第6話

「これでいいでしょう。凜々しくおなりだ」


宗佐そうすけさん、忙しいのにすまなかったね」

「いえいえ奥方様、こればっかりはアタシがやりませんと」


下社しもしゃで唯一の髷結まげゆいである男は商売道具を早々と片付けて、小雪の降る中を急いで帰って行った。年の初めのこの時期は祝い事が重なり大忙しだそうだ。


灯火ほのかはスースーとするおでこから頭の頂点を恐る恐る触ってみる。剃り上げたばかりの頭皮はヒリヒリと痛んだ。

あの、洲羽すわが決定的な変化を迫られた「渋依川しぶよりかわの合戦」から三年が経っていた。灯火は齢十五となり、兄のせいに二年遅れての元服げんぷくの日を迎えていた。


「ぼうっとしていないで、はやく支度を」


母の"きぬ"が、行李こうりに収められた真新しい直垂ひたたれを持ってくる。せいの正装は白藍しらあいという明るい青色だが、灯火のそれは梔子色くちなしいろをしていた。なんでも"きぬ"と"たつ"のふたりで選んだらしい。


「母上、自分で着られます」

「いいから」


きぬは無言ではかまの帯を丁寧に締めていく。あわせを羽織り襟や袖の余りを確認した。久しぶりの密着にことのほか照れくさい時間がふたりを無言にさせる。仕上げにと灯火が一周してみせたとき、きぬの目尻からひとすじ、涙がこぼれていた。


「りっぱな、武士になるのですよ」


か細い声が震える。物心つく頃から何百回と言い含められた言葉のはずなのに、はじめて正面から問いかけられたような響きがあった。灯火は目元を拭うきぬに対して無言で頷くことしかできなかった。



広間に入った時にはすでに、家の者だけでなく下社の重鎮や近所の者たちもが入り乱れて酒宴が始まっていた。まだ昼もすぎたばかりだというのに。


「おお、来たか来たか。皆待ちわびたぞ」

「たいそうな男ぶりではないか」

「あの泣き虫が、見違えたな」


次々に声がかかるその中央に、本来ならば当主の佳政よしまさが座っているはずだったが、その姿はない。昨年末より体調を崩していて今では寝たきりとなっている。代理として兄の佳直よしなおが家を切り盛りしていた。


「灯火の烏帽子親えぼしおやは元来領主様であったが、あのようなことになり世を去られた。当座、俺が引き受けよう」


灯火は緊張しながらも佳直の眼前に座り、こうべを据える。はじめて烏帽子を被せてもらうと、一同からはまた祝いの言葉が投げられた。


「これで灯火ほのかも一人前だな」


いみなは下社の神主である守矢真静もりやましずより『灯志楼とうしろう』の名を賜っている。(ちなみに晴の諱は『晴路せいじ』)当分、書状に自分の諱を書く機会はないだろうが、いざというときに恥をかかぬように練習はしておかなければならない。


「佳直、そういやあ 晴の姿が見えないが」

「晴には篝屋かがりやに張り付いてもらっているのです」

「今日ぐらい当番を変わってもらえんかったのか?」

ぞくがまだ捕まっていませんので、致しかたありませぬ」

「噂の"鼠小僧ねずみこぞう"ってやつか。捕まるどころか長屋の連中には大層人気があるっていうじゃないか。世も末だねえ」

「我々、守護人しゅごにんが不甲斐ないばかりに」

「まてまてまて。お前さんを責めている訳じゃねえよ。いまのところ被害にあってるのも上社かみしゃ連中が多いしな。がはは」


佳直たちが話しているのは領内に突然現れた盗人ぬすっとのことで、すばしっこい逃げ足から"鼠小僧"と呼ばれていた。金持ちの商家しょうかや武家屋敷から金目の物を盗んでは貧乏長屋の屋根にばらまいているという。領内の警護は守護人である下社の武士たちが担っているので佳直は立つ瀬がないのだった。

「上社の連中が鬼の首を取ったように息巻いていやがるが、いくさに負けた八つ当たりも大概にしろっていうんだ。放っておけ放っておけ」

「ははあ。そういうわけにも」


今や佐補家を代表して守護人たちを束ねる立場の佳直は、胃の痛そうな表情で下社の氏族たちをあしらっている。


「なに、晴れてここにいる灯火も守護人のひとりと成り申した。上社の財布が空になるころには捕まえて見せましょう」



夜。


洲羽湖からほど近い通りを提灯を持ちながら歩いていく。くくり紐が緩いのか頭にのった真新しい風折烏帽子かざおりえぼしは座りが悪く時折直して歩かねばならなかった。雪こそ降っていないが凍てついた風が容赦なく足首を痛め続ける。町は静まりかえっており、まるでこの世の静寂を閉じ込めたようだ。

