参ノ語リ

 真予の受けた災難に関して、客観的にお話しできるのは、ここまでです。

 法律は何もしてくれないと悟った真予が、どんな決心をしたのか、はっきりしたことは何も言えません。無理に語ることは、全て無責任な憶測になりましょうし――。

 え、聞きたいことが? どうぞどうぞ。

 はい、無明寺の? 住職の息子? ふむ、おりましたね、確かに。

 そう、真予とは同い年でした。関係で言えば、伯母と甥、ということになります。名前は確か、総真そうま、と言いましたか。

 ……ほほう、よくご存じで。そういえば噂ぐらいにはなりましたかね。いえ、その頃に急に近づいたというわけじゃなく、元々幼なじみだったそうで。

 ……ええ、ええ。そりゃ、住職はね。あまりいい顔はできなかったでしょうね。だから、二人して表向き距離を置いていたようです。でも、香ノ木のご夫妻が亡くなった時はさすがに黙っていられなくなったようで。なんでも、結局無明寺が真予を引き取ったのも、総真が相当強く父親に迫ったからだ、とか――あ、噂ですがね。

 ま、確かに総真が真予のそばへ常時付き添うようになるのは、その頃からでしたか。噂よりはずっとプラトニックな関係だったと思いますけれども。だってあなた――

 ……え、もう一件? ええ、構いませんよ。

 何ですって、フジュツ? 『巫術雑録ふじゅつぞうろく』? ああ、あの無明寺の古文書、ですか。

 うーん、ずいぶん細かい事情をご存じですなあ。

 もっとも、昔からの土地の方なら小耳にぐらいは挟んでおられますかな。ええ、その筋では以前から有名でしたし。

 もちろん、実在します。はい、題名通りですよ。室町期から江戸期までの、民間呪術に関する記録が中心で。いや、書物自体は近世の研究書なんですがね。

 ……おお、本来の話題に近づいてまいりましたね。

 ええ、載っているようです。「犬憑き」の事例は結構な分量が収められておるようで。あれをじっくり読み解けば、まあ呪いの真似事ぐらいはできるでしょうな。

 …………はい。その推理も、もっともではありますな。実際、真予なら寺の書庫に立ち入ることだってできたでしょうし。総真が協力したということもあり得たでしょうし。

 客観的な証拠は何もありません。彼女が呪術に手を染めたことを裏付ける証言も、何一つ。ですが――

 ……いや、ここで下手な深入りはやめておきましょう。真相は事実の中にこそ、隠れているわけですし――。



 もし……お客人、もし?

 どうされました? いえ、何やら苦しげなご様子でしたので。

 気の滅入る昔語りばかりで、お疲れになりましたかな? 脅かすつもりはありませんが、この先はいよいよ陰惨な話に――。

 はい? 女性? 赤い着物の?

 その、渡り廊下に、ですか?

 いやいやお客人、やはり相当お疲れなのではありませんかな。今日いらっしゃったお客は黒のスーツ姿でして、多分今も奥の間で一人静かに過ごしておられるはず。この寺に、和服の女の方などいらっしゃいません。

 音? また音ですか。ふうむ、こりこり、ねえ。私にはまるで聞き取れないのですが。

 はあ、その人影が何やらかじっていた、と。

 女性がですか? 古びた土くれのようなものを?

 ふううむ、なかなか面白いものを目撃されておられるのですなあ。すぐその先に? たった今も? そうですか。

 まあ、古い寺ですから、何かの影がうろつくこともありましょうか。いえ、冗談ですよ。少なくとも私はそのようなもの、見たことはありません。

 何でしたら、一度安静になさって、しばらくお眠りいただいてからでも……続ける方がいい? そうですか? そうおっしゃるなら、まあ。



 コロの虐殺からちょうど四十九日が過ぎたぐらいの、三月半ばでした。南波家の三匹の犬が逃げ出す事件が起きたのです。

 その頃には、南波家では犬達の散歩を元通り従業員に任せていたようです。綱を取っていたのは力自慢の作業員見習い二名でしたが、犬達は突然二人の不意を付き、何かに呼ばれたかのように、猛スピードで逃げ去ってしまったとのことです。

