弐ノ語リ
真予の養父母が首を吊ったのは、彼女が中二の梅雨時でした。例の事件から、二年と少しが経った頃のことです。
その年は例年になく長雨続きで、短期契約をつないでつないで、何とか日々の生活と利子の返済をこなしてきたご夫婦も、完全に干上がってしまったようです。
ただ、ご夫婦が心配していたのは、自分達の境遇よりも真予でした。と言うのも、返済の長期化が必至になった時に、取り立て屋がしきりと中学卒業後の真予の〝アルバイト〟を口にしていたのだそうで。
そうですよ。思春期あたりの娘が債務者の家にいれば、業者の考えることは一つでしょう? こんな田舎でも――いや、こんな田舎だからこそ、未成年に稼がせる裏道は、色々作れるものですからねえ。
せめて、夜の商売にはまだ若すぎる、と業者が判断してくれそうな時期のうちに、ご夫婦は法的に債権を消滅させるべく、最後の手段に出たのでしょう。
夫婦の命をかけた願いは叶えられ、事件後業者はあっさり手を引きました。が、実際のところは、南波家から「この件にはもう関わるな」とでも言われたんじゃありませんか。世間体もありましたし、金の処理はどうとでもなりましたし。
そうですよ。その金融業者も、南波の親戚筋が深く関わっている会社なんですからね。どう見たって取り立てそのものが茶番じゃないですか。
ご夫婦の葬式は無明寺で行われました。
真予の父親に当たる人物は、数年前に物故していましたから、住職はその息子――真予から見れば、母親違いの義兄に当たる坊さん――に代替わりしていました。父親の恥という意識もあり、この人は真予には決して暖かく接してきませんでしたけれども、さすがに責任を感じたのでしょう、下町の塗装工夫婦にしては、やや不相応に思えるほど立派な葬式でした。むろん、全て寺持ちで。
ただ、どれだけ華やかに飾りたてても、愛犬一匹を横にぽつんと遺族席に佇んでいる真予の姿は、どこまでも痛々しく――時々、コロが力づけるように体をすり寄せるたび、その背中が小刻みに震えるのがまた、参列者の涙を誘ったと言います。
真予は一人になりました。
施設に移る話もあったのですが、コロと別れて暮らすのは嫌だと真予が訴えたこともあり、身元は無明寺が引き取りました。もっとも、同じ屋根の下で暮らすのは、真予も住職もどこか抵抗があったようで、結局元の家で今まで通り生活することになります。
家と言ってもごくごく小さな借家です。六畳二間と、何とか洗濯物が干せる程度の庭があるだけの。ええ、大家さんはかねてから同情的でしたから、書類上は無明寺が借り主になることとして、そのまま格安で住んでいいことになったんです。まあ、自殺の起きた物件だし、幽霊屋敷になるよりはいいと判断したのかも知れません。
けれども、こうも思います。やはりあの時、施設でもいい、誰か大人の保護の元に真予を置くべきだった、と。そうすれば、話はそこで終わったはずなんですよ――。
親を亡くして、それでも一人でがんばっている子。
新聞ネタになりそうな、いい話でしょう?
では、そういうクラスメートを持った子供は、一般にどう接するもんでしょうか?
