犬憑き

湾多珠巳

壱ノ語リ



 おや、お気づきになられましたか。

 どうぞ楽に。手当は済んでます。

 ええ、本堂の前に倒れておられましたので。

 私も気づくのが遅れまして、申し訳ない。他にお客がいたものですから。犬の声でやっとあなたを見つけたという体たらくで。

 感覚が変ですか? 失礼ですが、何かご病気で? そうではなく?

 なら、軽い貧血でしょう。なにしろ、山門までがあんな長い石段ですからなあ。お客人には申し訳ないと思っております。今日び、ここまで不便な寺も、かなり珍しいでしょうから。

 私ですか。はい、今は縁あってこの荒寺に。だいたいいつも一人です。今日は珍しい。お客が二人も重なるなんてね。

 ええ、まだ若造です。三十半ばですから。そうは見えない? はあ、貫録ですか。お褒め言葉と受け取るべきなのでしょう。いえいえ、よく言われますから。はっはっは。

 ……え? いえ、住み込んでいる人間は私一人で。そうですね、犬はおりますけれども。

 赤い着物の? 失礼ですが、記憶が混乱しておられるのでは? はい、お客も女性ですが、和服姿などではございませんし、奥の間で私とずっと。そうですよ。お見えになった時から、ずっとご一緒してましたから。

 いやいや、お気になさらず。ずいぶんお疲れのご様子でしたし。

 それで、何か訳があってお訪ねいただいたわけでしょうか? ああ、あちらのお客はしばらく大丈夫ですので。

 ほう、東京から? わざわざ遠いところを。ご旅行かなにか……はあはあ、こちらに実家が。里帰りですか。それはさぞご家族の方も……え、そうではなく?

 家出同様に? ふん、ずっと若い頃に、ですか。

 なるほど、それは帰りづらい……でしょうねえ。ですが、こうして戻る決心をなさったんなら……違うんですか? 帰る意志はない、と? ご家族にも黙ったままで? ではいったい何用で……

 ……ほう、旧い友人の一人が。それでわざわざお忍びで帰省してまで? 失礼ですが、それはあなたさまがそこまで労を折らねばならない事情でも……ああ、まあそうですね。こんな町ですから、郷里を出たことになっている者の方が、何かと自由に動けますからなあ。

 それはご苦労さまです。で、このような朽ちかけた寺への用向きとは――

 …………何ですって?

 犬憑き、ですか?

 犬を使って人を呪うという、あの犬憑き?

 ふうむ。どこからか無責任な噂でもお聞きになりましたかな。そのようなもの、この田舎町とはことさら何の関わりも――。

 ええ。確かに昔、そういう事件はありましたがね、しかし、お客人――。

 ……ふむ? ですが、先ほどずっと若い頃にこの町をお捨てになったと――。

 四十前? まだそんなお若い方でしたか。これは失礼を。

 なるほどね。あの騒ぎを、多少なりともじかに見ておられたと。ところが、ここを出てからは情報もさっぱりで、知人に当たっても誰も話したがらないでいると。

 しかるに、ご友人の一人が、詳しくは言えないけれども、未だにその煽りを受けたままで心を病んでいるようだ……と、こういうことですな?

 事情はわかりました。ですが、こちらの寺は町からも離れておりますし、あの折も大した関わりは……。

 ……なるほど、そういうことですか。はい、確かにこの寺は無明寺むみょうじと縁があります。ですから、なけなしの手がかりをお求めになるのも、まあ頷けますがね。

 記録? いえ、文書の類に何かが残っているということは、まずないと申し上げておきますよ。退屈な事務書類ぐらいしか置いておりませんし。

 私、ですか?

 私の見聞きしたお話を聞きたい、とおっしゃる?

 ふうむ、困りました。そうおっしゃられると、面と向かって偽りを申し立てるわけにはいきますまい。ええ、拙僧も全くのよそ者ではありませんしね。それに、こういう立場にいれば、それなりの話も集まってまいりますので、語って聞かせられないことはありませんが……。

 ……真相を、とおっしゃる? それはしかし、聞いたとして、その旧いお友達をお救いする手がかりになるものでしょうかな?

