少女のぬいぐるみ

九十九

少女のぬいぐるみ

 その温かくて柔らかいぬいぐるみは、少女にとっての唯一となった。


 施設に少女が連れて来られたのは、少女が今よりも幼い頃だった。朧げな記憶しかなく、けれども色鮮やかな世界から白い世界に放り込まれた事だけは少女はよく覚えている。

 この施設が新しい君の家だ、と紹介され入ったのは何も無い部屋だった。少女の持ち物はその時着ていた服しかなかったから、部屋に物が増える事なく、その後、数年何も無い簡素な部屋で少女は暮らした。

 施設の白い世界の中、少女に与えられた世界は狭かった。少女が通された部屋と高い塀に囲まれた中庭だけ。部屋の中だけで全ての生活が完結できると言われれば恵まれている様だが、生活ができるだけだ。娯楽は無く、頼りにするものも無かった。

 少女は白い部屋の中で椅子に乗り上げて何時も窓の外を眺めていた。と言っても窓から見えるのは高い塀と中庭だけで外の様子なんて少しも分からない。それでも窓から見える青が、差し込む日が、輝く星が空に広がっていたから、少女は外の世界に繋がるその場所が案外気に入っていた。

 大人達は少女にさしたる関心を寄せてはいなかったから、少女に多くを与えてはくれなかった。与えてくれたのは生きるのに行き詰まらない程度の食事と少量の衣服、それと白い何もない部屋だけだ。

 大人達は少女に時折質問を投げかけて来た。今日の天気は、今日の調子は、何を夢に見た、そんな他愛ない問いが少女に投げかけられる。会話ではなく一方的なそれは、何度も繰り返され、大人達は何かを記録している様だった。

 代わり映えのない質問を繰り返し数年、答えを覚えてしまいそうな程、少女の答えが変化しなくなってきた頃、大人達は少女にぬいぐるみを一つ与えた。それは施設に少女が連れて来られて数年、初めての少女自身の物になった。

 何も無い部屋の中、ぬいぐるみが一つ増える。何も無かった真っ白な部屋の無機質さがぬいぐるみ一つあるだけで和らいだ。

 少女の手元、そこがぬいぐるみの定位置になった。少女は眠る時はぬいぐるみを抱きしめて眠り、窓の外を眺める時もぬいぐるみを膝の上に乗せて眺める様になった。中庭に出る時も少女はぬいぐるみの手を離さず、常にぬいぐるみを己の手元に置いた。

 

 少女が目を覚ました時、視界に細長い影が過った。ゆるり、ゆるり、と揺れるそれは少女の頬に触れると撫でるように動く。

 少女はぼんやりする視界を擦り、何度か瞬くと頬に触れるそれに触れた。柔らかくて温かいそれは、けれど霧を掴むように実体が無かった。触れる感覚はあるのに、掴もうとすると手をすり抜ける。

 少女は首を傾げて細長い植物の蔦の様なそれを目で追っていった。頬に触れるそれは少女の下、背中側から回っているようだった。背中側には何か入っているように体が持ち上がっている。

 ベッドの中で体を動かして、少女は上半身を起こす。そうしてさっきまで背中が着いていた場所に振り返る。

 そこには少女のぬいぐるみが倒れていた。寝ている間に潰してしまったらしい。見慣れたぬいぐるみの、けれども見慣れない物がぬいぐるみには付いていた。植物の蔦のような細長い触手がぬいぐるみの背面から出ていたのだ。

 少女がそっと持ち上げてぬいぐるみの背を覗くと、縫い目の隙間から触手が伸びていた。

 触手は意思があるように少女の頬や頭を撫でる。敵意の感じられないその動きに少女は早々に警戒心を無くし、何時もの様にぬいぐるみを抱きしめた。

「いきなり受け入れるのはどうかと」

 腕の中から響くような音が聞こえた。音は脳内で声として届く。少女は目を瞬かせて腕の中のぬいぐるみを見つめた。

「いくら敵意がなくても直ぐに受け入れるのは危険です」

 ぬいぐるみは触手をばつの形にして少女の目の前に掲げた。

「あなたに危害を加えることはありませんが、万が一そう言う個体が送られないとも限りません。私以外の個体には注意して下さい」

 大人達と同じ様な口調だが大人達の声よりもずっと柔らかい音に少女は素直に頷く。少し姿は変わってしまったが、少女にとってぬいぐるみは唯一の己のぬいぐるみである事に変わりなく、そのぬいぐるみが何やら自分を気遣ってくれているらしい事に少女は微笑むと、何時もより強くぬいぐるみを抱きしめた。


 ぬいぐるみは少女といる時以外、触手を出す事は無かった。ぬいぐるみは少女の周辺の事も認識しているようで、大人に見つからないようにと用心深く動いている。部屋の外から大人の気配を感じると、直ぐに触手を引っ込め少女の腕の中で静かにしていた。

