王都レスタの終末
しみたま
王都レスタの終末
ある王国の首都レスタ、そこはとても栄えており、『王都』と呼ばれ親しまれていました。
賢く心優しい王が治めていたので、国の争いごとは無く平和で、差別や犯罪もなく過ごしやすい都でした。
「──と、まあそんなところでしょうか」
修道服の少女は手帳をぱたむと閉じて、萬年筆と一緒に大きく開いた袖の中に入れ、人々が往来する昼の王都を見渡す。人々の談笑など大小様々な声が入り交じった活気溢れる喧騒が彼女の耳に届いた。
ベールの隙間から手を差し込んで水色の長髪を耳にかけ、群青色の瞳を薄め、薄桃色の唇を開く。
「良い都、ですね」
微笑んでそう呟くと、少女は噴水公園の階段から立ち上がり石造りの大通りを歩き始めた。
少し背の小さい彼女がぴんと背筋を伸ばして歩く様子は、初めて見る街に興味を持つ純真な子供のように見えた。しかしそれと同時に、整った美しい顔立ちと淑やかな袖広の修道服が彼女を大人らしくも感じさせた。
黄土色の石材や赤褐色のレンガが、南中した太陽からの光を受けて鮮やかに輝く。通りの中央にある水道には透き通った清水のせせらぎがきらめいた。
赤や黄など色とりどりの天幕を張った屋台がずらりと立ち並び、それを目当てとする人々で通りは埋め尽くされていた。
春らしい暖かな風は食欲をそそる大衆食の香りを纏って少女のすぐ横を通り抜ける。鼻腔に入り込むそれは乱雑としていたが、それでも垂涎を誘う芳香だった。
少女はしばらくの間、多種多様な屋台たちへ脇目を振り撒いていたが、ついに一つの焼き鳥屋に狙いを定めると動かしていた足を止めた。
しばらく品書きを眺めた後、塩味の鳥串を指さして店主の男に話しかける。
「すみません。これをおひとつ頂けますか?」
「毎度あり、40ゴルドだよ」
少女は袖口から銅貨を四枚取り出し、綺麗に重ねて男店主に手渡した。
代わりに受け取った鳥串を、覚束無いといった感じに手で皿を作りながら口に入れると、頬に手を当て顔を綻ばせた。
「ん〜っ! 美味しいです! あぁ、他の味のも食べてみたいのですが、もうこれだけでお腹がいっぱいで……」
「うちは夜まで開いてるからまた後で来てくれよ。……ところで、こんな時間にシスターさんがどうしてここに? 顔も見たことねぇしなあ」
申し訳なさそうにはにかむ彼女に、男店主は少し訝しむようにして問いかけた。
少女は口の中に残った肉を全て飲み込むと、一歩下がり胸に手を添えて浅めに礼をする。
「申し遅れました。私、シスターのイグニア・ディンゼルと申します。まあ、とは言っても固定の教会があるわけではありませんよ。しがない放浪シスターです」
少女、改めイグニアがそう言うと、男店主は警戒を解いたのか険しかった表情をぱっと明るくして快活に笑い、長く続く大通りを指すように腕を大きく広げてみせた。
「なんだそうだったのか。俺の名前はアイクだ。そしてようこそ王都レスタへ! この大通りにはだいたい何でもある。楽しんでいってくれ」
◇◇◇
「本当に、良い方々……」
通りを歩くイグニアが感心したように声を漏らす。現に彼女はその道のりで、焼き鳥屋の店主と会った後にも老若男女多くの人間の親切さを身に染みて実感していた。
だが、それとは裏腹に彼女の微笑みには少し陰りがあった。
群青色の瞳には、どこか憐れむような、悲しむような色があった。
少しの間ぼうっと歩いていた彼女は、道行く雑多の中に一人の幼い少女を視界の端に捉えた。
齢十にも満たない程に見えたその少女は、派手な装飾がされた大きな紙袋をいくつも持ち上げようとして、必死の形相でうんうんと小さい声で唸っていた。少女が身体を揺らすたび、白い帽子とピンクのワンピースがひらひらとはためく。
