青い瞳の女②

 本田は、夏になると濃い霧に覆われる海に面した町で生まれた。北海道の東端に位置する根室という町だ。母親は物心つく前に亡くなり、父親は高校教師として北海道内各地を転勤し続けたために本田は、母方の祖母・玉井輝子たまいてるこの手で育てられた。

輝子は、町の東端にある納沙布のさっぷという岬に幼い本田をよく連れて行き、そこから見える島々を見ながら繰り返し語り掛けた。

「あの向こうに『しぼつ』という島があってな。ばあちゃんはそこで生まれたんだ。昆布が、いっぱいとれてな。春先の浜は昆布で埋まるみたいだったよ。草原には、馬がたくさん放牧されていて、牧場のおじさんによく乗せてもらったもんだ……」

 択捉島えとろふとう国後島くなしりとう色丹島しこたんとう歯舞群島はぼまいぐんとうの「四島よんとう」からなる日本の北方領土。

このうち歯舞群島は大小八つの島からなり、輝子の故郷はその一つ志発島しぼつとうだ。

 第二次大戦終結時の志発島は、人口は二二四九人。海藻採取が盛んで、沖合漁業の基地にもなっていた。

 ソ連軍は、日本政府が降伏文書に調印した昭和二〇年九月二日のあとに、歯舞群島の占領に乗り出した。輝子の一家は、二年間ソ連軍占領下の志発島に抑留された後、家屋・財産を奪われ、日本へ強制送還された。

 終戦時一四歳だった輝子は、ソ連兵からレイプされそうになったり、衛生・食糧事情が悪化する中で、幼い弟を亡くしたりした。そうした過酷な体験が輝子を復讐心に燃える闘士にした。輝子は、北方領土返還を求める元住民の団体・千島列島居住者協会(千島協会)の理事を長く務めた。

だが、海を見ながら語り掛ける輝子の横顔は、いつも穏やかで楽し気だった。

 よっぽど楽しい思い出があるらしい。大勢の男たちを前にした厳しい表情と、がらりと変わる顔つきから本田は想像した。そんなに楽しいところなら僕も行ってみたいなぁ—— 岬に連れていかれるたびに本田は、夏には濃い霧に覆われる彼方の島々に思いをはせた。

 あの美しい青と白の世界の先に何があるんだろうか—— 憧れは尽きなかったが、同時に入りこんだら二度と帰って来られないような恐れを抱いたりもした。


 結局、そんな好奇心が本田をロシアという国に向かわせた。

 今、かの国の都・モスクワで相対した娘の瞳を見つめた時、あの青い海と白い霧に覆われた島々を眺めていた頃の思いがよみがえってきた。一度深みにはまれば抜け出せなくなるような恐れだ。

 娘の名はアリアンナ・エドゥアルドヴォ・コンドラチェンコワといった。あとで聞いたが年齢は三十一になるという。ややぽってりとした唇と、笑うと際立つエクボが特徴的な顔立ちだ。強いて言えば、ミランダ・カーに似ているか。体型はモデル並みのプロポーション。セルゲイも美男子だが、この兄にしてこの妹ありといったところか。

 その瞳に妖艶な光が感じられたのは一瞬のことで、本田を部屋に招き入れた後のアリアンナは、至って気さくな明るい態度で接してくれた。

「ちょうど良かったわ。日本人のお客さんが来たなら一度試してみたい料理があったの」

「いいね! いつもよりうまい夕食にありつけるなら大歓迎だ!」

 アリアンナの提案に、呼吸を合わせてセルゲイも歓声を上げた。

「風味付けのために日本製のカレールーを買っておいたのよ。これでカレーライスを作ります」

「ほう、日本で最もポピュラーな料理なんだろう。カズマ、ロシアに来てからは食べてないよな?」

「ああ、そろそろ日本食が恋しくなっていた頃だ、うれしいね」

「ライスも炊き上げますから一時間ほどお待ちくださいな。カズマさんのお気に召しますようにがんばるから」

「ようし、じゃあ夕食が出来るまでヴォトカで酒盛りだ。カズマ、それだけロシア語が達者ってことは、きみもイケル口なんだろう? 」

 セルゲイはヴォトカのボトルとグラスをキッチン奥の棚へ取りに行った。その傍らでエプロンをつけて料理を始めたアリアンナの後ろ姿が本田には一瞬、妻に重なって見えた。

 セルゲイはショットグラスになみなみと注いだヴォトカを一気に飲み干した。酒好きの本田もそれにならう。アルコール四〇度をこえる酒が食道を流れ下る熱さが全身に伝わっていくのを感じる。

「ずっと妹さんと二人暮らしなのかい? ご両親やほかの身内の方は? 」

 ショットグラスを持つセルゲイの手が止まり、顔から潮が引くように笑みが消えた。

「両親は二十年ほど前に相次いで亡くなったよ。経済危機の中でな。両親はウクライナ出身で、ソ連崩壊後に集団農場を捨ててモスクワに出てきたんだ。新生ロシアの誕生当時には、そんな食い詰めた農民や労働者がモスクワには大勢たむろしていた。経済危機の荒波は真っ先にそんな貧乏人を飲み込んだんだ」

