第18話

アイハヌムの街を出発した千人の兵の内、帰還出来たのはわずか二百人だった。それも蛮族と戦って討たれたのではなく、大部分の損害は突然起こった水害によるものだった。鈍色にびいろの鎧は泥に汚れ帰投する兵らの痛ましい姿は市民すら鼻をつまむほどだ。私は事態の報告を優先し、帰還早々 王に謁見えっけんを申し出た。


「して、フレイトス。蛮族は滅ぼしたのか」

ねぎらいの言葉は無かった。


「・・・はい」

「そうか。それならば、良い」


今宵は宴だ。王は短くそう言った。しかし私はとてもその言葉を喜ぶ気分にはなれなかった。目的を果たしたとはいえ、これで王の信頼を取り戻せたとも思わなかった。虚しかった。この手でやり遂げたことが、今までやり遂げてきた一切合切いっさいがっさいがすべて泡のように手のひらからこぼれ落ちていくようだった。

そんな私の気持ちをよそに、完成したばかりの総督府では宴の準備が大急ぎで進められていった。


「これはこれはフレイトス閣下。おひさしゅうございます」

「私は新しくバクトリアを束ねることになりました。ハズンドマでございます。お見知りおきを」

「今宵は閣下のご武勇をお聞きできるのを楽しみにしてまいりましたわ」

「多くの兵を失ったとのこと。さぞ勇猛なお話が聞けるのでしょうなァ」


街の商人。この地方の豪族、物見に来たマケドニア貴族。挨拶にくる顔は様々だった。人種の多様さに気づく度に、これまで故郷から駆け抜けてきた膨大な距離を思わずにはいられなかった。我が王は飲み込んできた多くの国を、民族を、今こうして目の前に陳列している。まるで集めた財や宝石を並べるように。

夕闇が辺りを包む中、奴隷たちが部屋を囲むようにランプに明かりを灯していく。照らされた室内には人々の影が踊った。吟遊詩人が王を讃える唄を奏でる。集められた貢物と色とりどりの食材。その中心に立った王は高らかに語りはじめた。


「皆聞くがいい。このバクトリアの地から悪魔はいなくなった。谷に巣くう人でなし共達は我ら屈強なマケドニアの前に屈した。いや、この地上から消え去ったのだ」


オオーッ


「余はこの、唯一にして無二の地に、新たなる国”アレクサンドリア”を建国することを誓おう!」


偉大なる陛下、万歳!! 陛下、万歳!!


地が揺れるほどの歓声とどよめきの中で、私の背筋は凍り付き、それ以上の物事を思案することができなくなっていた。


なぜだ!平和になったこの地は息のかかった豪族に任せ、マケドニア軍本体は故郷に帰るのではなかったのか。これでは、凱旋を夢見て戦ってきた兵達はどうなる。なんと彼らに説明すればよいのだ。あんまりな仕打ちではないか!


私は熱狂する周囲のなか、ひとり熱病のように立ち上がり、王の前に跪く。

「王よ、親愛なる我が王よ。8年もの歳月を共に駆け抜けてきたマケドニア兵を代表して申し上げます」


王は真っ直ぐにこちらを見下ろし、持っていた杯を思い切り飲み干す。

「申してみよ」


私の視野は狭まり心臓は早鐘のように打ち続けている。

「インド進出に多くの犠牲を払い、不屈の精神を持つ兵達にも限界が訪れております。ここはひとつ一度全軍を率いてマケドニアに帰還するべきかと」

「ならぬ!なにを弱気なことをいう。マケドニア人、バクトリア人、ペルシア人の集う稀有なこの地を、世界で初めての理想郷にするのだ。そのために兵達には残ってもらう」

「しかし・・!」

「そしてしかるべき戦力が整い次第、今度こそインダス川を超えて余は東方世界を征服したはじめての王となるだろう」


遠い。あまりにも遠すぎる。

若かりし頃、肩を並べて歩き同じいただきを目指していたはずだった。いつのまにこれほどすれ違ってしまったのだろう。見えている景色の違いに私は絶望した。


「フレイトス、立つがいい」

 視界を上げ王に促されるままに立ち上がると、王が側使いから1本の短剣を受け取るところだった。褒美の下賜かしにしては妙なタイミングだ。真向かいに立った王は私に近づき小声で言う。