イグニアは迷わずその少女へ駆け寄り、整った美しい笑顔を浮かべ、優しく穏やかな声で話しかけた。
「お荷物、お持ちしましょうか?」
「え! いいの? でも重いよ?」
「それくらいなら平気ですよ」
ひょいと荷物を広い袖の中に入れて、心配そうな表情をする少女にほら、と言ってみせる。
相当な重さと大きさがあったはずだったが、修道服の袖は少しも膨らむことはなかった。
「ね、大丈夫でしょう?」
「わっ、無くなっちゃった! すごい! シスターのお姉ちゃんありがとう!」
ぎょっと驚いて口を開けた後、花が咲くように少女は笑った。ころころと表情を変えるその様子は、まさに年相応というものだった。
少女はイグニアの袖を物珍しそうに眺めていたが、はっとしたように目を開くと、姿勢を正して初々しさを感じさせる敬語で話し始めた。
「私、エリスっていいます!」
「ふふっ、これはどうもご丁寧に。私はイグニア・ディンゼルと申します」
「あの、それで、いいことをされたら……、ので、お返しがしたくって」
付いてきて、とエリスと名乗った少女は言うと、イグニアの手を引いて駆け出した。その行動に対して彼女は母親が我が子へ向けるように慈愛に満ちた顔をしたが、その起伏が薄い演技じみた表情はすぐさま崩れ去ることになる。
「一番楽しい場所に連れて行ってあげる!」
「っ! そっ、それはどこですか!?」
少女の言葉に過剰に反応するイグニア。余裕を感じさせる落ち着いた面差しが一転、瞳孔が狭まって口角が歪に上がり、気持ちの悪い窃笑が現れた。それは恐らくこの王都に来てから初めて彼女が発露した本心であり、本来在るべきシスターの姿とは似ても似つかぬものであった。
息を荒げて興奮した様子のイグニアに少しも気づく様子は無いまま、少女は溌剌として答える。
「お花畑だよ! パパとママが教えてくれた秘密のお花畑!」
「…………そう、ですか」
『一番楽しい場所』の正体を知ったその瞬間、すぅ、とイグニアの顔から一切の笑みが消え去る。そして代わりに這い出てきたのは、悍ましいまでの憐憫の情。
蒙昧たることを憐れむように、その群青色の瞳を悄悄と薄めて目の前の少女を見る。
この俄然とした哀憐への表情の変化もまた、彼女の本心の発露だった。
どれほど彼女達は走っていただろう。それはたった数秒ほどの僅かな時間だったが、イグニアにとってだけはいくばくか長く感じられた。
幼い少女に導かれ立ち入った路地はほぼ陽の光が入らない道であった。昼とは思えぬほど暗く淀んだ色の視界の中、側壁のレンガは乾いた血のような焦茶色をしていた。
イグニアの陰鬱とした足取りが、苔まみれの黒ずんだ石灰岩の上でついに止まる。
後ろに手を引かれる感覚に少女が振り返った。
「ん? お姉ちゃん、どうかし」
「エリスちゃん。私も、楽しい場所を知っているんです」
蠱惑的な甘い声が言った。
「え、ほんと!?」
「はい。一番、楽しい場所です。行きたいですか?」
「うん、行きたい!」
「じゃあ、此方へ……」
伏し目がちに小さく両手を広げ、口角だけを上げて作ったような微笑みを少女に向けた。
その様子は明らかに危うい雰囲気を醸していたが、この狭い路地で唯一イグニアを見たまだ幼い少女は、他者の善意を感じ取ることはできてもその結末が常に純良とは限らないということを理解できていなかった。
なんの疑いも無いまま純粋な眼差しを向ける少女。その肩へ伸びる左手は白く細く妖艶で、この世のものとは思えない程美しかった。
それは肩に触れ、背中に回り、絡みつくように少女の体を引き寄せた。まるで愛する自らの子を抱きとめるように、ゆっくりと小さい背中を擦り下ろし、逆の手を細い首に回し……。
大きく開いた袖から伸びる黒い触手が、少女の胸を貫いた。
「……ごぶっ」
「はあ、やっと『ご案内』できました」
