ポセイドンの密約

幸田七之助

青い瞳の女①

「—♪We are the Champion, my friends—

            And, We will keep on fighting till the end♪—」

 響き渡っているのはロックバンド・クイーンのヒットナンバー「伝説のチャンピオン」だ。だが、屋外ステージ上にはロックバンドもボーカルの姿も見えない。カラフルな照明に照らし出された三〇〇インチのLEDビジョンには、フレディ・マーキュリーではなく、ブロンドの髪の下に精気に満ちたまなざしをぎらつかせた男の顔が大写しになっている。

「アーニー! アーニー! アーニー! アーニー!」

 大写しになった男の愛称を熱狂的に連呼する若者たちの歓声に、本田一馬は屋外ライブ会場に入り込んだような錯覚を覚えた。とてもロシアという国で開かれている政治集会とは思えない。

 やがて、LEDビジョンには、ドローンから撮影したと思われる空撮映像が流れ始めた。画面の奥に宮殿のような建物が見えている。画面の高度は下がり、建物がどんどん大写しになってくる。外壁を飛び越えると、鮮やかな緑の芝生の中央に噴水が引きあがる庭園が広がり、その先にはロココ調を思わせる貝殻を幾重にも重ねた精密な装飾を施した屋敷の玄関とバルコニーが姿を現わした。

 本田の周りの若者たちは、待ってましたとばかりに笑い声をあげ、囃すように口笛を吹き始めた。この集会を主催した男がYoutubeにアップした動画で、一週間余りで再生回数は一億回を超えるメガヒットを記録していた。

「諸君! すっかりおなじみになった映像だ。中には、この宮殿のオーナー専用のジムに、プール、カジノまで揃っている。さて、そのオーナーとは? 言わずと知れた、わが親愛なる大統領閣下である! 」

 煽情的なアナウンスが流れた後、LEDビジョンの映像は、ロシア連邦大統領、ワシレリー・ベゾブラゾフ氏の顔に切り替わった。大統領が口を開けて笑うたびに金歯が光り、顔の周囲をルーブル紙幣が飛び交った。会場は、拍手喝さいと大爆笑の渦に包まれた。

「アーニー! アーニー! アーニー! アーニー!」

 再び、若者たちの連呼が始まった。

 やがてLEDビジョンの映像は、『ベゾ』大統領から再びブロンド髪の鋭い目つきの男に変わり、ステージ上に当人が登場した。一九〇センチ近い長身にすらりと伸びた長い足。デニムのジーンズと黒皮のジャンパーを身にまとい、マイクを手に音楽のリズムに乗るように歩くさまはこれからシャウトし始めようというロック歌手を思わせた。

 『アニー』こと、アナトリー・ビルデルリング、四十五歳。来年に迫ったロシア大統領選挙への出馬を表明した野党政治家である。ステージ中央に立った「アニー」は、マイクを口元に運び、歌うように熱弁を振い始めた。

「親愛なる大統領閣下は言う。我々の暮らしが苦しいのは、アメリカやEUのせいだ。我らがクリミアを取り戻した正当な行為を一方的に侵略と決めつけて経済制裁を科すからだと。愛国心に訴えて、アメリカとEUに立ち向かえと旗を振る。

 でも、あの宮殿は何だ! 外国から金もぜいたく品も入ってこない中であんな暮らしができるのは、我々の払った税金から盗んでいるからではないのか! 国に尽くせと言いながら、我々の懐から金を巻き上げている盗人どもに、この国を委ねていていいのか! 諸君、どう思う?!」

 本田の周りの若者たちが呼応するように叫び始めた。

「ニエット! ニエット!」

「盗人たちから、この国を取り戻すんだ! 」

「盗賊どもを、クレムリンから追い出せ! 」

「諸君! だまされてはいけない! 政府がやっていることは、ロシアを世界から孤立させ、国民に苦しみを強いるだけだ! クリミア併合反対! 軍はウクライナから手を引け! 」

 クレムリンから北に一キロ余り。プーシキン広場に集まった二千人余りの聴衆のボルテージは、『アニー』の演説が始まって早々最高潮に達していた。

怒りに震えて顔を紅潮させる者。

感極まって滂沱の涙をこぼす者。

 酒のせいか或いはドラッグでもやっているのか、焦点の定まらない目つきでヘラヘラ笑いながら奇声を発する者等々。

 若者たちの表情はさまざまだが、共通するのは現状に対する強烈な不満だ。

 そのエネルギーがマグマのように高温を発し、吹き出し口を求めて激しく蠢いているさまを本田は目の当りにした。

(ここでなら、大きな仕事ができそうだ。やはり、単身でも来た甲斐はあったな)