 就寝前のぬいぐるみのお話は少女の新しい日常になった。ぬいぐるみは少女より遥か多く外の世界を知っていた。少女の知らぬ外の世界の話を、毎夜寝る前にぬいぐるみは少女に教え、けれども、けしてその事を大人達に知られてはならない様にと言い含めた。

 ぬいぐるみはよく少女の頭を撫でた。頑張った子供に大人はこうするものだと、施設の大人達には与えられないそれをぬいぐるみは少女に与えた。

 ぬいぐるみの話す事は、与えるものは、数年暮らした何も無い白い部屋の中では得られぬ物だった。

「ここから外に出たいと思いますか?」

 ベッドに潜った少女にぬいぐるみはそんな事を聞いた。触手が少女の額に掛かった髪を払い、丸いおでこを撫でる。少女からは触れられないのに、ぬいぐるみからは触れられるこの触手を少女は時折不思議に思う。

 少女は少し考えて、小さく首を縦に振ってから、首を横に振った。

「外に出たくとも行き場所が無いからですか?」

 うん、と少女は頷く。少女は施設以外に居場所が無い。仮に外へ出られたとしても大人が居ない少女は生きていく事は難しい。誰かが拾ってくれれば良いが、それが施設の関係者ではないとも限らない。施設の関係者だったら、また少女は白い世界の中だ。

 それにきっと出れない、と少女は呟いた。大人達は何時も少女を出さない為に細心の注意を払っている。部屋には鍵を掛け、少女が中庭に出る時は必ず二人同行者がいる。塀は高く、扉は重く、部屋の外にいる時、大人達は常に少女を見ていた。

 だからきっと出られない、と眠たさに瞼を閉じた少女は笑う。

「外に行った後の不安が何も無ければ、あなたは外に出たいですか?」

 眠くなる意識の中で、少女は頷いた。外に出たい、と果たしてそれが言葉になったかは分からないが、ぬいぐるみの触手は少女の小指に巻き付き、そうして揺れた。

 

 朝、目を覚ました時、施設の中はしんと静まり返っていた。何時も下の階から僅かに聞こえてくる大人の足音の一つも聞こえない。 

 少女は目を擦ってベッドを見た。ぬいぐるみがベッドの上にちょこんと座っている。

「下に降りましょう」

 ぬいぐるみは触手を出して少女の腕を掴むと緩やかに引っ張り、少女の腕の中へと移動する。

 少女は目を瞬かせながらも頷いて、扉に手を掛けた。

 鍵が開いている。何時も鍵の掛かっている扉は呆気なく開いた。重いそれを触手が手を貸しようやっと開く。大きな音がしたのに大人達は一向に来る気配が無かった。

 ぬいぐるみは何時も部屋の外に出たら触手を引っ込めていたのに、外に出てからも触手を自由に揺らしていた。少女が首を傾げても、気にしないでくれ、と言うだけで仕舞う気配は無い。  

 少女は階段を降り、食事をする部屋を抜け、中庭を通り過ぎると、普段近付かぬ玄関までやって来た。何枚も重い扉をぬいぐるみと開けて進んだそこは、もう何年も前、一度通ったきりの場所だ。何となく場所をずっと覚えてはいたが、今まで大人達が居たから訪れた事は無い。

 結局、玄関に着くまで大人達は何処にも居なかった。大人達が何処に行ったのか少女には分からない。施設はがらんとしていた。

「ここから外に出れます」

 ぬいぐるみは触手で扉に付けられた機械を操作し、呆気なく扉を開いた。開いた扉の先には草木豊かな外の世界が広がっていた。

「この先の生命の維持に関しては私が保証します」

 ぬいぐるみは少女の頬を触手で撫でる。少女はじっと足元を見た。後一歩進めば簡単に外の世界に行けてしまう。

「私と外の世界で暮らしましょう。鮮やかで自由な外の世界で。退屈な問答もあなたを制限する大人達もいません」

 ぬいぐるみはそっと少女の腕から抜け出し、扉の外に出る。温かくて柔らかいぬいぐるみが腕の中から居なくなり、途端に少女は不安になった。

「大丈夫です。私と共に行けば大丈夫です」

 触手が少女の手を引いた。

 少女は一度だけ振り返って、手を引かれるまま外の世界に一歩飛び出した。

 ぎゅうと少女はぬいぐるみを抱きしめる。温かく柔らかいそれに少女は安堵し、顔をぬいぐるみのお腹に埋めた。触手は優しく、少女の頭を撫でた。


 頼りになるぬいぐるみを抱きしめて少女は歩き出す。色鮮やかな世界の中を、施設の大人達に縛られずに歩き出す。白い世界は色付き、狭かった世界は広がった。

 未だ喧騒が遠い森の中で、少女はぬいぐるみと共に歩いて行った。

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