第9話
朝日が届かぬ奥座敷で、低いうなり声が聞こえる。
小鳥がちいさくさえずる縁を通って、たつは努めて慌てずに
たつは持ってきた粥を床に置き、無言で佳政の背中をさすった。
「ああ・・・おたつか。すまぬな」
「いえ」
肺を潰し絞り出したような声だった。佳政は昨年の暮れから腹部の
半身を支え、たつが差し出した白湯を飲ませるとようやくひと息ついたように湯飲みを手で制した。悪夢から目覚めた父はぽつり、ぽつりと言葉をこぼし始める。
「昨晩、
「兄上が。めずらしいですね」
「領主様が、
「・・・」
「
「・・・」
徐々に強大な力を蓄えつつある甲威国は南の大国だ。いずれ北上し、信尾国を飲み込み、行く行くは越州国まで勢力を伸ばすのではないか。と越州国側は警戒している。そのため通り道である
「問題は、焦った越州国がさらなる浸透を目指すのではないかということだ。恐らくだが、信尾国主からの援軍は、来まい。こんなときに、間近でお支えすることが敵わぬとは・・・」
「ご病気なのですから仕方がありませんよ、父上。今は何も考えずに養生なさってください」
「・・・!
はねつけられた手が湯飲みを飛ばした。板に転がった音が思いのほか心の臓に響いて、たつの手を震えさせる。
「うぐっ・・」
佳政は布団に突っ伏すと、また痛みが増したのか身体を折りたたんだ。たつは遠慮がちにまた、背中をさする他なかった。しばらく無言でそうしていると佳政の呼吸も整ってくる。
「・・お前も」
「なんです?」
「お前も行き遅れてしまったな」
「・・・」
「アレに先立たれてから家に縛り付けてしまった。ようやく後妻をとったと思えば今度は儂がこの様だ。本当にすまないことをした」
「そんな。父上、私には
佳政は軽く頷き、それは頼もしいなと軽く笑った。
ちょうど同じ頃、奉公人のふきが故郷に帰っていたから、義母のきぬとたつのふたりで家事を分担し、佳政の看病までを担っていた。
「して、その兄弟はどうしている。息災か」
「はい。それはもう。剣に、お役目にと走り回っております。今日だって晴さんが上社の稽古に連れ立っていったみたいですよ」
「そうか。
「ほのちゃんに、ですか?意外です」
「ああ。あのように口数こそ少ないが、空を飛ぶ鷹のように全体を見渡す力がある。それに加え、なにか底知れぬ洞察力も持ち合わせておる。儂は、あやつが下社を。いや、洲羽を背負って立つほどの武者になるのではないかと・・」
「父上様。お話も結構ですがせっかくお
話しを遮られた佳政は目を丸くする。
「ははあ。たつ。だからそちを嫁に出せぬのだ」
恨みがましく視線を合わせるふたりに、小さな笑みがこぼれた。
※
快晴の大通りに
「まァめーーーーー、まめっ」
「うまいよォーー」
呼び込みの名調子を耳にしながら、
「たつ姉、また買いすぎないようにしないとね」
「わかっておりますとも。下社の大事なお米。無駄にはいたしません」
「では、我らがお供せずともよかったのでは?」
「そんなこと言ったって、急なお買い得品があるかもしれないではないですか!」
三人の本来の目的は"塩"だ。洲羽の近辺には海がなく、塩がとれない。だから他の国から行商にくる塩売りから購入するのが一般的だった。ただ、たつはあれこれと余計なものを求めるので灯火と晴は荷物持ちのために付いてきている。いや、来させられていた。
灯火は、
「ありゃあ、何の騒ぎだ」
誰かが呟いた。見ると、人だかりの向こうで
「おいおいクソ坊主! ここがどこだかわかって物乞いをしてるのか。
「そうだそうだ!目障りだ。どかんか!」
唾がかかるような距離で啖呵を切られている。それでも目を伏せ念仏を唱え続ける僧侶に、怒りを増した男たちはついに僧侶の
「きさま!」
「おやめなさい!」
芯のある声が辺りに通った。振り返る群衆を二つに割ったのはなんと、買い物途中の義姉、たつであった。背後の晴はというと、苦い顔で頭を抱えている。