そうです。いじめるんです。本格的にね。
人間というものは、金や地位だけでなく、心の強さや健気さといったものにも、劣等感を感じるんですなあ。特に逆境・不幸の類なんて、本来願って得られるものでもありませんから、いやが上にも理不尽な不平を抱くものなんですよ。
ましてや、そのいじめが一部の大人から奨励されているような社会ではね。
言うまでもありませんが、いじめの黒幕は里美でした。
里美とて、先だっての心中事件に衝撃を受けていないはずがない。色々なことを思い、様々なことを考えたでしょう。
けれども、ほんとは母親が全部悪いという自覚があるから、意識的に自分を、自分の家を正当化して守ろうという姿勢になる。つまり、今まで以上に真予を敵視するしかないわけです。それは、嘘だらけの数年間が暴露されることを恐怖し続けている、母親の気持ちそのままでした。
そういうゆがんだ倫理観は、妹にも自然に受け継がれたようです。当時中一だった史織は、いつ集めたのか年上の男子の取り巻きを何人も揃えていて、それがどいつもこいつもごろつきのような不良ばかりでして。
加えて姉と違い、史織はあんまり葛藤もなく、ただ楽しみで真予をいじめていたところがありましたね。もともと乱暴でわがままな性格でしたし、いじめ方も陰湿さよりは過激さが目につくもので。
例えば、いきなり夜中に真予の自宅まで集団で押し掛け、適当な理由をでっち上げては、開けろ、泊めろと言う。連れはほとんどが中三とか高校の男連中で、真予とはまるで面識のない奴らばかりです。断ると大声で騒ぎだし、ドアや窓を壊そうとまでする。
何度か、本当に窓が割られたこともありました。新しいガラスを入れる金がなくて、真予が紙でふさいでいると、そのすき間から生ゴミや汚物を投げ入れたりね。
さすがにそういういたずらは、近所や真予自身の通報で警察が対処しました。史織はいつもいちばんに逃げましたが、取り巻きが何人か補導されたこともあります。もっとも、子供同士の小競り合いだと言うことが分かってくると、警察もだんだん動きが鈍くなる。犯罪扱いされずに済むような方法とか、みんな色々知恵をつけてきますし。
さすがに無明寺も無視してはおれず、「しばらく寺で寝起きしてはどうか」と話を持っていったようですが、真予も意地になっていたところがありまして。こちらはこちらで、「負け」たくなかったんでしょうな。
まあ、まだ秋のうちはそれほどでもなかったんです。コロもいましたし。
じわじわと中身がエスカレートして、洒落にならなくなってきたのは、年末の辺りからでしょうか。
これは冬休み前でしたが、真予が夕刊配達の途中で、十人近い男――やはり史織の取り巻き達でした――に、あやうく雑木林の中に引っ張りこまれかけたことがあります。
河原沿いの、人家がややまばらな所で、性犯罪にはうってつけの場所でした。多勢に無勢でかなりきわどかったのを、その時はコロが男達の手足に派手にかみついて難を逃れました。
思えば、そんなことも伏線になっていたと言えましょうが――。
その前後から、南波家の近所では、里美と史織が取り巻きを引き連れて、三匹の大型犬をよく散歩させるようになりまして。
ああ、南波家の犬のことはお話ししてませんでしたね。
いたんですよ。結構前からね。ただ、何しろシェパードとドーベルマンと土佐犬ですから。小さな娘の手だと世話しきれず、散歩などは土建屋の若い衆に頼んでいたそうで。
それが、急に姉妹自ら世話をするようになって。はい、エサぐらいはいつもやっていたようですから、一応言うことは聞かせられたようです。
だいたい同じ時期ですか。噂が流れたことがあります。南波氏が「こいつらにかかれば、その辺のむく犬ぐらいひとたまりもないな」などと放言していた、とね。
だから、一応真予も警戒はしていたんです。
けれども、事件は起きました。
一月半ば、寒さがやや緩んだ折りの、ある早朝。
真予も、まさか朝早くに危険はないだろうと油断していたのかも知れません。
十二月の現場からそう遠くない、河原沿いの小道でした。新聞配達を済ませ、真予はコロと一緒に帰り道を歩いておりました。
と、いきなりその横っ面に、薬液入りの水風船が投げつけられたのです。
今で言う護身用スプレーに使うような液体だったようです。タバスコか、七味入りの水か、そんなものだったんでしょう。
相手が誰か確認できないままうずくまった真予は、一気に袋叩きに遭いました。
似たようなことはそれまでに何度もありましたが、ここまで不意を打たれたことはありませんでした。しかも、守り手のコロは別の敵に足止めを食っていたのです。どうやら、相手は数匹の犬を連れてきていたようでした。
