四ノ語リ

 二学期が始まりました。

 春も夏も里美は災厄続きでしたが、秋は初日から波乱含みでした。

 憔悴した顔で学校に行き、教室に入り――

 そこで彼女は絶叫しました。真予がいたからです。

 一月に愛犬を虐殺されて以来の、久しぶりの真予の登校でした。

 一見彼女は以前と変わりなく、里美を睨んでいるわけでもありません。それどころか、大騒ぎする里美を一瞥しただけで、後は無関心そのものだったと言います。元々のクラス編成では二人は同じ組だったのだし、今さら仰天するようなことでもないはずです。

 けれども、里美の悲鳴は止まりませんでした。まるで死神に逢ったみたいに真予の姿に取り乱し、しまいに支離滅裂なことを口走って泣き出す始末。結局、その日の里美は保健室にこもりっきりでした。

 彼女が何とか教室で授業を受けられるようになるまで一週間程度かかりました。その間に、真予は「生徒数調整の都合上」という名目で、他のクラスへ移らされています。

 誰もがびっくりしましたが、いちばん驚いたのは里美本人だったかも知れません。騒ぎの理由を尋ねられても、自身、言葉では説明できないようで、まるで要領を得ません。とにかく、ただ怖い、と、まるで幼児のようにだだをこねるばかり。

 里美がはっきりと幻覚に怯えるようになるのは、それから間もなくです。

 クラスメート達の多くも、だんだん様子がおかしくなってきました。幻の犬は里美以外に寄ってきたりはしませんでしたが、影が走ったりうなり声のようなものが聞こえたりするぐらいは、全員が連日体験するようになりました。

 特に、里美本人は授業中でもいきなり大声で悲鳴を上げるほどになり、頻繁に保健室と教室を行き来するようになります。

 分かりやすい話ながら、里美が出ていくと、嘘のように教室が明るくなり、異変もピタリと収まったとか。必然的に、里美からは人が離れ、暗に出ていってほしいという声が聞かれるようになりました。

 里美はじきに保健室登校へと切り替わります。半ば閉ざされた空間で、彼女はますます心を病み、容貌まで変わっていったそうですが、具体的なところは分かりません。おもしろおかしく脚色した噂と、冗談ごとではない体験談・目撃談、その二つが奇妙に混在し、じわじわと後者が前者を塗り替えていくような学校の雰囲気でした。

 冬の重苦しさが迫る十一月中旬、今度は史織のとんでもない行動が報じられます。

 彼女が中二でかなり性的に放縦だったのは町中の知るところでしたが、今度も乱交騒ぎでした。けれど、相手は人間ではなかったのです。

 信じられる情報の範囲では、史織が小雨の降るある夕刻、十数匹の野良犬に埋もれ、囲まれて、裸の体をのたくらせていたのは事実でしょう。犬達の体液にまみれていたのも確かです。

 ですから、この部分も決して切り捨てるわけにはいかないのですが――娘が体に浴びていたのは、唾液や精液だけでなく、大部分が血液や臓物だったらしいのです。

 なんと、あの子は野犬と交わりながら、他の何匹かと抱擁し、噛みつき、肉を食らっていたのですな。

 まさに、犬に取り憑かれた、としか思えない狂乱ぶりです。

 以後、史織が衆目の前に姿を見せることはありませんでした。遠い町の精神病院に入れられたとか、憑き物ばらいに神社へ預かりの身になっているとか、噂だけは喧しく人々の口を行き来しました。

 そのいずれでもなかったことは、じきに明らかになります。ええ、あれはクリスマス前。そろそろ二学期が終わる時分でしたか――。



 時に、お客人。

 最初にお聞きしたご友人のことですが。

 え、お忘れですか。長年犬憑きらしい症状にお悩みという、お客人のゆかりの方ですけれども。

 いえいえ。よろしいんですよ。ええ、間違いでなければ。

 で、そのご友人ですが。実際、どのようなご様子ですか?

 いえね。本物の犬憑きなら、「長年」ということはあり得ませんからね。

 ここまでのお話でお分かりでしょう? 犬憑きの呪いは、ちょっとしたまじないごとなど足元に及ばないほど強力で、激烈です。年単位で患い続けるということ自体、あり得ないはずなんですよ。

 はあ、キツネ憑きだったかも知れない、と? ははは。まあ、それなら安心――ということにはならんでしょうが……え? もし犬憑きだった場合、治療の方法は、と?