 二〇一七年四月。日本の三大新聞社の一角を占める東日とうにち新聞の特派員として妻を故国に残し、モスクワに単身赴任して十日余り。本田一馬は、最初の取材現場に選んだアナトリー・ビルデルリングの政治集会の熱気に触れて気分を高揚させていた。

「きみは日本人の記者か? どうだい、アニーの演説と聴衆の盛り上がりぶりは。これがロシアの民衆が真に求めている政治家だよ! いつまでも『ベゾ』の時代が続くわけじゃない。国民の懐に手を突っ込んで、盗みを働くような連中は退場すべきなんだ。なあ、そう思わないか!?」

 本田が、盛んにカメラのシャッターを切っているのに目をつけたのか、「アニー」とよく似たブロンド髪の長身の男が声をかけてきた。歳のころは三十代後半あたりか。肩口にカメラと脚立を背負っているところからロシア人の同業者と思われた。

 若い頃のケビン・コスナーを思わせる美男子だが、一見さわやかに見える笑顔には、この世の現実を冷笑する虚無感があるように本田には感じられた。

「しかし、日本人がアニーの演説会を取材とは珍しいね。お宅の国の首相閣下は、随分と『ベゾ』との仲の良さをアピールしているからな。モスクワにいる日本人記者の多くは『ベゾ』の宿敵を追っかけるのを憚る向きがあるようなんだが、きみは考えが違うのか? それとも新顔みたいだから単なる勉強不足なのかな? 」

 いきなりの挑発に、本田は自分の直感の正しさを感じた。

「全ての日本の記者が首相の政策、特にロシアとの間の領土問題についてのスタンスを支持しているわけじゃない。僕もそうした一人だということさ」

 挑発に乗ってきたのが面白いのか、ロシア人の男は一層愉快そうな顔をした。

「ほう、なかなか骨があるんだな。領土問題というと、南クリルのことかい? 」

「ああ、お宅の国が国際法を犯して不当に占領した日本の北方領土だ。僕の祖母は、その中の歯舞群島はぼまいぐんとうの生まれなんだ」

 男が少々たじろぐかと思ったが、にこやかな表情は少しも変わらなかった。まるで全て織り込み済みであるかのようで、本田には不思議な感じがした。

「しかし、アニーが日本との領土問題にどれだけ関心を持っているかは未知数だぜ。ウクライナから手を引けとは、散々言っているけどな」

「だからこそ聞いてみたいんだ。彼の北方領土に対する見解を。あの「ベゾ宮殿」の動画は世界中にインパクトを与えたからな

 「アニー」は、ベゾブラゾフ大統領の他にも、閣僚や与党有力政治家の豪邸や隠し財産の実態をネット動画で次々と発信している。どの動画もハードロック歌手のミュージックビデオのように煽情的な作りだ。その政治手法は、経済制裁による不況で働き口もなく閉塞感を抱えた若者や貧困層の心を捉え、都市部では支持者が急増した。

 欧米諸国は、来るべき大統領選挙ではベゾブラゾフにとって最大の敵になると見て「アニー」に注目し、集会の会場には、各国メディア関係者の姿も目についた。

 やがて、集会の参加者たちは主催者の先導で、プーシキン広場からトベルスカヤ通りに出て、クレムリンに向けてデモ行進を開始した。本田は、ケビン・コスナー風の男と並んで隊列に加わる格好になった。皆、「アニー」の演説に煽られて、『ベゾ』は税金を盗んでいるとか、盗人連中をクレムリンから追い出せ、などと大声を上げている。