「なんだおめえはよ!?」
「布教が禁じられた時代はとうに過ぎ去りました。己が信ずるもの以外をいたずらに退けるなど、なんと度量の狭きこと。情けないことこの上なし。タケミ様もヤサカ様も、決してそのような行いは望んでおられないでしょう」
「おんなァ!よう言うたな。どこの
たつの両脇に灯火と晴が進み出る。
「下社が
「ンだと・・?」
「天下の往来、
はぁ・・
深いため息をしながらも、ふたりの足は進み出る。それを見た男たちはこちらに向き直って猛進してきた。丸腰相手に抜刀するわけにもいかない。灯火は殴りかかってきた腕を労なく巻き取り、足を払う。相手の芯をずらす作法は剣術の中にもあるが、灯火は相手の予備動作を読むのに長けていた。感覚的に"知っていた"と言ってもいい。剣術のかわりになにかできないかと苦心した結果、見つけた戦い方でもある。あっという間に膝を付かせ手首をひねり上げる。
「アイタタ・・!」
晴の方はというと相手の動きを見切りながら、その拳を深々と脇腹突き立てている。
「晴さん、ほのさん。もうよいでしょう。離してあげて」
互いを庇いながらその場を離れていく男たち。様子を見ていた民衆は声こそあげなかったが皆歓喜の表情をしている。
「大丈夫ですか、お坊様」
「はイ」
独特の発音。遠方から修行にきているのだろうか。僧侶は袈裟を整えながら何を気にする風でもない。
「どちらからおいでになったか存じませんが、どうか寛容なお心でご勘弁くださいませ。皆、空腹で気が立っているのです」
すると僧侶は、順番に三人と目を合わせながら軽く手を合わせる。
「お見事ナ、立ち回りでシたね。想像以上です」
「はい?」
僧侶は満面に顔をほころばせて、にっこり笑ったかと思うとたつの耳元でなにか囁いた。たつは
「なんだったんだろうね、あれ」
「さあな。知るもんか。
ふたりは
「百姓も職人も、武士でさえも、日々食いでがなくてイライラしている。それもこれもみんな越州のせいだし、上社の連中がぼんくら揃いだったからだ」
「うん」
「ただ、"昔は良かった"といくら嘆いたところで何も変わりはしない。もっと大きな時代の流れを捕らえねば、な」
「・・・それ、誰の受け売り?」
「
晴が灯火の頭をコツンと小突いた。このやりとりは、なんだか懐かしい。
橋の中ほどまで来て、向こう側からひとりの小僧さんが歩いてくるのが見えた。いや、短い髪と背中に風呂敷を背負っていたから最初は小僧かと思ったが、近づいてみると女物の小袖を着ている。深い藍色に白の絞りが細かく入っている。橋の中央ですれ違い様に横目で見ると長い前髪の隙間から覗く漆黒の瞳が灯火を捕らえていた。
瞬間、時が止まった。呼吸が止まり、心臓が、大きく跳ねたのを、灯火は感じた。
交わった視線は瞬きのあいだにお互いを知り、深く探り合った。背筋にそんな気配を感じた。
「ん?どした?灯火。そんなに強く小突いてないだろう?」
あっけらかんとした晴の声色に我を取り戻して歩みを早める。灯火の心臓は鳴り止むこともせずに。
「兄者、さっきすれ違った
自分でも何を言っているのかわからない。
晴はポカンと口をあけていて。
「ははは! お前、ああいうのが好みなのか? あっはは」
笑い過ぎだ。
「ありゃあ、茶屋の "およりちゃん" の妹だぞ。といっても見ての通り血は繋がっていないらしいが。そうかそうか!お前にもついに・・・」
後ろから頭を殴られたような衝撃を感じた。聞いてもいないのにしゃべり続ける晴の横で、頭は急回転を続けていた。様々な記憶と可能性の欠片が寄り集まっては形を成そうとしていた。否定をしても、反論を重ねても、道筋はある結論にたどり着こうとするのだ。
俺は "知っている" ? 彼女が、何者なのかを。
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