「お前に最期の命令を与える。 そこを、一歩も動くな」


状況の飲み込めない私に王は抜き身の短剣を向けた。切っ先にランプの炎が反射して怪しく光る。王は小声でさらに続ける。

「お前には多くの兵を失った責任を取ってもらう。ここにいる有力者への見せしめだ。ヘラに住まう家族のことは心配するな。悪いようにはしない」

 そこまで言われてはじめて、自分が今から処されようとしていることに気づいた。


まさか。 そんな。 なぜ。


考えはまとまらず心臓だけが逃げ出そうともがいている。今ここで拒絶をすれば逃げ仰せるだろうか。瞬時に頭を巡らせる。私だけならば可能かもしれない。控えている衛兵を切って馬を奪い、そのまま街を出れば・・あるいは。


そこまで思案した私の瞳に信じられないものが映った。部屋の隅、奴隷達が控える暗がりの中に彼女はいた。


ミシャ、なぜここに。


膝をかかえた一つ目の少女は、何が起きているのかわからないという顔をしている。

覚えたギリシア語でうまく潜り込んだのか。興味本位だったのだろうか、それとも私の帰りが遅いのを心配したのだろうか。もはや真相は確かめようもない。では、彼女を連れて切り抜けられるか?


・・いや。 それは無理だ。ではせめて、彼女に危害が加わらないようにするには・・。


私は、全てを諦めた。


剣の切っ先が徐々に胸に迫り、プツリ、肌に食い込みはじめるのを感じた。私は王の目を見つめた。幼少の頃より見続けた澄んだ青の瞳、そのままだった。純粋に前だけを見続けてきた青き瞳は、私を通り過ぎて遥か地平線を捉えている。


燃えるような痛みと熱にガタガタと身体を震わせながら刃が身体を突き抜けるのを感じた。


「オァアアアアアアアアア!!」


それは無限のような一瞬だった。引き抜かれた刃がおのれの血で彩られている。気づくと身体は石床に横たわっていた。流れ出た黒い血が目の前に広がり髪を濡らしていくのがぼんやりと見えた。冷え切っていく身体。最後の力で視線だけを動かすと、騒然とする周囲の中で、隻眼のミシャが今にも泣き出しそうな顔でその場に固まっている。


そんな顔をするな。お前のせいではない。中途半端にしか生きられなかった私の責任だ。遅かれ早かれこうなるような気がしていた。


(わたし、海を見てみたいです。約束、ですよ)


弾んだ声が響く。すまん。お前との約束は果たせそうにない。今となってはそれだけが悔やまれてならない。もし、もしも、もう一度人生をやり直せるのなら。そのときは――





――寒い。


寒い。


    寒い。


あの世とはこんなにも寒い場所だったのだろうか。真っ暗闇に投げ出された身体からは光が染み出し、今にも枯れようとしていた。自分の一生は何のためにあったのか。何ができたのだろう。何を見落としたのだろう。もっとやりたいことがあった。もっと行きたい場所があった。あの異国の武人の願いも、叶えてあげたかった。


主様ぬしさま!! )


まだ、死にたくはない。 まだ死ねない。  ――生きたい。


眼下に見える異国の武人が、天とも地と知れない場所で剣を取るのが見えた。一振り、二振り、しがらみを振り払うように、懸命に。その剣で螺旋らせんを描く。もっと先へ、輪廻の向こうへ。想いを乗せたその切っ先が、いつか必ず宿業しゅくごうを断つと信じて。


「我が剣、めぐらせを結ぶ」


彼がそう言い放った瞬間、岩のように枯れきった灯火の背中に温かな水が注がれはじめた。背中に染みこんだ水は少しずつ光を灯し、葉を広げるように熱を発し始める。熱は骨を伝い臓腑に染み、ついに手足に届きはじめた。