 それまでの陽気さが一気になりを潜め、セルゲイは苦くつらい記憶を呼び起こしているようだった。両親がどのような亡くなり方をしたのか、とても尋ねられそうにはないと本田は感じた。

「さあ、できたわよ。お待ちかねのカレーライスのできあがり~♪」

 男同士の酒盛りが重い空気に傾いていたところへ、アリアンナは明るく割り込んできてくれた。

「最近お肉の値段が高くて、ジャガイモやニンジンの多いカレーになったんだけど。あまりとろみもなくってサラサラしすぎてるかしら」

 アリアンナは出来栄えに満足していないようだが、久しぶりに嗅ぐ香辛料の香りは十分に食欲を刺激してくれた。肉よりジャガイモが多いところも、祖母が作ってくれたカレーが思い出されて本田は懐かしさを感じた。

「おいしいよ。日本で子どもの頃に食べたのを思い出す」

「よかったわ! 喜んでもらえて」

「この香りと辛さがたまらないないぁ。すきっ腹で飲んでたからどんどん食えそうだ。ライスのおかわり頼むよ!」

 沈痛な表情でヴォトカをあおっていたセルゲイも、カレーの味で気分が和んだようだ。

 食事をとるときは殆ど一人という日々を過ごしていた本田にとっても、家族と離れて以来、二か月ぶりの団欒の場だった。心を許せる友人が誰も身近にいない中で、コンドラチェンコ兄妹との間に芽生えた交流を大事にしていきたい。

 本田がそんな思いにふけっていると、マナーモードにしていたスマートフォンが唸りをあげた。画面を見ると支局の番号。恐らく支局長の前澤からだ。

 「もしもし、前澤だ。今、どこにいる? 無事なのか? ビルデルリング派の市民デモを警官隊が鎮圧して逮捕者やけが人が一〇〇人近く出ていると言うんで心配してたんだぞ」

「申し訳ありません。今、取材先の方と一緒で、特にけがなどはしていません」

「まかり間違って警察に捕まったら国外追放になりかねんからな。そうなったら監督不行き届きで私の査定にも傷がつく。だいたい、ロシアの反体制派の動きなんて日本じゃ関心を持たれない枝葉のニュースなんだから、そんな危険を冒すことはないんだよ。タス通信やロイターの記事と写真を転用しとけば体裁はつく。もう少し費用対効果を考えた仕事をしてくれよ」

「はあ……」

「大事なのはベゾブラゾフの動向を追って、北方領土交渉への影響を探ることだ。政府がどんな手を打てばいいか判断材料となるニュースを少しでも多く日本に送ること。それが今、モスクワ特派員に与えたられた最大の使命だよ。わかってるね? 」

 こいつは、モスクワに来ても首相官邸の尺度でしかニュースを見られないのか。本田は思わずため息をついた。

 モスクワ支局長・前澤浩史まえざわひろしは、江藤晋作えとうしんさく総理に極めて近い政治部出身記者の一人だ。一昨年、内閣官房職員の機密費流用が発覚し、接待を受けたマスコミ関係者の一人として名前があがった。ほとぼりを冷ますために前澤はモスクワ支局長に飛ばされたと言われている。

 官邸に恩を売るニュースを送り、江藤総理の歓心を買うことで何としても政治部の要職に返り咲きたい。そんな前澤にとって反べゾブラゾフ派を取材しようとする本田の行動は目障りなものに写っていた。

「まことにご心配をおかけしてすみませんでした。だた、デモ隊と警官隊に肉薄したからこそ撮れた写真やインタビューもあります。これから支局にあがって朝までに原稿は上げておきますんで、よろしくお願いします」

「深夜残業はほどほどにしてくれよ。海外支局にも労基署の目は光っているんだからな」

 そこまで日本の労基署も暇ではないだろう。嫌味だと受け流して本田は電話を切った。

「何だか上司は、ご機嫌斜めみたいだな」

セルゲイはすっかり酔いがさめた風情だ。アリアンナも、険悪な表情で電話をする本田を心配そうに眺めていた。

「いやあ、きょうは思いもかけず、まるで日本に戻ったみたいな寛いだ気分にさせてもらったよ。ありがとう。また、ゆっくり来させてもらうよ」

 アパルトマンを後にしようとする本田をアリアンナは、外まで見送りに出た。

「今度は、ロシアの手料理をごちそうするわ。そのうち、あなたの家まで届けてあげる」

 別れ際、アリアンナの青い瞳に、男を幻惑させるような妖艶な光が宿った。本田は吸い込まれそうな気分になるのを辛うじてこらえて踵を返し、夜の闇の中に歩きだした。

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