夜のベランダと熊の鈴

第1話

その日はとても嫌なことがあった。

仕事で小さなミスをした。

それを過剰に叱責された。

要は、

「確かにミスをしたのは悪かったけどそんなに怒ることじゃなくない?」

ということだ。

その感情込みでよくあることと言えばよくあること。

謝罪もしたし、フォローもした。

それでも怒りが収まらない理由は、少なくとも私の中にはなかった。


思えば、昔からそんなことはままあった。

仕事でなくても、そうでなくても。

真実、私に非があっても、そうでなくても。

謂れのないことで強くあたられても反論できない。

そんなときも多い。

そのたびに、自分が削られていくような気がしていた。


私は空を見上げて息を吐いた。

白い息が黒い空に吸い込まれていく。

それでお金をもらっているから、そのお金で食べているから。

その理屈はわかるけれど、そのために人生のほとんどを自分をつぶされるようなところで嫌な思いをしながら生きていなければならないのなら、

「生きてる意味って、なんだろう」

悩み事の代表みたいな、チープな言葉しか出てこない。

そんなことほど本人にとっては割と深刻だ。


からん、と、グラスの中の氷が音を立てた。

酒は好きだけど、こういうときに飲んでもおいしくない。

そう分かっていても飲まずにはいられない。

そんな日もある。


私は琥珀色の液体を口に含んだ。

その行為すら、何のためにしているのか分からなくなる。

疲れていることだけは、よく分かった。

ひとつひとつの傷は小さくても、重なればかなりのダメージだ。

かといって、それをどうこうすることもできない。

辛すぎて笑える。

喉の奥から上がってきた嫌な笑いを唇から漏らした。

そのくらいのことは許されるだろう。

「そう卑屈にならなくてもいいんじゃないか?」

急に聞こえてきた声に心臓が飛び出るかと思った。

ここは自宅アパートのベランダ。

他の部屋の声が聞こえて来てもおかしくはない。

誰かに聞かれた?

何を?

心の声を?

知らないうちに口から駄々洩れさせていたんだろうか。

そう思っていると。

「こっちこっち」

そう言われて目を向けると、ベランダの柵のうえに小さな熊のぬいぐるみがいた。

どこにでもありそうな、小さな茶色のクマのぬいぐるみ。

首に真っ赤なリボンが結ばれている。

その真ん中に小さな鈴がついていた。

私は目をこすった。

とうとう酔いが回ったかと思った。

「言いたいことがあるならさ、僕に言えばいいよ」

熊は続ける。

私はきっとこれは夢だろうと思った。

そして、今日あったことをあらいざらい吐いた。

かなり自分勝手で、責任放棄で、社会人としてどうよと思うようなことをそのまま、全部。

熊のぬいぐるみは時々相槌を打ちながらそれを静かに聞いていた。

「気にすることないさ。機嫌が悪いのは君が悪いわけじゃない。単に運悪くトリガーを引いてしまっただけさ。君が引かなくてもいずれ誰かが引いただろう。それを引いた君は、他の要因を作りそうな人を守ったことにもなる。それに、」

熊はそこで小さく咳ばらいをした。

「誰だってミスはするものだろう?君はそれに対して的確に対応した。それでも寛容できないのは相手の器が小さいってことだ。それをまともに相手にしたら君の質が下がってしまう。相手にしないことだよ」

目をつぶって、と、熊は言った。

ばかばかしいが、私はよほど疲れていたのだろう。

熊に言われるままに目を閉じた。

すると、頭に軽く何かがふれる感触がした。

「君を守るおまじないをかけてあげるよ。もうレベルの低い人間は君に近づけない。」

もう大丈夫、安心していいよ、と、耳元に囁くような声がした。


翌朝、幾分はすっきりした気持ちで部屋を出た。

朝日は嫌味なほど清々しく差し込んでくる。

その光の中に白い息を吐くと、自分の中のもやもやも溶けていくようで気持ちが落ち着いた。

「おはようございます」

隣の部屋の前で知らない男性がこちらへ頭を下げた。

「あ、おはようございます」

私も自然と笑顔になる。

「今日から隣に住みます。よろしくお願いします。今からお仕事ですよね。ご挨拶は改めてお伺いします」

穏やかな笑顔が印象的だった。

聞いているだけで癒されるような柔らかな声。

「お気遣いありがとうございま、す」

デジャヴ。

何がかは分からない。

僅かに心に引っかかった。

その様子に男性が軽く首を傾げた。

「あ、いえ、すみません、急ぐのでまた後で」

「はい。ぜひ」

男性は小さく手を振って見送ってくれた。


背後で小さく、鈴の音が鳴った。

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夜のベランダと熊の鈴 @reimitsuki

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