屋敷から一刻ほど歩いた町の中央に守護人の詰所があった。一見は長屋の風情だが表に篝火を炊き続けており、そのため篝屋と呼ばれていた。かつて兄について歩いて行ったときは到着するなり疲れで眠りこけてしまったというから灯火も成長したものである。これから何度この敷居を跨ぐことになるのか。提灯の火を吹き消してから板戸を引き、中に入る。


「ご免」

「おお、灯火殿。さっそくのお勤め、ご苦労にござる」


二十畳ほどの空間に小上がりの板間、土間には簡単な炊事場、捕り物具や提灯が並んでいる。火鉢を囲んでいるのは同じ下社の下級武士で名を桑原総三くわばらそうぞうと言った。晴よりも年上であったため習いで机を並べた期間は短いが見知った顔だ。


「晴殿。晴殿。灯火殿が来てくださったよ」


板の上で仮眠を取っていた晴が寝転がりながら上半身を向ける。


「ああ。灯火、男前になったな」

「たつ姉が持って行くように、と」


懐から笹の包みをとりだし開いて見せる。中には四つの麦飯と漬物が添えられている。


「おお!さすがは たつ姉、わかってらっしゃる!」

「かたじけのうござる」


自然と火鉢に身を寄せ麦飯を食べ始めるふたり。


「あとの、お二方ふたかたは?」

「いふぁ、みふぁわりちゅう(今見回り中)」

「晴殿、飲み込んで喋ったほうが。行儀が」


なんとなくふたりの関係性が見て取れる。


「んん。 今じゃ交替で常に見回りにいかなけりゃならなくなったんだよ」

「昔は一時いっとき置きでよかったんだけどねえ」

「それもこれもあの鼠小僧のせいだ。はやくとっ捕まえてやる」

「兄上、俺も交替に入るよ」

「お前は見回りの数に入れられるもんか」

「なぜさ」

「盗人といえど刃物のひとつも持っていようが。お前が向かい合ってもカチコチに固まって刺されるだけだ」

「晴殿そんな言い方しなくても・・」


 総三が取り繕ってくれたが晴の結論は変わらないだろうし、悔しいが実際その通りだとも思った。年齢を重ねればそのうち慣れるだろうと思われていた"切先恐怖病きっさききょうふびょう"は今のところ影を潜める様子はない。最近ではもう周囲も諦めて"相向かいせずともよい弓でも習えば"とか言われる始末だ。結果的に土蔵に籠もる機会が増えがちな灯火なのだった。


「だがまあこやつが役立つときもあるだろう。鼠小僧だけが盗人じゃないしな」

「最近じゃ昼間でも盗みをする輩が増えてるみたいだねえ」

さとが貧しくなったのさ。俺たちだって・・・」


 確かに小さい頃とくらべて食事事情は難しくなった。越州国えっしゅうこく渋依川しぶよりかわ以北の領土を奪われ、生活を失った百姓たちが大量にその他の地に流れ込んだからだ。力のある者は洲羽を出て、そうでないものは年寄りを山に捨てに行ったという話まで聞く。


