第6話
「これでいいでしょう。凜々しくおなりだ」
「
「いえいえ奥方様、こればっかりはアタシがやりませんと」
あの、
「ぼうっとしていないで、はやく支度を」
母の"きぬ"が、
「母上、自分で着られます」
「いいから」
きぬは無言で
「りっぱな、武士になるのですよ」
か細い声が震える。物心つく頃から何百回と言い含められた言葉のはずなのに、はじめて正面から問いかけられたような響きがあった。灯火は目元を拭うきぬに対して無言で頷くことしかできなかった。
広間に入った時にはすでに、家の者だけでなく下社の重鎮や近所の者たちもが入り乱れて酒宴が始まっていた。まだ昼もすぎたばかりだというのに。
「おお、来たか来たか。皆待ちわびたぞ」
「たいそうな男ぶりではないか」
「あの泣き虫が、見違えたな」
次々に声がかかるその中央に、本来ならば当主の
「灯火の
灯火は緊張しながらも佳直の眼前に座り、
「これで
「佳直、そういやあ 晴の姿が見えないが」
「晴には
「今日ぐらい当番を変わってもらえんかったのか?」
「
「噂の"
「我々、
「まてまてまて。お前さんを責めている訳じゃねえよ。いまのところ被害にあってるのも
佳直たちが話しているのは領内に突然現れた
「上社の連中が鬼の首を取ったように息巻いていやがるが、
「ははあ。そういうわけにも」
今や佐補家を代表して守護人たちを束ねる立場の佳直は、胃の痛そうな表情で下社の氏族たちをあしらっている。
「なに、晴れてここにいる灯火も守護人のひとりと成り申した。上社の財布が空になるころには捕まえて見せましょう」
夜。
洲羽湖からほど近い通りを提灯を持ちながら歩いていく。くくり紐が緩いのか頭にのった真新しい
屋敷から一刻ほど歩いた町の中央に守護人の詰所があった。一見は長屋の風情だが表に篝火を炊き続けており、そのため篝屋と呼ばれていた。かつて兄について歩いて行ったときは到着するなり疲れで眠りこけてしまったというから灯火も成長したものである。これから何度この敷居を跨ぐことになるのか。提灯の火を吹き消してから板戸を引き、中に入る。
「ご免」
「おお、灯火殿。さっそくのお勤め、ご苦労にござる」
二十畳ほどの空間に小上がりの板間、土間には簡単な炊事場、捕り物具や提灯が並んでいる。火鉢を囲んでいるのは同じ下社の下級武士で名を
「晴殿。晴殿。灯火殿が来てくださったよ」
板の上で仮眠を取っていた晴が寝転がりながら上半身を向ける。
「ああ。灯火、男前になったな」
「たつ姉が持って行くように、と」
懐から笹の包みをとりだし開いて見せる。中には四つの麦飯と漬物が添えられている。
「おお!さすがは たつ姉、わかってらっしゃる!」
「かたじけのうござる」
自然と火鉢に身を寄せ麦飯を食べ始めるふたり。
「あとの、お
「いふぁ、みふぁわりちゅう(今見回り中)」
「晴殿、飲み込んで喋ったほうが。行儀が」
なんとなくふたりの関係性が見て取れる。
「んん。 今じゃ交替で常に見回りにいかなけりゃならなくなったんだよ」
「昔は
「それもこれもあの鼠小僧のせいだ。はやくとっ捕まえてやる」
「兄上、俺も交替に入るよ」
「お前は見回りの数に入れられるもんか」
「なぜさ」
「盗人といえど刃物のひとつも持っていようが。お前が向かい合ってもカチコチに固まって刺されるだけだ」
「晴殿そんな言い方しなくても・・」
総三が取り繕ってくれたが晴の結論は変わらないだろうし、悔しいが実際その通りだとも思った。年齢を重ねればそのうち慣れるだろうと思われていた"
「だがまあこやつが役立つときもあるだろう。鼠小僧だけが盗人じゃないしな」
「最近じゃ昼間でも盗みをする輩が増えてるみたいだねえ」
「
確かに小さい頃とくらべて食事事情は難しくなった。
「こんな一大事に神さんたちは何をしてるんだか」
晴がこぼしたそのとき、下っ腹を小突くような異音が辺りに
響いた。
グッ ゴッ グググ グ