 どうしたんです。やっぱりキツネ憑きだろうとおっしゃったばかりじゃないですか。なのに、ずいぶん深刻なお顔で。……ええ、そりゃ、世の中いろんなケースがありますが。しかし、そのお友達の方は……。

 まあいいでしょう。はい、お答えできます。後学の参考にとおっしゃるなら、今ここで申し上げられますよ。

 犬憑きの治療法は、ありません。

 行く所まで行くしかない、と言うのが、とりあえずの回答になります。

 ですから……はい? 「行く所まで行く」とはどうなることか、ですか? ああ、話の腰を折ってしまったんですね。これは失礼。

 そう、これからお話しするところでした。犬憑きに遭った者の、一つの結末の姿、です。――まあ、それとて終わりではなかったわけですが……ね。



 事件後二学期の終わりまで、史織は学校にも友人の所にも現れませんでした。心の半ばが犬そのものと化してしまった以上は、家族からも見放されたのだろうと、みな想像していたようです。

 が、実際はどこへ預けられたわけでもなく、ただ引きこもっていたらしいです。事実上の軟禁ですな。それしかできなかったんでしょう。心療科もお祓いも一通り試した後だし、これ以上外で恥をさらすよりは、と両親が判断したのかも知れません。案外、もう何をする金もなくなっていただけかも知れませんが。

 けれど、自宅にはもちろん里美もいます。

 思い出してください。この頃の里美は、幻の犬に怯えきっていたんです。

 保健室登校以後は「犬」という言葉にさえ固まるようになり、学校の近くで野良犬が短く吠えただけで、身を転がして床にうずくまった、などと言われるほどです。通学路で犬を見ただけでもパニックになるから、秋はずっと自動車で送り迎えしてもらってます。それも、後部座席で身を伏せるようにして。

 そんな姉が、犬憑きの妹をどう見るか。どう感じるか。あるいは。あの事件もまた、起きるべくして起きた流れの一つだったでしょうか。

 ……おや、これはまた推測混じりになってしまいましたかな。ええ、あの日の里美の行動は、表向き、一切明らかにされていないのですから。

 ですが、その日のその時分、南波家には里美しかいなかったはずなんです。

 例の交通事故の処理から、疲れ切って帰宅した夫人が門をくぐるまで、誰も人の出入りは見ていないし、その気配もなかった。

 おっと、正確には、その数時間前までもう一人いたはずですね。

 ええ。まだ生きていた妹が、ですよ。

 ――夫人がはいつくばるようにして会社の事務所へ現れたのは、午後六時前後だったそうです。年度末ということで、南波建設にも途絶えていた仕事が何件か回ってきて、珍しく従業員が活発に出入りしていたのです。

 ろくに言葉が出ない夫人の手振りに促されるまま、南波宅のリビングに踏み込んだ人々は、生首事件の再来どころではないパニックに陥りました。

 部屋の中一面、壁と言わず天井と言わず、ひたすら細かい破片が飛び散っていました。何の? 肉の破片、ですよ。

 床の上は、足を汚さずにはどこも歩くことができないほどでした。心臓が、内臓が、骨のかけらが血の泥濘に浮かんでいます。その真ん中に置かれていた体は、華奢な体格と派手な衣類の断片から、史織のものに間違いありません。四肢はねじくれながら一応くっついていますが――頭がありませんでした。首から上を噛みちぎったような歯形が胴体の上に残っているだけでした。

 後から分かったことですが、史織は一時間近く体をかじられ続けたあげくに、頚動脈からの失血で落命したそうです。ただ、誰も悲鳴などは聞いておりませんので、まず喉を潰し、手足の腱を噛みきってから、ゆっくり全身を食い破っていったのではないか、とのことでした。

 伝聞によると、死体の発見時、庭の芝生の上に大型犬のような四つん這いの人影を、従業員の一人が見たとのことです。それは一抱えの丸いものをくわえていて、視線が合うやいなや、瞬く間に夜闇へ消え去った、と。

 翌朝、虚脱状態の表情で帰宅するまで、里美が行方知れずだったのは事実です。が、その後の警察の尋問でもはかばかしい証言は得られず、姉が妹を殺したと疑うに足る材料は見つかりませんでした。だいたい、里美が人間の頚を噛みちぎれるはずはありません。歯形も人間のものとは微妙に異なってましたし。

 では、外から何かが入ってきたのか? けれど、動物の毛や足跡など、どこにも見あたりません。

 里美は中三でしたが、こうなると受験どころではなくなってきます。三学期、里美が登校することはありませんでした。

 南波夫人は、どうやらギリギリまで近隣の有名私立高校に入学させようとしていたようですが、これだけの事件にまみれ、寄付金で何とかしようにも資産が底を突きかけていることを知ると、せめて学区の上位高に、と最後の追い込みへ娘を駆り立てました。

 二ヶ月の間、南波家でどのような親子の会話が、あるいは衝突があったのか、ごく近しい者でさえ、知る者はいませんでした。一月末で土建会社も親戚筋に経営権を譲ったため、親と娘はほとんど家にこもりっきりだったと言います。

 けれども結果として、どこの高校の受験会場にも、里美は現れませんでした。


 ……え、真予はいったい何をしていたのか、ですか?

