたちの国がどれだけ力を貸してくれるか次第ということかな」

 思わせぶりな物の言い方だ。

「新しいロシアのために、日本が? 」

 本田は、笑みを湛え続けるビルデルリングを訝しく睨みながらさらに腹を探ろうとした。

 が、そこへ。

「議員! 外国メディアにあまり無責任なことをおっしゃると海外で持たれているクリーンなイメージに傷がつきますよ」

 アリアンナがたしなめるように声をかけた。顔を見ると、これまであまり見たことのない厳しい表情でビルデルリングを見つめている。

 ビルデルリングの顔から、すっと笑みが消えて、表情が強張った。どこか怯えているようにも見えた。

「ああ、そうそう。あまりいい加減のことは言えないな。そう……息長く友好な関係を続けていくことが大事ということだよ」

 北方四島返還に前向きなのは分かるが、ロシア国内で世論の支持を得ていくにはどうするのか。具体的な方策は何も答えていないに等しい。

 なおも本田は食い下がる質問を重ねたが、結局ビルデルリングはそれ以上何も語らなかった。

 それよりも気になったのが、インタビュー中にアリアンナが見せたビルデルリングにプレッシャーをかけたような態度だ。

(二人の間に何か秘密でもあるのか? 男女関係とは少し違う気がするんだが……)

 インタビューを終えてアリアンナとともにホテルを出たビルデルリングを遠目で追うと……立ち止って腕を組んだアリアンナに、ビルデルリングが俯いて向き合っている姿が見えた。

(どうなっているんだ? あの二人)

 北方四島返還に積極的なビルデルリングの姿勢が明らかになったことは成果だった。だが、本田は、インタビューを終えた後の二人の姿を見ながら、何とも言えない不可解さを感じていた。

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