少女を抱き締めたまま、イグニアが息まじりの声で囁く。叫び声も上げぬままがくんと力が抜けた短躯を掻き抱き、見る者も怯懦とさせる惨たらしい恍惚の表情を滲ませる。
「私は、ここにいる方々が、可哀想でならないのです。ここよりもずっと幸せな場所があるのに、貴方達はそれを知らないままでいる」
イグニアが涙を流す。少女の胸から真っ赤な血が溢れ出る。
小さい体に突き立った禍々しい触手は黒々とした甲殻を持っており、その先端は蠍の針のように鋭く尖っていた。
そして、それと同じ形をしたものが、今まで抑えたものを解き放つように、修道服の広袖や裾から幾本となく流れ出した。
「私は、死の淵で我が主神がお見せになった最上の景色を皆様へお教えしたくて、ここへ参ったのです」
しゅるしゅると、靱やかな触手が地面を這う耳障りな音が響く。
もうぴくりとも動かなくなった少女を地面に横たえ、顔に被る長い髪を払った。
「エリスちゃんは良い子ですから、きっと『楽園』まで行けますよ」
光を映さなくなり開ききった瞳孔を羨ましそうに見つめて、頬を覆うように両手を添えた。イグニアの水色の長髪が垂れて、力が抜けた死顔をふわりと撫でた。
「あ、そうでした。お荷物はお返ししておかなければ。危うく泥棒になるところでした」
その場で立ち上がり、イグニアは預かっていた紙袋を亡骸のそばにひとつひとつ綺麗に並べていく。
全ての荷物を整えた後、これでよし、と安堵したように息をつくと、修道服の裾についた泥を払って太陽の光が差す大通りへと戻っていった。
袖口から、無数の触手を出したまま。
王都レスタ、その平和は何の前触れもなく、たった一体の異形によって崩れ去った。
夥しい量の黒い触手が鞭のように振るわれ、それが届く範囲にいた人間は細切れになり、視界を全て覆わんとする血煙と化していく。
血に塗れた惨憺たる光景を見て、その異形はほっと胸を撫で下ろしていた。その群青色の瞳からは、住民が一人命を落とす度に憐れみが少しずつ消えていった。
「……やはり、こうであるべきです」
焼き鳥屋の前で山椒の鳥串を食べながら、すっかり血生臭くなってしまった大通りを安らかな表情で眺める。
片足を触手に掴まれた店主の男は、目の前にいる異形──
「さて、お代は四十ゴルドでしたね」
「お前は俺を、俺達を殺すつもり、なのか?」
「……! ええ! 安心してください。楽園はここよりずっと良い所ですから!」
「……っ。じゃあ、金はいらない。その代わり一つだけ頼みがあるんだ」
一瞬悲痛な面持ちをぐっと強めた店主のその言葉に、イグニアは目を輝かせてばっと振り向く。急いで口の中の肉を飲み込むと、満面の笑顔と共に一際明るい声で返事をした。
「ええ! 私に出来ることなら何でも仰ってくださいっ!」
「……俺には妻と娘がいる。大切な、掛け替えのない家族だ。何よりも大事な家族だ」
「そんなに愛していらっしゃるとは……。素敵なご家族なのですね」
「ああ、お揃いの白い帽子とピンクのワンピースを着てるんだ。あいつらを、殺してほしくない。見逃してやってほしい」
「……?」
それはイグニアにとって全く理解できないことだった。何故なら楽園でできないことなど存在しないはずだからだ。その愚かな無知に、鎮まりつつあった憐れみがまたもやふつふつと湧き上がってくる。
店主の間違いを正そうと口を開こうとしたが、ほぼ時を同じくして聞こえた呟きに、それは中断されることとなった。
「レオナ、エリス……ッ」
「ん? 今、エリスと仰いましたか?」
「……娘の名前だよ」
確認するかのような問いに店主がぼそりと答えた。
ぶっきらぼうに答えたその声色は、その問いがどういった意図によるものなのかを考えていない故のものだったのだろう。一秒ほど間を開けてから察しがついたのか、店主の諦観じみていた面持ちが段々と青ざめていく。