 実は語るべきことがほとんどないのですよ。

 二学期以降は皆勤で登校していたにも関わらず、あの子は前にも増して寡黙で、一種透明な静けさに中にいたと言われています。

 いじめるものは一人もいなくなりました。中心人物が脱落したせいもありますが、それ以上に、取り巻き達も薄気味悪くて仕方なかったのではないでしょうか。

 下手に怨みを買って里美のような目に遭ってはたまらない、とも思ったでしょうね。

 真予の日常も平穏そのものでした。時々総真と雑談を交わす以外は、どんなニュースを聞いても――史織が食い殺されたという話に接してさえ――眉一つ動かさず、淡々と学業と寺の手伝いに励んでいたそうです。

 九月の始業式以降は、もう里美と会話はもちろん、目を合わせるようなこともなかったとか。それはまるで、最初からつながりなどなかったかのように――。

 いえ。

 一度だけ、ありました。それはこの昔語りの最後の部分でもあります。

 ええ。事実上の、南波家の終焉と言われている、あの日。


 第一発見者は南波氏の弁護士だったそうです。夏の交通事故がようやく一段落して、その最後の詰めとして、自宅にこもっていた氏を訪ねた時でした。時刻は夜の九時を回っていました。

 外灯と、屋敷からの明かりが薄く照らす芝生の上に、何やらがさがさと群がっているものを認めて、弁護士は目を凝らしました。

 直後に彼の魂切るような叫びが夜気を貫き、通りから近隣からわらわらと人が集まってきました。がっついていた野犬を追い払い、隠れていたものがあらわになると、人々の半分はその場にへたりこみ、半分は悲鳴も派手に逃げ出しました。

 夫妻の遺体は徹底的に壊されていました。ただ内臓が散乱しているだけではなく、全身の骨という骨が砕かれ、肉と脂肪が徹底的にすりつぶされ、人として受けとめられる限りの苦痛を与えられた痕跡がそこここにありました。

 噛み跡も無数についていましたが、石くれか何かで人体が泥になるまで殴打したような部分もあちこちにありました。打ちのめし、あるいは叩き割り、神経のついたまま中身を引きずり出し、小刻みに食いちぎったような跡まで庭中に散らばっています。

 妙な話ですが、それは憎しみの結果と言うよりは、飢えたけだものが御馳走に嬉々として飛びつき、お行儀悪く食い散らかした成れの果て、とでも言うべき印象だったそうです。むろん、発見当初は、みなあまりの惨状に発狂寸前でしたし、延々と食われ続けた方だって、多分早いうちに正気をなくしていたことでしょうが。

 さぞや凄絶な苦悶の表情を刻み込んでいたであろう頭部は、しかし見当たりませんでした。眼球らしいものが泥にまみれてテーブルの上に載っているだけです。

 ようやく騒然とし始めた屋敷の門の脇で、黒い影が動きました。敷地の隅にうずくまっていたので、誰も気がつかなかったのです。

 里美でした。

 返り血で全身真っ赤になり、蒼白になって震えている少女が、夫妻の頭部を抱えてしゃがんでいました。

 人々が輪を作りました。が、近づく者はいません。里美は一応正気らしく見えましたが、一ヶ所人間のものではなくなっている所がありました。

 歯です。異常に大きく伸びた犬歯が口元から覗き、深紅の滴りをこぼしていたのです。

 沈黙がその場を包んだ時、はっと里美が顔を上げ、みるみる涙をあふれさせました。

 道路側の人垣の中、いつの間にか真予が佇んでいたのです。

 数歩、里美がにじり寄りました。その目は「もう許して」と訴えているような苦しみに満ちていたといいます。

 が、真予はそんな里美にも無表情そのものの顔で。

 黙って首を振ったのです。

 おおおおおおん、と里美が天に向かって吠えました。おおおん、おおおおおん。絶望の遠吠えをひとしきり放つと、新しい生首を二つ抱えたまま、里美は一目散に駆け出しました。誰も止められず、追いつけないスピードだったそうです。

 南波家の門に犬の生首が並んでから、きっかり一年後の春の夜の出来事でした――。

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