生まれてこの方初めて聞く異様な音。なにかこの世のものでない怪物が低く唸っているような。
恐怖に駆られ、とっさに板戸を開けて外にでる灯火。周辺を見回すが異変は見当たらない。
「ほーのーか。大事ない」
振り返ると、晴と総三が寒そうに縮こまっている。
「神渡りだ」
「神、渡り?」
「タケミナカタ(上社の男神)が、湖を歩いて渡って下社のヤサカ様に会いに来る音なんだそうですよ」
「今日みたいな特に冷える夜になると凍った湖が押し割れて、ああいう音がするんだよ。お前は初めて聞いただろう」
灯火は頷く。
「だから大事はないんだ。はよ閉めろ。寒いったら」
安堵と同時に手に血の気が戻ってくる。灯火が板戸に手を掛けて中に入ろうとした、その瞬間だった。
「なにか聞こえる」
再び表に出て耳をこらす。風の音に混じって、か細い、何かが。
「笛の音だ!」
火鉢にへばりついていた晴と総三は跳ね起き、
「賊だ!」
晴が叫んだ。見回りに出た仲間からの合図らしい。
「灯火は提灯を持って付いてこい!遅れを取るなよ!!」
「応!」
総三が立てかけてあった柄の長い捕り物具を小脇に抱え出てくる。晴は刀を
「灯火どっちだ!?」
「あっちから聞こえた。たぶん領主様の屋敷のほう」
聞くか聞かずか飛び出していく晴に二人は追いすがる。先を行く提灯から煙が出ているかのように晴の吐く息が白い。
三人は雪の残る橋を渡り笛の音を探す。まもなく脇壁の向こうにチラチラと揺れる火玉が見えた。
「見回りの連中だ! おーーい!」
「晴!屋根の上だ!」
見回り隊が棍棒で土蔵の上を指し示す。目をこらすと月明かりの下で
味方の動きから意思をくみ取り、囲むように
「観念しろ! "鼠小僧"!」
屋根上の一人の賊を周り五人で囲い込む。今夜こそ勝負あったと誰もが思った。刹那、身体を縮めた影は重力を感じさせない高い跳躍で屋根上から飛び降りる。ちょうど満月に重なった影はその小さい輪郭を露わにした。地面で一回転しながら灯火たちの眼前に出現する。獣のような低い姿勢の黒装束から冷たい一つ目だけが露わになっている。
とっさに肌が逆立つ。
「そこに直れ!!」
やや間を置いて晴が気を吐くと、その場にいた全員の時間が動き出した。ゆっくり提灯を置き、抜刀する晴。
「おとなしくお縄につくならば、命までは捕らぬ」
全員がその場に追いつき鼠小僧を取り囲む。捕り物具、棍棒、そして刀。暫しの睨み合いの末、ふいに貧乏長屋の板戸が開いた。
「騒々しい。なにか、あったんですかい?」
――まずい。
全員の視線が逸れた瞬間、それは走った。地を這う雷のように、影が瞬時に晴との距離を詰める。慌てて振り下ろされた晴の刀は赤い火花を闇に散らしながら軌道を逸らされ、その
貴様―!!
一斉に迫る長物を、影は華麗に旋回しながら回避する。粉雪を散らしながら舞うその様子はまるで上弦の月を思わせた。
美しい。
灯火は素直にそう感じた。そう呆けているべきではなかったのに、そう感じてしまった。見とれている間に影は大きく空中に飛び出し灯火の背後に降り立つ。灯火はすぐさま提灯を手放し腰に手をやるが、そこには
「う、ごく、な」
喉元に冷たい切っ先を感じる。背後から喉へ小刀が添えられているのだろう。急激に身体の芯が冷えていくのを感じる。
「人質とは卑怯なり!」
鼠小僧は灯火と一体になりながら、神竜川に向かって少しずつ後ずさりしていった。若き守護人たちはじりじりと前進しようとしていたが、ついに手が出せず、その瞳を怒りと恐怖に染め上げている。灯火も隙を見て振りほどこうとしたが肝心の身体が全く言うことを聞いてくれない。
もはやこれまで。
ついに観念したが、川縁まで来たところで不意に拘束が解かれた。背後で何かが水に落ちる音がする。恐る恐る振り返ってみると、そこには何事も無かったかのような神竜川が、月に照らされてそよそよと囁いている。
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