 …………

 ……

 分かりました。

 そこまでの覚悟でおいでなら、もう何も申しますまい。

 むしろ、語るべき時がついに来た、ということでありましょう。

 お話しいたしましょう。私の把握している範囲でよろしければ。

 ええ、そうです。あれは十九年前のこと。けれども、順序立ててご理解いただくには、もう少し以前の事情からお話しせねばなりますまい――。



 その娘は、香ノ木こうのぎ真予まよ、と申しまして。

 本町の、はい、香ノ木の夫婦の元で育った子で。

 ええ、養女だったことは町中に知れ渡っていましたな。本人も別段隠しておりませんでしたし。

 開き直り? いえ、それはちょっと違います。むしろ、養父母からの愛情を胸張って世間に知らしめているような、そんな感じでしたね。そんな娘でしたよ。

 ……ああ、そこまでご存じで。はい無明寺むみょうじの、先々代の住職ですな。やたら豪放で八方破れな坊さんだった、それが真予の父親。彼からかつて情けを受けた女性が、母親です。女性は一人で子供を育てようとしていたそうですが、若死にしまして。で、遺された娘が香ノ木の夫婦に託されたらしいです。

 出自が複雑なだけに、田舎社会特有のいじめは少なくなかったでしょうに、真予は心のまっすぐな、養父母思いの子に育ちました。やや内向的でもありましたけれど、言うべきことははっきり口に出す、芯の強いところもありました。

 さて、当時西町の外れには、南波なんば建設という、町でもよく知られた会社がありましたが、憶えておいでで? ええ、立派な洋風のお屋敷に、三階建ての社屋に駐車場と、一等地の一画を丸ごと所有していた、あの土建屋です。

 そこの長女がやはり真予と同い年で、里美と言いました。一つ下に史織という妹がいて、小さい頃はそれなりにつきあいもあったようで。他の子供達も交えて、色々遊んだり。小学校に上がる前ぐらいですから、誰しもが虚心に触れ合えた時期ですな。

 けれども、世の中のことが分かるにつれ、子供の世界も変わってしまうもんです。

 香ノ木の養父母が南波建設の下請け塗装工をやっていたことが、やはりいびつに作用したのでしょう。里美と史織から見れば、真予は家来風情の娘です。せめて、形だけでも自分達を立ててくれれば満足したのでしょうが、真予はその点不器用な娘で。年々よけいなプライドをつけていく姉妹に対し、あくまで対等に振る舞いました。

 結果、小五ぐらいには、双方の間にはっきり断絶が生じてしまっていたようです。学校の班行動でもろくに話もしないありさまで。

 ――まあ、真予本人は、日頃そんなにクラスメートと交わるタイプじゃありません。大勢の中では無口でしたし、何を考えているのか分からない、と誤解されることもしばしばで。あるいはその頃にはもう、四方八方からの品性のない雑言へ、心を鎧うすべを身につけていたということでしょうか。

 そう言えば、ちょうど、その頃でしょうかね。香ノ木の家で白いむく犬を飼うようになったのは。

 ええ、コロって名前でした。奥さんが知人から貰い受けて。引き取り手がないのを、無理に言いくるめられたそうです。

 でも、飼い犬としてはなかなかよくできた犬でした。真予にもよく懐きましたし、真予も犬の面倒をよく見ました。

 あるいは、コロという存在を得たことで、あの子は一層集団から外れ、孤独になってしまったのかも知れません。けれど、ほとんど休日のない養父母に代わって、コロが真予の大きな心の支えになっていたことは、確かでしょうし――。


 もっとも、あの子の性格形成なんて、この話の中ではほんの一部分にしか過ぎないんです。

 では、騒動の主因は何だったのか、と?

