第10話
「皆くたばってしまえ・・・」
ギュムナシオン(訓練所)での政務を終え 馬の背にあった私は、胸の内に渦巻いていた怨念をなんとか吐き出さなければならなかった。
文官たちに任せていた放火犯の捜索は遅々として進まず、しびれを切らして自ら対応せざるを得なくなったからだ。忙しい合間を縫って街の有力者一人一人にカマをかけながら情報を搾り取っていく。実に不毛な仕事が数週間続いていた。
その結果。空き家に次々と放火を繰り返していた犯人は、なんとこのバクトリア地方の豪族だった。正確には彼らが雇った"ならずもの"だ。
放火で我々の兵を街に縛りつけておいて、手薄になった隣国からの商隊に遊牧民族を使って襲わせ、物資を奪う。自分の手元に残すと足が付くからと、そしらぬ顔で売りさばき懐を暖めていた。
「先の戦いで
こちらの顔色を伺う一方で裏切りも同時に行っていたわけだ。灯台元暗しとはこのことだ。なまじ軍の動きを掴んでいるだけに
強力無比な我が王の軍がこのアイハヌムの街から出立してからというもの、不審火が徐々に増え、次いで補給用の商隊が襲われた。今思えばそのすべてに繋がりがあった。
なぜこのタイミングで?
なぜ今になって?
なぜ?
絡み合った無数の「なぜ」を紐解いた先に答えがあったのだ。
「ふれいとす、帰った」
「だんな様お帰りなさいませ! だろう!?」
「--そう。」
「フレイトス様!どうか今からでもこの娘を捨ててきてくださいませ。このような役立たず、どうして私が」
必死の形相で私の帰宅を迎えたのは、我が家の女奴隷で"エイ"といった。高齢と言って差し支えなく白髪を後ろで結んでいる。もちろん彼女を好んで購入したわけではない。供出させたこの邸宅に付いてきた、言わば"家付き奴隷"だった。
「そういうな。幾ばくかペルシア語も覚えたではないか」
無表情で、さも当然という顔をしているのは、あの日連れ帰った少女の"ミシャ"だ。
連れてきたあの日、唯一の女奴隷であったエイに少女を水浴びさせ着替えさせるよう指示した。エイは、一時的に保護しただけだと思っていた少女を奴隷にすると聞いて字のごとくひっくりかえるほど驚いていた。浅黒い肌、愛想のない眼差し、ペルシア語も話せない蛮族の娘。奴隷たちの間でも波紋が広がった。恐らく、私が不在にしているあいだはそれなりの扱いを受けているに違いなかった。
しかし、私は彼女が泣いている姿を一度も見たことがない。年端もいかぬ小娘が、だ。
あれはいつだったか、私が予定よりもだいぶ早く帰宅したときのことだ。門番の奴隷は日陰で涼む犬のように道ばたに横になって昼寝をしていた。私は横を通り過ぎながら短剣の鞘で頭を小突くと、奴は生き返った魚のように反り返った。
家に入る私の気配を感じたのか、慌てて姿を見せ始める奴隷たちに違和感を覚える。あのちいさな娘の姿がない。
「ミシャはどうした」
問う私に奴隷たちは露骨に目線を逸らし身体を強ばらせている。
「だんな様、それが・・」
エイが指さしたのは私の寝室だ。怪訝な空気を感じながら寝室の入り口に手を掛ける。
視界に入ったのは床一面に広げられた無数のパピルスの束と、その中でうつ伏せになっているミシャの姿だった。ギリシア語で書かれたパピルスの内容は軍の兵站記録やら配置図、街の有力者名簿など機密情報ばかりだ。
Peu!!!
腹の底から出した怒りの声にびっくりして、振り返ったミシャのまん丸な目は今でも鮮明に思い出せる。
「だんな様、わたしはちゃんと言ったのですよ!? 掃除の時もだんな様の持ち物に触るなと。ですから、どうか私だけはお許しください。殺さないでください!」
エイが必死で懇願するのは、恐らく連座で自分たちも処分を受けるものと考えたからだろう。私はおもむろに床のパピルスに手を掛け、ミシャに語りかけた。
「良く聞け。お前がもし反体制派の間者であれば、即刻ここで叩き斬らねばならん」
「ミシャは、何も、盗ってない。見ていた、だけ」
「見ていただけでも、だ」
震えながらうつむき、視線を床に投げる様子を見て、自分もなんともバカな聞き方をしたものだと恥じ入った。少し疲れているのかもしれない。
「ギリシア語に興味があるのか」
「・・・・」
「なぜだ」
「・・・ギリシア人 強い。父、母 殺した、ペルシアよりも強い。だから、ミシャは、ギリシア語を覚えたい」
私はそれを聞いてハッとした。
子供の頃の私は大の勉強嫌いで、とにかく武芸を磨けば父のような誇り高き立派な男になれるのだと信じて疑わなかった。事実、私の周りにそれを咎める者はひとりもいなかった。ただそれは、裏返せばごく一部の貴族にのみ与えられた特権であり、現実の戦場においては儚い幻だった。
人ひとりで成し得るものは、この両の
そんな胸の
「いいだろう」
私は頷く。そして、ミシャにギリシア語を教える日々がはじまったのだ。
※
「私を、哀れに思ったのですか」
半年後の、午後だった。
ちょうどその頃。我が王が東の果て"インド"まで進軍したところで熾烈な反撃に会い、全軍を率いて引き返すとの連絡が入っていた。