 何しろ幼児ぐらいなら簡単にかみ殺せる大型犬です。数日間は従業員総出で探し回ったりしたのに、行方は杳として知れません。

 が、二週間も過ぎると、捜索と処分は保健所に一任して、無責任にも犬の存在自体を一家が忘れようとしていました。

 もう四月に入る間際でした。その日、朝刊を取りに出たのは南波夫人でした。

 その際、玄関ポーチにちらちらと灰のようなものが積もっていたという話が、記録の中に残ってます。最後までその事実は注目されなかったようですが。

 濃い朝靄の中、細い槍を並べたような幅広い洋風の門扉の上に、夫人は何かひしゃげたボールのような物が見えた気がしました。

 眉をひそめて顔を上げ、数歩近づき、不審物の正体に気づいた夫人は――この世の終わりのような悲鳴を上げたのです。

 慌てて家族が、従業員達が、近所一円の住民達が集まってきます。

 みな、夫人の視線を追い、揃って凍りつき、あるいはやはり盛大な悲鳴を響かせました。

 無理もありません。

 尖端に突き刺さっていたのは、犬の首。三つの生首が、鉛色の舌をだらりと伸ばし、てんででたらめな方向を向いた濁った目玉で、人々を睥睨していたのです。

 三匹とも黒っぽい毛並みでしたが、そのあちこちに、ぬいぐるみの鉤裂きのような赤茶色い裂け目が開いていました。その傷口や、首の切断面や、ばさついた毛の上のそこここに、小さな白い粒が見えます。

 蛆でした。三匹の首は、すでに腐乱していたのです。

 誰かが激しく嘔吐し、門の内外でほぼ全員がそれに続きました。吐寫物と腐敗した肉のにおいが朝の薄明かりに立ちこめ、一帯は地獄図のようになったそうです。

 当然のごとく警察が呼ばれ、悪質ないたずらとして調べられました。

 そして、真っ先に真予が、ついで総真も事情聴取に呼ばれました。

 が、すぐに帰されたのです。犯行推定時刻には、二人とも町外れの無明寺とは別の寺に所用で出かけていたとのことでした。バイクや自動車を利用できたとしても、無理があり過ぎるほど遠い場所に、です。

 そもそも、新聞の配達人も通行人も、犯人らしい人影一つ見ていないと言うのです。その日に朝靄が濃くなったのは、ちょうど夫人が新聞を取りに出た前後の時刻だけだし、現場は町の中心近くです。そこそこ重量もある生首を三つも並べるのに、人目につかないはずはありません。なのに、関連しそうな情報はまるで集まらないまま。ある時刻を境にして、ぱっと天から首が降ってきた、そうとしか考えられないような事件でした。

 捜査はまるで進展せず、早々に迷宮入りの様相を見せます。


 それが、始まりでした。

 新学期、真予も里美も中三に進級しますが、始業式に真予の姿はありませんでした。

 数日経っても登校する気配がありません。どうやら無明寺で寝起きしているらしく、寺の手伝いなど真面目にこなしているようなのに、事件のショックが残っていて、もう少し療養するとの話でした。

 南波姉妹が物足りなさを混じえつつ、取り巻き達と笑みを交わし合ったのも、まあ当然でしょう。この時点で、例の生首事件は、姉妹達の頭から徐々に忘れられようとしているように見えました。

 それが、授業が始まって数日後のことです。

 休み時間にクラスメートと談笑していた里美が、急にびくっと体を震わせ、足下や教室のあちこちを見回し始めました。犬がいたような気がする、と言うのです。ちょうど膝上の高さで、毛むくじゃらのけものが里美に触れ、はっはっと息を吐きながら、ひたひた足音を立てて通り過ぎていったというのです。

 けれど、何十人も生徒がいる教室ですよ。犬が来れば、騒ぎにならないはずがない。事実、誰もそんな影は見なかったし、そんな音は聞きませんでした。けれども、里美はなおもしつこいぐらいに周囲を探し続けました。

 冗談か気の迷いだろう、と思っていた取り巻き達は、次第にうそ寒い思いに捉われていきます。見えない〝犬〟が、その後も頻繁に現れるようになったからです。里美は授業中にまで犬が見えると訴え始め、小さく悲鳴を上げたり、いきなりイスを蹴倒すようにして立ち上がったり、教師から注意を受けることが多くなりました。

 一ヶ月ぐらいは、周囲も「生首事件が尾を引いてるから」と解釈していたのですが、そのうちに何人かの生徒たちが、似たようなことを言い立て始めました。曰く、白いむく犬が廊下にいた、犬みたいなぼんやりした影が里美をくんくん嗅ぎ回っている、四つ足の小さなけものが里美のスカートに前足をかけているような気がした、などなど。

 集団幻覚だったのか、はたまた全員が面白がって話を膨らませたのか。いずれにしても、不穏な噂は野火のように学校外へも流れ、里美はますます神経質になっていきます。

 同時期、史織にも異変が現れていました。粗雑で気まぐれな性格は元々でしたが、度を越えて怒りっぽくなったのです。やたらと物に体当たりし、無意味にうなり声を上げては人にかみつくようになりました。そう、まるで狂犬病の犬みたいに。

 ふざけているにしてはたちが悪く、それでいて本人に奇行の記憶は一切ないらしいのです。五月半ばでしたか、教室と廊下の間の曇りガラスに体ごと飛び込み、肩を三針縫ったりもしました。けれども、ケガの直後、本人は唖然として周りを見回すばかりだったと言います。

 ひそかに隣町の心療内科や精神科を訪ねたりもしたようですが、症状はいっこうに改善しません。

 犬憑き、という言葉が囁かれるようになったのも、この頃からだったと思います。


 ああ、そもそも犬憑きとはどんな呪いか、とおっしゃる?

