第13話 イン・ザ・プール

 

 正直、友達なんてつくるだけ無駄なことだ。

 人間関係は増えれば増えるほど複雑に絡み合い、自分の日常を侵していく。

 俺にとって、信頼できる人間が一人でもいれば十分なのだ。

 それ以外の人間なんてどうでもいい。

 どうせ、橘 恵人という人物は存在そのものが嫌わていたのだから。


「鷹口さんは──」

「なんで……俺のことを『けいちゃん』って呼んでいるんだ?」


 しかし、そんな俺に見返りも求めず優しさを向けてくれる人がいる。


「俺は、どこかで君と会ったことがあるのか……?」


 そこまでして、俺と関わりたい人がいる。


「……やっと、聞いてくれたんだね」


 そんな人は、もう他人とは呼べない。どうでもいいわけがない。


 ──俺は、彼女に歩み寄るべきなのだ。


 だが、鷹口 水萌との間にある関係性に全く心当たりがない俺は、彼女が再び口を開くのを待つ。


「……前に、聞いたよね」

「誰かに『けいちゃん』って呼ばれた経験がある、って」

「ああ……昔、通ってた市民プールの人たちにそう呼ばれてたんだ」

「……沼岡市民プール、だよね」

「え……そう、だけど……なんで知っているんだ?」

「けいちゃんは……いつも遅い時間までいたよね?」


 彼女は俺の質問に答えず、質問で返される。

 ここは彼女のペースで話した方がいいのだろう。


「ああ……そんなつもりじゃなかったんだが、気づいたら日が落ちていたんだ」

「そのとき……プールに誰かいなかった?」

「プールに……?」


 俺は去年まで市民プールにいた記憶を脳内で巡らせる。

 しかし、市民プールの利用者を一人一人見ていたわけではなく、他人のことなど気にせずに過ごしていた俺は、記憶に残るほど特徴的な人物に思い当たりがなかった。


「……けいちゃんと同じように、いつも遅くまで泳いでた人、いなかった?」


 上手く思い出せずに苦戦していた俺を見た彼女は、誰かを導くように聞いてくる。


「遅くまで泳いでた人……」


 俺はその言葉を頼りに、再び記憶の中を探る。


 ──言われてみれば。


 確か……中二のとき。ちょうど俺が水泳を辞めた夏の終わりごろ。

 そのときから、いつも一人だった俺の空間に誰かがいた覚えがある。

 日が暮れた夜の静寂の中に、一人分の水飛沫みずしぶきの音が響いていたことを鮮明に覚えている。


「いた……確かに、いたな」

「その人、どんな人だった?」

「どんなって……」


 俺は記憶の片隅にあるその誰かを、なんとか捻りだすように思い出す。


「確か、どこかの部活みたいな集団の練習が終わったあとに残ってたから……多分、俺と同じくらいの歳の女の子で……いつも頑張ってるなぁって……」

「ねぇ、けいちゃん」

「……ん?」

「けいちゃん」

「な、なんだよ」

「けいちゃんは……私がなんで『けいちゃん』って呼んでるのか、聞きたいんだよね」

「ああ、だから今その話を…………っ!!」


 俺は、自分が言っていることにようやく気付いた。


 俺と一緒に最後まで残っていた、歳が近い女の子。

 沼岡市民プールにいた『けいちゃん』という存在を知っている。

 そして、『俺がけいちゃんである』ということが分かる。


 この3つの条件が彼女の口から導かれたということは、だ。


「……嘘、だろ?」


 鷹口 水萌。彼女こそが去年、俺と市民プールで時間を共にしたその誰か。

 俺は、知らないうちに彼女と深い関係を持っていたのだ。

 それもそのはず。俺と鷹口 水萌は互いの存在を認識しているだけで、全く面識がなかったのだから。


(こんな偶然……あるのかよ……)


「けいちゃんっ!!」


 突然、彼女は内に秘めた喜びを露わにするように、横から俺の胸に飛び込んできた。


「ちょっ!?」

「けいちゃん……けいちゃんけいちゃんけいちゃん!!」


 彼女は俺の名前を何度も呼びながら頭を擦り付ける。

 そして、ゆっくりと動きを止めた後、彼女は俺の胸に顔を埋めたまま自分の想いを告げた。


「会いたかったよ……けいちゃん」

「……ああ」


 俺は、彼女の言葉に応えるように優しく頭を撫でた。


「でも、どうして教えてくれなかったんだ? 言ってくれれば最初から分かったのに」

「私から言うのは、ダメ……けいちゃんから、思い出して欲しかった」


 俺を顔を見上げる、ほんのりと赤らめた彼女の表情が寸前にある。


 (……近い!)


 俺があともう少し顔を下げれば唇が触れてしまうほど、彼女との距離は近づいていた。


「「…………」」


 そして、互いに見つめ合うと、そのまま彼女の唇がゆっくりと開かれる。


「私ね……ずっと、あなたのことが──」


 キーーンコーーンカーーンコーーン。


 彼女が何かを言いかけたタイミングで、昼休みが終わる五時限目の予鈴が鳴り始めた。

 同時に、何かを思い止めた彼女は寄り添っていた俺の体からゆっくりと離れる。

 そして、予鈴が鳴り終わると頭を小さく横に振った。


「……ううん。それは、まだ」

「……え?」

「行こ、けいちゃん」


 彼女は自分の中で気持ちを切り替えると立ち上がり、小さな左手を向けてきた。


「……そうだな」


 俺も彼女の手を取り、立ち上がる。


 ──鷹口 水萌。

 自分を取り巻く疑問の一つが解消された気がして、心が少し軽くなった。


 更衣室を出た入り口の前で合流した俺は、彼女の隣で扉が開かれるのを待っている。

 しかし、彼女は鍵を差し込んだまま動かない。


「……鷹口さん?」


 俺が声をかけるも、全く反応しない。


「あの……どうされました?」

「……たかぐち、さん」

「え?」

「鷹口さん、ね……」

「……?」


 一瞬の間に何かを思い詰めた彼女は、鍵を差したまま真剣な眼差しを向けてきた。


「ねぇ、けいちゃん」

「……はい」

「私たち、市民プールでずっと二人きりだったよね?」

「まぁ、そういうことになってたな」

「私たち、一年間も一緒にいた関係だよね?」

「……え?」

「なのに……まだ、名前で呼んでくれないの?」

「……は?」

「白川 暦はいいのに、私は……ダメなの?」

「いや、それとこれとは──」

「ねぇ、ダメなの?」


 確かに、一年間同じ場所で共に過ごした間柄とは言え、別に友人でもなければ会話もしたことない。ましてや久しぶりに再会した相手をいきなり名前呼びなんて……ハードルが高すぎる。


「ねぇ、ダメなの?」


 しかし、何を言ったところで彼女には通用しない。彼女の要望に応えなければ、ここから一生出られないだろう。

 俺は仕方なく諦め──いや、彼女に合わせることにした。


「……わかったよ」


「行こうか、水萌みなも


「っ! ……うん、けいちゃん」


(……思った以上に恥ずかしいな)


 体温が急激に跳ね上がり、胸のあたりが少し苦しくなる。

 そんな俺と同じ気持ちなのか、顔を真っ赤に染めた水萌は鍵を回して扉を開け、二人は教室へ向かった。


 この日、俺の体は自分の奥底にあるが熱くなる感覚を、はっきりと刻まれた。

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【1000PV感謝】水も滴る恋心。~普通を求めた俺の高校生活にワケあり少女たちが寄ってくる~ 霧雨かねこ @kanekoneko_K

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