第4話


遠くに見える高い山々から一滴ずつ染み出した雪解け水は、洲羽すわ湖の支流に流れ込んで水かさを増やし、周囲に緑を広げていた。風はまだ冷たいが、冬には感じられなかった土の匂いや水の匂いを豊潤に運んでくる。


「そっちにいったぞ!」

「きた! まだ俺のがいちばんはええ!」


田に水を引き込むためのちいさな水路。同時に放ったそれぞれの草船を三人で追いかける。小さな土手やあぜを、灯火ほのかせいの背中を追いながら後に続く。

澄んだ水、ゆったりとした流れの中で、一番大きな葉で作った晴の草船が後続を引き離す。

「見ろよ! これは勝負あったな!」

「どうか?ここからだ」

曲がり角。うねった道。拳くらいの小さな滝。小さな水路が集まった合流点で晴の船は乱流に耐えられず回転、沈没してしまった。

「ああ!なんでだ!?」

「ほれ見ろ。晴のはでかすぎずら」

最後まで残っていたのは百姓の子"助市すけいち"の船だけだった。彼は得意満面に船の行き先を見送る。船流しの勝負は決した。

「灯火のやつもかたちは面白かったけどちょっと遅すぎたな」

夢に出てくる大舟に倣って、小枝を骨に使って船底を深くした自信作だった。が、そのぶん重くなってしまったのかもしれない。


「助市は今年も祭りに出ないのか?」

「おらっちは田植えの人手が足りねえからおっかあが許さねえだに。そのうちヤサカ様のバチが当たる」

「しょうがねえさ」


下社の春祭りは豊穣と豊漁を女神ヤサカトメに祈念するもので、本来ならば百姓のための祭りでもある。ただし同時に彼らの繁忙期でもあり、土地を持たない小作農はとてもそれどころではないらしかった。現に父親を病で亡くした頃から助市はめっきり祭りに参加しなくなっている。


(( すけ―――!!なに遊んでんだらこっちゃ手伝え!! ))


助市の母親が遠くから手を上げる。助市は「ほれ見ろ」とこぼすとゆっくりと歩き出す。

「俺もおめえらみたいに武士の子に生まれてりゃあな」


灯火と晴はかける言葉もなく彼の小さな背中を見送った。

「俺たちも帰るか」

「うん」


ふたりの黒髪を包む日差しは暖かく、膝丈の草花が風に揺れていた。厳しい冬はすっかり遠ざかっていた。


「俺も、武士以外の家に生まれてきたかったな」


助市の言葉を思い出し、灯火の口からするりと本音が滑り落ちた。


え?


その瞬間、目の前が歪み視界いっぱいに光が満ちあふれた。


あっ、まただ! 待って・・。急速に意識が遠退いていく。



目を開けると薄暗い石床に横たわっていた。己の腹から流れ出た黒い血が目の前に広がり髪を濡らしていくのがぼんやりと見えた。もはや痛みは無い。そのかわり寒い。からだが凍り付きそうだ。圧倒的な絶望に手足は捕らわれ、指一本動かすこともできなかった。最後の力で視線だけを動かすと、簡素な衣服を着た少女が今にも泣き出しそうな顔でその場に固まっている。


そんな顔をするな。お前のせいではない。中途半端にしか生きられなかった己の責任だ。遅かれ早かれこうなるような気がしていた。こんなことなら魂の指し示すままに振る舞うのだった。今となってはそれだけが悔やまれてならない。もし、もしも、もう一度人生をやり直せるのなら。そのときは――


薄暗い世界が中心に向かって収束し、ただ一点を残してすべてが暗闇に包まれていった。



「おい灯火、だいじょうぶかお前?」


目の前に晴の顔が見えた。

「間違っても母上の前では武士が嫌だとか言うなよな」

晴が頭をコツンと小突いた。


灯火は、見渡す限りの緑の中に立っていた。洲羽湖を吹きさらした風は、まだ知らない景色を連れてきたみたいに肌の上で泡立って弾けた。生まれたばかりの新鮮な空気は肺に満ち、手足に向かって伸びていく。心の臓は大きく鐘を打ち、存在を誇示するように脈打っていた。


お前様よ。俺は一体何をやり直せば、いい?