温かい。なんて温かいんだ。

自分はこの温もりを知っている気がする。

どこか遠い昔、あれは誰だったろうか。

顔の輪郭が浮かび上がるのと同時に、視界はまばゆいばかりの光に満ち溢れていった。



気がつくと、灯火ほのかは暗闇の中に横たわっていた。地面とは反対に向けられた左肩が激しく痛む。ということは、まだ生きている? むしろで覆われているのか稲刈りの後みたいな香ばしい匂いがした。

最期の情景を辿る。迫り来る川面、凍るような深い川に落ちた。周囲は戦乱の最中。助かるはずがなかった。

しかし今、背中を直に伝わってくる温かさもまた現実だった。まるで湯に浸かっているように柔らかく、そして脈打っていた。強く、強く脈打って灯火を生かしていた。母の腹にいた頃の記憶はないが、きっとこんな心地だったに違いない。


「気がついたのか?」

 すぐ近くで囁く声がした。灯火は声を発そうとして大きく咳き込む。

「・・良かった。無理をするな。川に落ちたのだ。覚えているか?」

 頷く。覚醒しはじめた意識の中で声の主が小夜こやなのだと見当がついた。

「ならいい。お前、死ぬところだったんだぞ・・」

耳元で涙ぐむ声を聞いて、灯火も必死に声を絞り出す。

「・・すまぬ」

「なぜあんな無茶をした。刀を見れば動けなくなることも忘れて、敵の前に身を晒すなんて自殺行為だ」

「ああ。忘れていた。必死、だった」

「なぜ・・! なぜ私を頼らぬ。お前はいつもそうだ。ひとりでなんでも抱え込もうとする。そんなに周りが信用ならないか」

「そうでは、・・ないが。いや、そうなのかも。どこか自分がやらねばと。すまぬ」

「――まあいい。その、今から絶対にこちらを振り向くなよ」

 腰にまわされていた手が離れていく。離れがたい温もりに後ろ髪を引かれながら。

「どうせ暗くて見えないよ」

「それでも、だ。馬鹿」

 衣がこすれる音がする。肌襦袢はだじゅばんを羽織っているのかもしれない。

小夜こや。・・・戦況はどうなった」

 はじめて名を呼んだときのように少し緊張した音色が出た。小夜が立ち上がって雪壁の一部を崩すと、薄ら白い光が差し込んでくる。どうやら横穴のような場所にいるようだった。


「最初の問いがそれか。死にかけたんだぞ?主様ぬしさまよ。刀で左肩を貫かれた。骨は繋がっているようだがしばらく左腕を動かさない方がいい。今は布で縛ってある」

「ああ、かたじけない。それでも、これがいくさなんだ。状況を教えてくれ」

 ため息をつく気配がした。それから彼女はせきを切ったように語りはじめた。灯火が川に落ちた後、すぐさま川に飛び込んで流されながらしがみついたこと。水を吐かせたが意識が戻らず、身体を引きずりながら川岸に引き上げた。濡れた身体が冷えてきて、諦めかけたときに横穴を見つけたこと。たまたまそこが夏場使われている炭焼き窯だったため、火を焚き衣も乾かすことができた。

「だから、後の戦況のことはわからん。本当に、死んでしまうかと思った。いくつも幸運が重なって・・」

「助けてくれてありがとう、小夜」

 向き合って、右手で腕に触れた。この温かさが死の淵から引き上げてくれた。

「・・・」

「確か脇腹も切られたはずだが・・」

「それなら真静ましず様に感謝したらいい」

 手渡された丸い石は、出立のときに託された石神じゃくしん様だった。たしかに懐に入れていた記憶はあったが、運良く斬られた場所にあったのは奇跡としかいいようがなかった。

「神はまだ、死ぬな、ということか」

「当たり前だ。越州を退けるのだろう?」

 したり顔で小夜が問いかける。


灯火は痛む身体を無理やりに持ち上げ、乾いた衣服を着こんだ。塞いでいた横穴の入り口を少し開けると寒風とともに青白い光も差し込んでくる。夜明けだった。川に落ちてから一晩経ってしまったことになる。薄曇りの向こうに日が昇って雪の表面が煌めいては灯火に手を振った。