 しかし、この国で徒党を組み、こんなことを大声で口走ってただで済むとは思えない。本田は並んで歩く男にささやきかけた。

「昔からこの国では、民衆が徒党を組むと、皇帝が騎兵隊を差し向けて蹴散らしにかかるというのが映画ではおなじみのようだけど……」

 ケビン・コスナーはますます楽しそうな表情で本田に顔を向けた。

「うん、そろそろ馬の嘶きか、蹄の音が聞こえてこないか耳をすましてるんだ。周りの連中がうるさくて困るんだけどさ」

 ジョークのつもりだろうか? 緊張で本田は笑えなかった。

「やっぱり、クレムリンにたどり着く前に『騎兵隊』は現われるんだろう、かね? 」

 心持ち、自分の声に震えが来ているのを本田は感じた。

「そうだね。この先のマネージナヤ広場あたりに阻止線が張られているだろうな。

それと、きみ、レインコートは持ってないの? 防弾チョッキは必要なくても、モスクワのデモでは必需品だぜ」

 男がそうつぶやいた矢先、モスクワ市庁舎前の横合いの道から高圧放水車が現われた。思ったよりもクレムリンのずっと手前に阻止線は張られていたようだ。

 水だと思って高を括って顔面に食らうと失明もしかねないと、以前機動隊を取材したときに聞かされていた。車両の天井に据えられた放水銃がこちらを向いたところで、本田は頭を手で防護しながら顔を伏せた。

 やがて放水が「肉の壁」にぶつかる音、弾き飛ばされた人が路面を転がりながらあげる悲鳴や怒号が響き渡り、人の波が逆流して本田に向かってきた。道の脇に寄ってやり過ごそうとするが、人波は通りいっぱいに広がり、勢い余って道沿いの商店のガラスを突き破って転げまわる人の姿も見えた。

 放水の洗礼を受けた本田はズブ濡れになった。「群衆雪崩」に押し流されそうになっていたところ、強い力で肩をつかまれて路地裏に引きずりこまれた。

「こっちへ来るんだ。通りに残っていると警官に捕まっちまうぞ!」

 本田を引きずりこんだのは、ケビン・コスナー風の男だった。放水車の方を見ると、その背後から警棒を手にした警官たちが小走りに近づいてくるのが見える。最近ロシアの官憲は欧米メディアの記者をスパイ扱いしており、拘束して国外追放にする機会をうかがっていると支局長から聞かされていた。無論、日本人も例外ではない。特に反大統領派の取材は、格好のスパイ容疑の口実にされるから注意しろとも言われていた。

 男の素性はよく分からないが、ともかくこの場はこいつに着いていって逃れるしかない。迷路のような細い路地を走る男の背中を本田は懸命に追いかけた。

 十五分ほど走り続けたところで、古いアパルトマン群に囲まれたロータリーに出た。警官が後を追ってくる様子もなく、逃げおおせることができたようだ。

「このあたりは、テレメテフ通りと言ってね。かつてあのシドニー・ライリーの隠れ家もあったところだ。シドニー・ライリーは知っているかい?」

 シドニー・ライリーは、ロシア革命で誕生したばかりのボルシェビキ政権を転覆させようとしたイギリス秘密情報部の伝説的なスパイである。ウクライナ生まれのユダヤ人で、ジェームズ・ボンドのモデルの一人とも言われている。

 「女にもててギャンブルにも強くて、ボルシェビキに捕まっても処刑されるまで信念を曲げなかった。僕の憧れの人さ。それにあやかりたくて僕もここに住むことにしたんだ。

 おっと申し遅れたね、僕の名前はセルゲイ・コンドラチェンコ。フリーのジャーナリストだ。今は主に『アニー』の活動を追っている。きみの名前は? 」

「カズマ・ホンダ……」

「カズマか。一緒に逃げ回ったからきみには親しみを感じるよ。それにそんな濡れネズミじゃ風邪をひく。お近づきの印にわが家で着替えていってくれ。僕は妹と二人暮らしでね。多分、この時間、妹も帰ってるから世話を焼いてくれるだろう」

 アメリカ人のように陽気で溌剌としたセルゲイの態度に本田は、警戒心を抱かずそのまま自宅のアパルトマンを訪ねた。

「ただいま! すまないけどお風呂の用意を頼むよ。お客さんがズブ濡れなんだ」

「いらっしゃいませ。あら? 中国の方? 」

「いや、日本人だ。カズマ、妹のアリアンナだ。まあ遠慮しないで入ってくれ」

 セルゲイと同じく美しい金髪の娘が、玄関に立つ本田の顔をのぞきこんできた。深い湖のような大きな青い瞳。本田は、そこに吸い込まれていくような感覚を覚えていた。

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