「こんな一大事に神さんたちは何をしてるんだか」


晴がこぼしたそのとき、下っ腹を小突くような異音が辺りに

響いた。


グッ  ゴッ グググ グ


生まれてこの方初めて聞く異様な音。なにかこの世のものでない怪物が低く唸っているような。

恐怖に駆られ、とっさに板戸を開けて外にでる灯火。周辺を見回すが異変は見当たらない。


「ほーのーか。大事ない」

 振り返ると、晴と総三が寒そうに縮こまっている。


「神渡りだ」


「神、渡り?」

「タケミナカタ(上社の男神)が、湖を歩いて渡って下社のヤサカ様に会いに来る音なんだそうですよ」

「今日みたいな特に冷える夜になると凍った湖が押し割れて、ああいう音がするんだよ。お前は初めて聞いただろう」


灯火は頷く。


「だから大事はないんだ。はよ閉めろ。寒いったら」


安堵と同時に手に血の気が戻ってくる。灯火が板戸に手を掛けて中に入ろうとした、その瞬間だった。


「なにか聞こえる」


再び表に出て耳をこらす。風の音に混じって、か細い、何かが。


「笛の音だ!」


火鉢にへばりついていた晴と総三は跳ね起き、草鞋ぞうりを突っかける。


「賊だ!」

晴が叫んだ。見回りに出た仲間からの合図らしい。


「灯火は提灯を持って付いてこい!遅れを取るなよ!!」

「応!」


総三が立てかけてあった柄の長い捕り物具を小脇に抱え出てくる。晴は刀をき、表の篝火で提灯に火を灯す。


「灯火どっちだ!?」

「あっちから聞こえた。たぶん領主様の屋敷のほう」


聞くか聞かずか飛び出していく晴に二人は追いすがる。先を行く提灯から煙が出ているかのように晴の吐く息が白い。

神竜川じんりゅうがわを挟んで洲羽湖の西側、上社側の土地に領主の屋敷を含む司政の中心があった。大きな武家屋敷、商店や土蔵が立ち並ぶ一角から笛の音が途切れ途切れに聞こえる。


三人は雪の残る橋を渡り笛の音を探す。まもなく脇壁の向こうにチラチラと揺れる火玉が見えた。


「見回りの連中だ! おーーい!」

「晴!屋根の上だ!」


見回り隊が棍棒で土蔵の上を指し示す。目をこらすと月明かりの下でうごめく影が感じられた。その人間離れしたなめらかな動きと物音を立てない様子に、猿の見間違いではと勘違いするほどだ。

味方の動きから意思をくみ取り、囲むように川縁かわべりへ追い回す。こちらは平らな地面を走っているというのに屋根伝いで飛び移る影の動きに付いていくので必死だ。川縁の長屋に影が飛び移るとそこは終点。仲間のひとりが梯子を使って屋根に上がり戻り道を封鎖する。


「観念しろ! "鼠小僧"!」


屋根上の一人の賊を周り五人で囲い込む。今夜こそ勝負あったと誰もが思った。刹那、身体を縮めた影は重力を感じさせない高い跳躍で屋根上から飛び降りる。ちょうど満月に重なった影はその小さい輪郭を露わにした。地面で一回転しながら灯火たちの眼前に出現する。獣のような低い姿勢の黒装束から冷たい一つ目だけが露わになっている。


ものだ。


とっさに肌が逆立つ。


「そこに直れ!!」


やや間を置いて晴が気を吐くと、その場にいた全員の時間が動き出した。ゆっくり提灯を置き、抜刀する晴。


「おとなしくお縄につくならば、命までは捕らぬ」

全員がその場に追いつき鼠小僧を取り囲む。捕り物具、棍棒、そして刀。暫しの睨み合いの末、ふいに貧乏長屋の板戸が開いた。


「騒々しい。なにか、あったんですかい?」


――まずい。


全員の視線が逸れた瞬間、それは走った。地を這う雷のように、影が瞬時に晴との距離を詰める。慌てて振り下ろされた晴の刀は赤い火花を闇に散らしながら軌道を逸らされ、その鳩尾みぞおちには深々と拳がめり込んでいる。籠手こて金物かなものを仕込んでいたようだ。声なくゆっくりと地に沈む晴。


貴様―!!


一斉に迫る長物を、影は華麗に旋回しながら回避する。粉雪を散らしながら舞うその様子はまるで上弦の月を思わせた。


美しい。


灯火は素直にそう感じた。そう呆けているべきではなかったのに、そう感じてしまった。見とれている間に影は大きく空中に飛び出し灯火の背後に降り立つ。灯火はすぐさま提灯を手放し腰に手をやるが、そこにはくうがあるばかりだ。慌てて出てきたばかりに帯刀していなかったのだ。


「う、ごく、な」


喉元に冷たい切っ先を感じる。背後から喉へ小刀が添えられているのだろう。急激に身体の芯が冷えていくのを感じる。


「人質とは卑怯なり!」


鼠小僧は灯火と一体になりながら、神竜川に向かって少しずつ後ずさりしていった。若き守護人たちはじりじりと前進しようとしていたが、ついに手が出せず、その瞳を怒りと恐怖に染め上げている。灯火も隙を見て振りほどこうとしたが肝心の身体が全く言うことを聞いてくれない。


もはやこれまで。 元服げんぷく早々、兄者の言うことは間違いではなかった。


ついに観念したが、川縁まで来たところで不意に拘束が解かれた。背後で何かが水に落ちる音がする。恐る恐る振り返ってみると、そこには何事も無かったかのような神竜川が、月に照らされてそよそよと囁いている。


一つ目のものは忽然と姿を消した。幻を見せられていたのか。まるで最初からなにも居なかったかのようだ。しかし灯火が耳元で聞いたその声は、遠い記憶を撫でるような、どこか懐かしい響きをしていた。


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