思い切り息を吸う。透明な空気が肺を満たし、吐き出された白雲は生を祝った。


生きている。 こんな中途半端な自分でも、生きていていいんだ。知らずに涙がこぼれていた。


小夜こや、急ごう」





薄暗い天守閣の柱に背中を預け、三条影英さんじょうかげひでは失意の内に沈んでいた。

昨日まで頻繁に届いていた報せも絶えて久しい。山城やましろに戻れたわずかな守備隊が砦で応戦を続けている気配がする。


「追撃は、どうなった」 「むじなは、どうした」


最期の報せでは、守備隊の多くは討ち取られるか敗走したとのことだった。貉も行方が知れないというが、今さら戦力として期待しているわけでもない。最期に唾のひとつでも吐きかけてやればよかったと思うだけだ。


してやられた。


忸怩じくじたる諦念。もはや指先ひとつ動かせなかった。受けた矢傷から毒が入ったと気づいたのは射られてから半刻ほど経ってからだ。山城に運び込まれてから徐々に手足が言うことを聞かなくなり、高い熱が出た。ろくな食べ物も無く、かろうじて水だけは口に含んでみたが具合が好転するとはなかった。


洲羽すわのような山の民は、獲物を狙うのに毒矢は用いないと聞いた。ならばやったのは貉だろう。いや、企てたのは兄の影成かげなりかもしれない。しかし今となってはどうすることもできない。彼らを軽んじていた自省と後悔に苛まれた。


思えば情けない一生だった。国主の息子とは言え、その生い立ちから信奉してくれたのはわずかな手勢だけだった。それも故郷からついてきてくれた幼いころからの家人。さしたる野心もないままに担がれ、降りかかる火の粉を払うのに必死だった。とどのつまり武士に向いていなかった。そう思うたび、脳裏にはいつも身を案じてくれる母の姿が浮かんだ。心配そうな顔で涙を溜めている。すまぬ母上、どうにも疲れてしまったのだ。今はしばし休みたい・・・。



どれだけ時間が経ったのだろう。暗い室内に小さな物見窓から日が差し込んでいた。階下の喧騒は聞こえなくなっていた。しばらく眠っていたのかも知れない。影英は自らの呼吸と意識が浅くなっていくのを感じた。脇腹の傷は、もはや痛まなくなっていた。それと引き換えに意識が途切れ途切れになる。

 気づくと部屋の隅に人気ひとけがあるのを感じた。暗闇に同化した"それ"は燃えるような一つ目でこちらを眺めていた。


“死ぬのか?”


影がささやいた。実際はそう感じたたでで声は発していないのかもしれない。影英にはそう届いた。


「・・そうだ。お前は死神しにがみか。我を連れに来たのか」

 “いな


「・・では、とどめを刺しに、首を取りに来たのか」

 “いな


では・・見届けに来たのだな。影はこくりと頷いた。

あのときと同じだ。死にゆく片目の少女を見届けた自分と同じだ、と思った。もっと別の出会い方をしていたならば、なんと語りかけただろう。武士として、敵将として出会わなければ。いや、詮無きことだ。


――さらば。


影英の指先が力なく床に垂れた。最期まで身体を柱に、山城の大黒柱に預けながら息絶えた。その瞬間、主の命と同じように山城は陥落した。城を囲む塀を幾人もの洲羽兵が乗り越え侵入してきたのだ。勢いづく洲羽の若武者たちの前に、わずかに残った守備隊はあっけなく瓦解した。まもなく階下から洲羽の勝鬨かちどきが上がった。


そうしてもなお、一つ目は影英を見届けていた。憎しみとも、悲しみとも言えない表情だった。そうしているうちに、影英の身体から一筋の光が生まれた。


蛍・・?


季節は冬だ。そんなはずが無かった。一つ目は光を追った。部屋の中を彷徨うように何周かまわって、ついに小さな物見窓にたどり着く。


“ また、どこかで。”


一呼吸おいて窓から外に羽ばたいていく光。一つ目は光の通った軌跡を余さず脳裏に焼き付けていた。


ἔρρωσοエッローソ(さようなら)


かすれるようにつぶやいた言葉は風にさらわれ、晴れ渡る冬空の一部となっていった。

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