 犬を殺すんですよ。徹底的に飢えさせてね。空腹の苦痛が頂点に達したところで、ばっさり首を切る。それから胴体を灰になるまで燃やし、その灰を送りつけて相手に不幸を呼び込む、と言うのが基本形です。

 具体的にどんな呪いを与えられるものかは、まあ術者の応用力次第ですが。

 南波家に? ええ、玄関に灰みたいなのがあった、というさっきの話ですね。はい、私個人はあれがそうではなかったかと思っておるのですがね。

 え? いや、灰に触れなければ大丈夫、というものでもないでしょう。遠くに逃げたとしても、安全とは言い切れません。

 だってね、〝呪い〟なんて結局想念の問題なんですよ。

 灰の落ちた相手に呪いがかかるのではなく、呪いをかけるべき相手に灰が落ちるんです。

 極端な話、怨念が強ければ、灰の微粒子はどこへだって飛んでいくんじゃありませんか。たとえ、地球の裏側にだってね。少なくとも、空気はつながっていますから。

 ええ、そりゃ、時間はかかるでしょう。でも裏返せば、どこへ逃げようが時間の問題だとも言えますから。何年経っても、追いかけていきますよ。たとえ十九年経とうが、相手が都会へ逃げのびていようが――。

 ……話が逸れましたかな。ええまあ、南波家の事件が犬憑きのせいだなどと、ここで断定するつもりはありませんがね。

 お加減はよろしいですか? また少し、お顔の色がすぐれないようにお見受けしますが……続けますか。はい、では。


 とにかく、里美も史織も何かが狂い始めているようでした。

 それでも周囲の判断は、二人とも微妙な年齢の娘だけに、少女期特有の精神疾患だと決めつける声が大半でした。

 しかし、おかしくなっていたのは中学生の姉妹だけではなかったのです。子供の怪談に毛が生えた程度の話から、一気に町の大事件へと騒ぎは拡がりました。

 七月に入ってすぐの、ある日曜日。

 開放的な季節を迎えて娘達を励まそうとしたのか、あるいは、下落気味の保護者間での求心力を挽回しようとしたのか、南波氏が会社の空きスペースを使ってバーベキューパーティーを開きました。里美と史織の主だった取り巻きを招待して、呼んだ側も呼ばれた側も久々に明るいひとときを過ごしたようです。

 一同上機嫌のうちにお開きになり、五、六人ほどを自宅に送り届けようと南波氏がボックスヴァンを回してきた、その時でした。

 子供達の目前に停車するかと思えた自動車が、いきなり急加速してその場の全員を跳ね飛ばしたのです。車は数十メートル蛇行して、やっと停車しました。

 仰天した夫人がヴァンに駆け寄ると、運転席から這うようにして氏が降りてきました。そして、一言「犬が……」と呟き、何もない後部席をのぞき込んでから、救急車の到着まで呆然としていたそうです。

 幸い、命に関わるケガをした者はいませんでした。が、後遺症が残りそうなケースも数人いて、さすがに親達もなあなあで済ませるわけにはいかなくなりました。

 噂によると、この事件の処理で、南波家は財産の七割超を使い果たしたと言われています。まずケガをした娘達の治療費・見舞金を人数分、それとは別に民事訴訟を回避するための示談金も人数分、そして刑事告発を回避するために雇った弁護士費用。他にも、検事宛の不起訴嘆願書を作る際にばらまいた裏金とか、しばらく赤字になった会社の維持費用もバカにならなかったようです。そんなこんなで、ようやく事件が一段落するのですが、それは半年以上先のことです。

 南波家にとっては大騒ぎの夏休みとなりましたが、八月はもう一つ、厄介な、そして異様な事件が起こります。

 史織が、男友達の肉を食いちぎったというのです。

 どうも、家全体が留守がちだったのをいいことに、史織は白昼から男達を取っ替え引っ替え呼び込んでいたらしいのです。元々そういう方面でも評判の芳しくない娘でした。で、事に及んでいる最中に、興奮して相手にかみつき、肩の肉を噛みきったらしいのです。

 本来なら男の方の自業自得として済ませられかねない、笑い話に近い事件ですが、少年は全身に噛み傷があり、肉のなくなったのも一ヶ所ではなく、かなりの重傷だったというから尋常ではありません。止めに入った他の少年達も、少なからずケガを負いました。

 史織が逮捕されずに済んだのは、やはり示談金の結果でしょう。この時期の南波家は、まるでやけくそのように現金をまき散らしていたような印象があります。

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