 そりゃやっぱり、両極端とも言える二つの家が、最悪の関わり方をしたという、まあ、宿業のなせる業、でしょうかな。

 片や、香ノ木のご夫婦は、善良を絵に描いたような方々で、しばしばお人好しすぎると陰口をたたかれたほどで。

 逆に、南波家はあの通り、家族全員が見栄っ張りのごうつくばりで、金と権勢のためならいくらでも他人を貶める人々でしたでしょう?

 いやいや、笑いごとじゃなくて。

 あれはあれで異常だったんですよ。香ノ木さんはともかく、南波家みたいに、家中一人残らず強烈なエゴを持っている家庭は、案外珍しい。しかも、それが土地の有力者だったんですから。

 もちろん、そんな中に真予という娘が存在したことが、決定的な要素だったのは間違いありませんが。


 ああ、順を追ってお話しするのでしたね。

 はい、あれは二十二年前の、六月頃でしたか。

 場所は栄町の中学校、その体育館の裏手でした。その日、香ノ木のご夫婦は、南波建設とは別口の仕事で、体育館壁面の補修作業に出かけておりました。

 で、昼休みの直後でしたが、その壁面を香ノ木の旦那さんが自動車で突き破った、とされる事件が起きたわけです。

 何しろ古い建物でしたからねえ。結構大きな崩れ方をして、危険調査のためにしばらく体育館は使えなかったとか。ええ、けが人が出なかったのは幸いでした。その時、そこで授業はなかったので。

 人の被害はなくとも、子供達からすればとんでもない迷惑です。特に体育館を使う運動部などは、先生方も抑えきれないほどに部員がエキサイトしてしまって。はい。とうとう夫婦が謝罪と称して生徒達の前で土下座させられる騒ぎにまで発展しました。

 何しろ中学生ですからね。攻撃性がいちばん活発な時期です。容赦がありませんでした。そこに悪意があったわけじゃなくとも、単純なペダルの踏み違えで壁に突っ込む事件なんて考えられないし、許せなかったんですな。

 嘘ですよ。

 全部嘘なんです。

 香ノ木さんは、夫婦のどちらもあの自動車を運転していなかったし、何の責任もありません。

 だって、突っ込んだ自動車は、南波の奥さんのBMWベームヴェーだったんですよ。

 なんで香ノ木さんが運転する必要があります? ええ、最終的な調書ではそうなっているそうですね。作業の荷物が多かったので、自動車が二台必要になった。それで、朝のうちに香ノ木の奥さんが、日頃つきあいのある南波家から借りてきた、と。

 ご冗談でしょう。どこのペンキ屋さんが、塗料の飛び散る現場に高級外車を乗り付けますか。

 確かにあの事件まで、香ノ木さんご夫婦は南波建設とそれなりにうまくやっていた。けれども、下請けとしてそこそこ重宝されていたという程度で、間違ってもBMWを気楽に借りられる関係ではありません。

 真相はこうです。

 あの日、中学校の横の小学校では、授業参観があったんです。

 ええ、南波の奥さんは、午後の参観に出ています。二十分ほど遅刻してね。参観に遅れるのはいつものことなのに、やけに慌てて見えた、と当時の子供の話が残ってます。

 つまり、それだけでも明らかでしょう? 小学校の前は駐車禁止です。夫人はその時、反則切符が溜まってました。香ノ木さんご夫妻が近くにいるのを思い出した彼女が、押しかけて車番を頼もうとしても不思議はありません。多分、

 ちなみに、呆れるほど傲慢な責任の押しつけは、半分旦那さんからのアドバイスだったようです。外聞を取り繕うことにかけては、あの人は恐ろしく頭が回る人間でしたから。

 香ノ木さん達ご夫妻は、南波夫婦の世間体の犠牲になっただけです。

 ただ、香ノ木さんの側も、事態をやや甘く見ていたきらいがありました。しばらく雇用主のわがままに目をつぶれば、結果的には引き合うはずと楽観していたんでしょう。

 が、そうはならなかった。

 一説には、南波建設がご夫婦への掛け金を踏み倒すため、中学OBの従業員を使って影から運動部員達をあおっていた、と言うことさえ囁かれていまして。

 と言うことは、すべて演技だったのかも知れませんが……とにかく南波夫人は、中学生とそのPTAが予想外に大騒ぎしているのを見て、怖さのあまり、必要以上の嘘を重ねるようになってしまいました。