伝え聞く真予の証言によれば、三、四人らしい男女の声も、相手の犬の声も、よく聞き知ったものだったそうです。一人はごく最近にケガを負ったのか、足を引きずっていたとも。ですが、何もかもあっと言う間で、証拠になる服の切れ端一つ、髪の毛一本、つかむことが出来ませんでした。
四方八方から蹴られて殴られて、真予の抵抗が弱まったところで、男が彼女にのしかかってきました。
泥の上を転がりながら、真予は必死で逃れようとしました。
コロが走り寄ってきたのはその時です。何か重たいものを引きずりながら、それでも暴行者へ激しく食らいつこうとしていたようでした。
男の悲鳴に続いて、女のヒステリックな命令が聞こえました。
途端に、数匹の犬が一斉に吠え立て、寄ってたかって何かに飛びかかって暴れているような、激しく入り乱れた物音が続きました。
ふっとコロの声が途絶え、ロープの巻き付くような音が走りました。やがて、この世のものとも思われない、のどが潰れていくような動物の呻き声が聞こえ、何かねばついたものがほとばしり出る気配がして、むっとするような生臭いにおいが漂いました。
誰かがバットか何かで、柔らかい物をめった打ちにしているようでした。ぴき、ぱきと枝が折れるような音がし、次第に泥を叩くような粘ついた音へと変わっていきました。
そして、それらの間中、すぐ近くで二人の女のくすくすと笑い合う声が、真予の耳にはずっと聞こえ続けていたそうです――。
気がつくと、真予は凍りついた路面の上に、ほとんど裸でうずくまっていました。肌にまとわりついている何が服でどれが泥なのか分からないほど、ひどい姿です。
全身に、擦り傷と打ち身がありました。顔も膨れ上がっているようです。肋骨の底が疼いて、関節のあちこちが捻挫みたいになってます。
けれども、腫れた目を眼前の地面に向けた瞬間、全身の痛みもいっぺんに吹き飛んでしまいました。
そこには、コロだったもの、がありました。
頭部は辛うじて原形をとどめていますが、眼球も脳もはみ出て、踏みにじられた跡さえあります。
四肢はまるで下手な竹細工のように、どこか不思議な形で折れ、白っぽい断面をさらしていました。
さらに、その手足が生えている胴体は、半分が泥と一体になっていました。犬殺しの犯人は、何度も何度も金属バットか何かで打ち据え、骨を砕き、踏みつけたのでしょう。
離れた土の上に、赤黒いひものような物が渦を巻いています。引きずり出されておもちゃにされたコロの
それは首輪でした。
コロが家にやってきたその翌日に、真予が貯金で買ってやった、思い出の首輪でした。
知らせを受けて無明寺の住職達が駆けつけた時、真予は人垣の中で錯乱状態になっていました。しわがれた声でひたすら意味のない音を叫び続け、血の泥をかき集めながら泣き喚いていたと言います。
無明寺で手当し、部屋も与えて気の鎮まるのを待ちましたが、半狂乱のまま、ろくに話もできません。養父母の自殺を知らされた時でさえ、いっとき取り乱しただけだったのに、あの子はそれから三日三晩叫び散らし、一週間泣き暮らしました。
真予が、育ての両親よりもペットを深く愛していたということでは、必ずしもないと思います。ただ、怒りや哀しみというものは、本来積み重なっていくものです。
杯いっぱいの水が、今一滴のしずくで一気になだれ落ちるがごとく、人の心もまた、打ち続く悲劇に対しては、なす
警察の事情聴取は十日後でした。訴えるには都合の悪いことに、引きこもっているうちケガのあらかたは治ってしまいました。強姦の痕跡がないのはせめてもの救いでしたが、それとて、犯人は単に証拠を遺さず、恐怖と屈辱のみを与えたかっただけなのかも知れません。
とにかく、立件できる事実は器物損壊の一点だけ。つまり、コロです。
そうですよ。愛犬がすぐそばで惨殺されても、刑法上は花瓶を割られたのと大して変わりません。今でこそ動物愛護法とか、色々ありますが、あの当時の風潮、それにあの田舎町ですから、飼い犬殺しなんて喧嘩以下の扱いと言うことです。警察も同情は示しましたが、背後事情のややこしさも察して、熱心には介入しませんでした。
事実関係をはっきりさせるには日が経ち過ぎていたというのも、やはり痛かった。証言は被害者の記憶のみで、終始目が見えていなかったなど、確証に欠ける部分が多い。真予本人からすれば、主犯の名前は明々白々なのでしょうが、実行犯の男の特定までは出来かねました。記憶を頼りに何とか一人の中三の少年を絞り込むと、元々問題児だったその彼は、当時家にも寄りつかないようになっていて、任意聴取にも呼べませんでした。
思い切って南波姉妹を調べてもらおうとしても、南波氏が弁護士の存在をちらつかせて、逆に名誉毀損で訴えられかねません。
結局真予は、泣き寝入りするしかなかったというわけです。
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