「いや、ちょうど長く務めてくれた奴隷が病で亡くなってな」
まあ、これは嘘だ。だが哀れみで拾ったわけでもない。瞳に宿った苛烈な生への渇望に心を射抜かれたからに他ならなかった。そして事実、ミシャは若さからか非凡な才からか、こうして日常会話に不自由ないくらいにはギリシア語が話せるようになっていた。
「じゃあ、見当外れでしたね私、あまり家事とくいじゃないし」
ミシャはその漆黒の瞳を細めてニヤリと笑う。この半年で短髪は肩まで伸び、ガリガリだった頬もふっくらしたような気がする。身体の未成熟さから童女だと思っていたが、実は月の障りがあるくらいの年齢であることが後になってわかった。
「家事ができないから来客の対応をさせているだろう」
「私はかまいませんが、どうなっても知りませんよ?」
“お客様に野蛮人が接するなどともっての
この私の失策によって、取り返しの付かない事件は、まもなく起きた。
ある日の夕、邸宅の
「だんな様!たいへんです!」
「何事か」
「エイがミシャを・・と、とにかく急いでください」
嫌な胸騒ぎがし馬から飛び降りる。すると足をとられ頭から前のめりに倒れ込んでしまった。
「だんな様!」
「・・・クソっ」
したたかに打った頭を押さえながら母屋に向かう。入り口付近には奴隷たちが座り込んで皆下を向いている。明らかに何かが起きた。そう確信した。玄関を通って右手が炊事場、その向かいが毎朝訪れる庇護人の待合室になっている。エイはその待合室でうなだれたまま座り込んでいた。こちらに気づくと呆然とした瞳を向けて、必死にすがり付いてきた。
「だんな様!私はなにも悪いことなどしていません!すべてはあいつが、あの悪魔のような小娘が悪いのです!」
なにもわからずその手をふりほどき、炊事場に入る。3つある
「なんだなんだ。調理を失敗しただけではないか大げさな。はやく火を消さぬか」
慌てて竈の火に砂をかけると、その"ザッザッ"という音に混じって、戦場で聞き慣れた音が耳に届いた。
ウッ
ウウっ
ウーッ
火を落とし薄暗くなった部屋の隅に目をこらす。蠢く影は鳥に
「ミシャ!」
近づいて抱き起こす。細い腕で覆っていた顔をこちらに向けさせると、彼女の右目は黒く焼け
「何があった!」
うわごとを呟くばかりのミシャにかわり、背後で様子を見ていた男奴隷が恐る恐る説明を始める。
「ミシャがエイの炊事を手伝っていると途中から言い争いになって、私が駆けつけた時にはエイが火の付いた薪をミシャの顔に・・」
なんとむごいことだ。
生きたまま目を焼かれる苦しみは想像に難くない。
「おいお前、水を持て」
「は、はい」
男奴隷が陶器のカップに汲んできた水を片手で受け取りミシャの口に運ぶ。口の端から溢れて滴る水滴が彼女の衣を濡らし、身体を支える私の腕をも冷やし始めた。そのとき私は、初めてミシャの体温を感じていた。小さく薄い背中が確かに脈打ち、濡れた私の腕から全身に向かって熱が広がっていくのを感じていた。そんなことに感動している自分に、驚いていた。
ミシャ。水を飲め。飲んでくれ。
私は懇願した。
幾人もの兵の最後を看取り、大地の一部となった無数の亡骸を見ても揺るがなかった、この私が。
願いに応えるように、彼女の汗ばんだ喉が動いた。
「・・い、とす」
「ミシャ」
「あなた、怪我、してる」
さきほど打った頭から血が流れていたようだ。
「どうということはない。それより、何があったのだ」
ミシャは浅く呼吸をして、消え入りそうな声で。
「エイは、盗みをしました」
「・・・」
「エイは食材に使うお金を盗みました」
「それで」
「私が咎めると、怒り出しました。皆やっていることだ、と」
「・・・」
「盗みを行った者は、両手を、切られるべきです」
「うむ・・いいのだ、わかった。今は休め」
「よく、ありません」
「とにかくお前の治療をする。今は休むのだ」
「・・よく、ありま・・せ」
再び意識を手放した身体を両の
抱きかかえたまま炊事場を出ようとすると、エイが這いつくばっている。
「だんな様!騙されてはだめです。男を惑わす漆黒の瞳は悪魔の瞳です!私は聖なる炎で浄化したのです!」
聖なる炎。ゾロアスターか。敗軍の信仰と
「エイ。お前は私の財産であるミシャを損ねた。マケドニアの法の下お前を裁く。沙汰を待て」
奴隷のひとり切って捨てるのはたやすい。しかし、そうしたところで何かが解決するとは到底思えなかった。
今、我らの足元には、目に見えない急峻な谷がある。谷底には“民族”という名の濁流がごうごうと流れ、如何に屈強な男たちであろうと容易に抗うことができない。これ以上の無意味な前進を望み何が成し遂げられるだろうか。我が王よ。
その年の暮れ。厳しい寒さの中、我が王はアイハヌムの街に帰還した。2万人余りで出発した本隊のうち、帰還した兵は1万に満たなかった。
私が人生の最期を迎える2ヶ月前のことだった。
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