 BMWの修理代を公然と香ノ木夫婦に請求したのも、その延長です。

 むちゃな話でしょう? ええ、ああいうのは、下手をすると新車を買った方がまだまし、という額になりますからね。請求したところで香ノ木さんが手に負える金額ではない。事実がどうあれ、南波の奥さんはそこまでやる必要はなかったはずなんです。

 けれども、実のところ、真相はかなりの町民が薄々感づいていましたし、彼女としては、いよいよ本気で被害者役を演じなければならなかったのでしょう。

 当然、香ノ木の家庭事情は一変しました。

 大金をふっかけるぐらいならせめて仕事を回せばいいのに、南波建設は香ノ木さんとの下請け契約を打ち切りました。ご夫婦は朝早くから深夜まで、時には夜を徹して、町の外の割のよくない仕事を、懸命になって拾い続けたそうです。

 一連の出来事の中で、真予が何を思い、何を考えていたのかは、彼女のみが知ることです。事件が起きた時に、あの子がぎりぎり小学生だったのは、不幸中の幸いだったかも知れません。もし中学生だったら、あの騒ぎの中、養父母と一緒に真予まで土下座させられていたでしょうから。

 ですが、それから一年弱で真予は中学へ上がりました。里美と同時に。

 まだ事件の記憶も生々しい上級生達が、真予をどう扱おうとしたか、いちいち申し上げるまでもありますまい。里美が真予に対してどう振る舞おうとしたかも。

 そうです。あげくが毎日のような嫌がらせ、いじめ、時には喧嘩。

 さすがに生徒の全員が全員、真予の敵ではありませんでしたけれども。ええ、何度も言いますが、真相を見抜いている人は、決して少なくなかったんです。

 でも、そういう層の支持を得るには、真予はかわいげがなさ過ぎましたねえ。下手に物を盗られたりすれば、犯人を自力で暴いて相手の物を壊すし。数人がかりでこづき回されそうになれば、本気で返り討ちにするし。ほっといても大丈夫だ、と周りが判断したのも当然で。せめて口数が多ければ印象も違ったのでしょうけれど、中学以降、あの子はますます無口になって。

 ただ、そうですな、まだその時期は、そんなに深刻な暗さは漂ってなかったように思います。周囲にしろ、真予本人は本人なりに逆境生活を楽しんでいるのではないか、と見なしていた節もあって。中一の彼女が複数のアルバイトを掛け持ちしているのを見ても、クラスメート達はそのたくましさに感心こそすれ、本気で心配する気分にはならなかったそうで。

 けれども、真予が中二に上がった頃、香ノ木家の事情は、もうどうしようもないほど切迫していたんです。

 南波家が自動車の修理代の取り立てを業者へ委託したからです。

 いつの間にか、香ノ木さんは高利の金融業者に、一千万近くの借金をしたことにされていたのですよ。

 どさくさに紛れて南波氏が書類をでっち上げたらしい、とのもっぱらの噂でしたが、書類は正式なものでした。誰も助けられず、金を作る以外、どうしようもありませんでした。



 ――まだ調子がお悪いようですね。ああ、ご無理は禁物です。ええ、寝ていてください。ただ横に。

 ……音? こりこりという音? いや、聞こえませんが。

 ずっと鳴り続けて? どこで……すぐ近くでですか。

 いやあ、やはりお疲れではないですか? 倒れたぐらいですから、幻聴が起きても……そんな音ではなく?

 ……ふむ、床下でネズミが木の実でもかじっておりますかな。私には全然。

 まあ、気になさるほどのことではないでしょう。

 続けますか? ええ、南波家がいよいよ香ノ木さんを追いつめた結果、なんですがね――。



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