神主の守矢真静もりやましず女神おんながみを奉る祝詞を高らかに読み上げる。


"声に出すのも恐れ多い御神よ

山に住む獣、うみに住む魚を御前にお供えします

どうか風の祝いで皆が作る稲を豊かに実らせてください

もし願いを叶えてくだされば秋のにはたくさんの稲を捧げます"


呼応するように氏子の笛や太鼓が続く。少女たちはその音に合わせて歌声を揃える。幼くも清浄な響きが神楽殿の天井に響き雨のように降り注いでくる。


本番では灯火ほのかせいといった元服していない子供たちが巫女の周囲を風の精や水の精に扮した装束で舞うのだが、この日は練習だったのでただの小ぎれいな小袖を来ている。にもかかわらず・・・。


「まあ!晴さんもほのちゃんも、お可愛らしいですね!」


殿の外から、その細い双眸をらんらんと輝かせているのは、ふたりの義姉である。


( なぜここに? )舞台上の灯火が目配せをすると、晴が

( わからん )と同じく目で答える。


灯火と晴のふたりが練習しているのは下社の春祭りの演目のひとつだ。百姓の子、大工の子、漁師の子。氏族の子らが集まってその年の豊作を祈念する舞を女神に奉納する。舞には獣の真似や魚の真似、田植えの仕草がふんだんに入っていた。


「今日はこのあたりにしておこうか。みなご苦労でした。草団子ができているから持っておかえり」


真静が声をかけると、子らは一目散に団子に駆け寄る。


「姉上、見に来ていたのですね・・」


ホクホク顔のたつに晴が声をかける。


「はい!祭りの日の本番は夜なのでお姿がよくみえませんから昼間に来てしまいました。晴さんもほのちゃんもとってもお上手でしたよ」

「正直、早く元服してあの格好悪い踊りから抜け出したいものです」

晴に続き灯火も激しく頷く。

「よいではないですかー。今だけのご褒・・じゃなかった、ご奉公ですよ」

それに―― と言いかけたとき後ろから声がかかる。


「たっちゃん、来ていたのね」


三人が振り返ると、巫女姿の少女が神楽殿の艶やかな床に膝を折るところだった。長く美しい黒髪は丁寧に梳かされ、白い小袖に映えている。小さな白い顔には一筋薄く紅が引かれていて、若々しさと同時に凜々しさを湛えていた。このひとは誰だったか。


初瀬はつせ様!お久しゅうございます」


たつに名を言われてようやく思い出す。このひとは現在の洲羽領主すわりょうしゅの姪にあたる初瀬姫だ。本家筋では無いため正確には姫ではないがその気品あるお姿から姫と呼ばれている。


「たっちゃん。"様" はやめて。昔みたいに初瀬と呼んでくださいな」


たつと初瀬は幼いころ共に下社で学んだ間柄であり、歳の近さから仲良くしていたようだ。からだを悪くして療養中だと聞いていたが。


「今年は初瀬ちゃんが巫女として振る舞われると聞いて、もしやと思い来てしまったの」

「そう。まだ舞をご披露するには身体が慣れていなくて。今年は裏方に専念させてもらうわ」

「元気になったばかりですもの無理をしないで。また父上ともどもご挨拶に伺いますね」

「楽しみにしています。昔みたいにまたお手玉をしましょうね。では」


軽く会釈をして初瀬が奥に戻る。その佇まいや仕草は洗練されて、一種風格さえも漂うほどだった。


はあ。


ひとり悩ましいため息をもらしたのが晴だ。


「あんなキレイなひとだったかな初瀬姫。肌も白いし人形みたいだな」

「あら晴さん。わたしの初瀬ちゃんに見とれてしまいましたか」

「ええ??姉上の?」

「ふふ、冗談ですよ。でもなかなかに道は険しいかと。よくよくご精進くださいませ」


不敵な笑みを浮かべるに、苦笑いする晴。双方を見比べながら、灯火は胸の内に蝶が軽やかに羽ばたくのを感じた。気持ちの良い風が駆け足で三人を通り抜ける。

流れの速い風は上空の雲を捉えて東へと流れていった。遠く山脈のいただきに雲が集まり黒く陰っている。灯火は妙な胸騒ぎがしてその先、山の向こうにある紀野国きのこくを感じていた。