イグニアは、奇な巡り合わせもあるものですね、と人差し指をぴんと立てた。
「エリスちゃん、私、先ほどお会いしましたよ!」
「……は?」
「確かに、ピンクのワンピースを着ていたと思います。白い帽子も」
「……おい」
「可愛らしいお子様でしたね。お母様とお父様から教えて頂いたというお花畑を気に入っていらっしゃるようでしたよ」
「おいぃッ!!」
店主は楽しそうにつらつらと話す目の前の女の襟首を乱暴に掴み、怒りを隠そうともせずに大口を開いて叫んだ。
「わわっ、どうかなさいまし」
「お前ぇっ! エリスに何をしたぁっ!!」
鬼気迫る様子の店主を間近に、イグニアがはっと手で口を抑える動作をしてみせた。
そんなわざとらしい身振りがどうしようもなく店主の癪に障ったが、その次に続いた言葉に、そんな小さな怒りは吹き飛ばされてしまう。
「申し訳ありません……。先程貴方と会った後、殺してしまいました……」
イグニアが脳裏に回視したのは、他でもないエリスという少女の亡骸だった。
焦ったように作り笑いを浮かべ、父親の前で娘を殺すに至った経緯を嬉々として語り始める。
「本当にすみません〜! あそこの路地でお会いしたのですが、とっても幸せそうでいらっしゃって。もっと幸せな場所があるのにって、ふふっ、ついつい……」
「……あ、あぁ……」
「今頃あちらで楽しく暮らしていると思います。あっ! そうだ! 奥様を一人残すのも酷でしょうし、やはりいっそのこと家族皆さんで楽園にいらしてはいかがですか?」
絶望と怒りが綯い交ぜになった表情を浮かべる店主へ、イグニアは名案だと言わんばかりにパンと手を鳴らした。
店主の修道服を掴む手はわなわなと震え、その逆の手は腰下げに差した包丁へと反射的に伸びる。
「ええ、そうと決まれば善は急げです! エリスちゃんを待たせちゃっても可哀想ですし、早く焼き鳥を食べて、貴方を殺して、それで奥様も見つけ出して──」
「──ッあ゛ああぁああぁぁッ!!!!! 殺してやる! この悪魔がああぁッ」
破顔一笑としたイグニア。その顔面を目掛けて、手に握った包丁を力の限り振り抜いた。
あの禍々しい触手に阻まれるかと思われたが、意外にも店主の手には確かに柔らかい肉を切り裂いた感触があった。
イグニアの首元から鮮血が舞い上がる。
それが描いた紅い軌跡に少しだけ目を取られた直後、店主の頭を黒き触手が貫いた。
ぱん、という音と共に頭部が弾け飛び、飛び散った肉片が水っぽい音を立ててレンガの壁にへばりついた。
イグニアは血で斑模様になった顔を残念そうに歪める。
「折角のお誘いですが、申し訳ありません……。私にはこうして各地を回って皆さんを楽園へご案内する使命がございまして、私がご一緒できるのはその役目を終えてからなのです」
少し遅れて店主の体がどちゃりと地面へ倒れ、包丁が甲高い音を立てて投げ出される。
彼が最期にイグニアに付けた首元の傷は、どぷんと真っ黒な影がそれを飲み込んだ一瞬のうちに、きれいさっぱりと無くなってしまった。
イグニアは袖口から出した銅貨を四枚綺麗に重ねて、半壊した焼き鳥屋のカウンターに置く。カチャリと金属の触れ合う音が静かになった大通りへ響いた。
「でも、貴方の家族への愛、美しゅうございました。奥様も必ず、送り届けて差し上げますからね」
首から上が無い屍にイグニアは深く礼をし、その後にこっと微笑んだ。群青色の瞳に憐れみは無く、むしろ羨望の色さえあった。
王都レスタ終末の日、未だ太陽は赤みすら帯びていない。
王都レスタの終末 しみたま @Shimitamagor
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