兜の庇から落ちる雨だれが馬の背を静かに叩いていた。周囲は白く霞み、行軍の列はその先頭を捉えることはできない。人の吐く息、軍馬の吐く息が深い山間に混ざり合い、まるでひとつの生き物のように長く列を作っていた。


先日、紀野国きのこく国主が越州国えっしゅうこく国主にその権限を委譲する書簡が朝廷に提出され、認められた。無論それは平和的な委譲ではない。実効支配の末の脅しが実った故だ。そんなことはもちろん朝廷とてわかっている。ただそれが認められた背景には越州国の強大な軍事力に対して朝廷に対抗する術が無いという純然たる事実があった。


越州国の国主でもある三条景虎さんじょうかげとらが四男、景英かげひでは元服したばかりのその小さな身体を馬上に乗せ、三百余ばかりの兵を率いていた。後見役として後ろを固めるのは異母兄弟である次男の景成かげなりであったが、後見役とは名ばかりでいつ後ろから刺されてもおかしくない間柄だ。この組み合わせで、国主の呼び出しに応じない村を掌握してこいという、使い走りに等しい思し召しだった。


よりにもよって父上は私の初陣になんというめいをお与えになったのか。


景英は忸怩じくじたる思いだった。末子として甘やかされて育った覚えも、他の兄弟とくらべ益を受けてきたわけでもない。武家の男として全うに生きてきたつもりだ。いや、だからなのか。その凡庸さを父上は見抜いておられるのだろうか。


「おい景英。なにをシケた面をしておる。まさか将たる者が敵前で怖じ気づいたのではあるまいなあ」


馬を寄せた景成がニヤけ顔で語りかけてくる。


「滅相もござりませぬ。越州国の将としてこの場に立てること。その喜びで震えが止まりませぬ。それに、相手は敵というわけではございませぬゆえ」

「だといいがなあ。なに、今宵の相手はたかだか百人にも満たない隠れ里。囲んでしまえばわけはない。中にお前好みの女子おなごがおると良いなあ」


景英の頭に怒気が昇ってくる。このうつけ者がこれまで楽しんできたのはいくさではなく殺戮だ。武士の誇りもなく力のままにいのちを弄んでいる。


「兄上のお手は煩わせませぬ。包囲したのち使者を送り村長むらおさを従わせる手はずにて」

「そうなるといいがなあ」


離れていく影成の訳知り顔が気になったが、呼び止める気は毛頭起きなかった。すぐに記憶から消し去る。呼び出しに応じないとは言え、兵で囲って抵抗する村人が居るとは思えないからだ。


深い森の中にその集落はあった。斥候の報せを受け離れた場所に馬を留める。兵が気配を殺し村を取り囲むのに、降り続ける雨は好都合だった。同時に影成の部隊をも見失っていたが、遠くから物見でもするつもりなのだろう。元々手勢を借りるつもりもなかったのでこちらとしても好都合だ。


村への使者を選び、口上の確認をしている最中だった。

村の方から女の金切り声が轟き、数羽の鳥が木々から飛び立つのが見えた。


何が起きた。誰が抜け駆けした・・!?

思考が止まり考えあぐねているうちに村の方からは煙が立ち登っている。


「わ、我に続け!」


立ち止まって考えている暇はない、機を逃し上手く事を運べなければ ”小事も任せられぬ” 印象を父上に持たせてしまうことになる。それは一族から見放せるのも同じことだ。


すぐさま私兵を率いて村に入る。

そこで景英が見た物は、まさにこの世の地獄とも呼べる光景だった。


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