第2話


薄曇りの優しい光に促されて灯火ほのかは目を覚ました。気だるさが敷き布団に染み入って離れがたい。兄弟だけで使っている小さな板の間。隣にあるはずのせいの布団は綺麗に畳まれて部屋の隅に追いやられている。

思考が徐々にはっきりする一方で、もやみたいに留まっている罪悪感の残滓ざんしが四肢に広がった。それは昨日の立ち会いで無様にも討ち果たされたことなのか、夕餉の席を出て行ったことなのか、それとも・・・。灯火は土蔵で見た強烈な白昼夢を思い出してはかぶりを振る。あれはただの絵空事だ。すぐに忘れてしまおう。そう思っても、じわじわと後悔の念は湧き上がってくる。あんな夢みなければよかったし、母にちゃんと叱られればよかったし、上社かみしゃの稽古など行かなければよかった。


そもそも、生まれてなど、こなければ。


 グゥ


灯火の小さなお腹が返事をする。それを聞いたのか縁側の障子戸が勢いよく開け放たれた。


「まだ寝ているのか」


顔を出したのは身支度を終えた晴だ。


「今起きた」

「お前の朝餉はないぞ。母上が、"反省するまで与えずともよい" ってさ」

「・・うん」

「ほれ。たつねえから」


ぽんと放り投げられた葉の玉を受け取ると、爽やかな紫蘇しその匂いがした。中には残り物なのかご飯が一握り入っている。


「ないしょな。それと今日から真静ましず様がやしろに出られるってさ。あとで一緒に行くか」

「うん」


ぴしゃりと障子戸を締め、駆け出していく晴。見送った先にはくっきりと太陽の輪郭が浮かび上がっている。灯火は握り飯をひとくち口に入れた。仄かに暖かい木漏れ日の匂いがした。



町の中心から遠ざかるように、細道を通って小川橋を越える。大門通りに出てしばらくすると下社しもしゃを囲む石垣が見えてくる。晴は歩くのが速いので少し目を離すと置いていかれそうだ。できるだけ大股で歩く。

鳥居の前で一礼。女神おんながみヤサカトメを奉る荘厳な大社おおやしろを正面にすえて、右に社務所、左には神楽殿かぐらでんがあった。灯火たちは普段使用していない神楽殿を使って神主から読み書きを教わっている。神楽殿の入り口をのぞくと、ちょうど同じような年齢の子供たちが文卓を並べているところだった。


「よぉ晴!昨日はどうだったんだ? 上社のやつらをねじ伏せてやったんだろうな?」

この、からだの大きな丸顔は大工の息子で"弥八やはち"といった。晴と同い年だ。


「とうぜん! 相手の木刀をはじき飛ばしてやったわ!」

晴は少々話を盛りつつも得意満面だ。


「ああ~、俺も親父の手伝いさえなければ見に行ったのにな~。おう灯火! お前はどうだったんだ?」

「俺は・・・。晩飯を食いそびれた」

「はあ~?なんだそりゃ」

弥八はワハハと豪快に笑う。普段からおおざっぱ性格ではあるがこんなときは却って気分が軽くなる。


「さあさ、みんな机を出して。はじめますよ」


奥から声をかけたのは下社の神主である守矢真静もりやましずだった。今日は白の切りばかまの上から紺色の装束を羽織っている。壮年と言っても差し支えのない年齢であるはずだが、神職の化粧も手伝ってずいぶん若く見える。


「真静さまだ!」


真静は群がる氏族しぞくの幼子たちひとりひとりに声をかけている。物忌ものいみが明けて出てきたのか、久しぶりに見るその顔つきはやや細く、生気の失せた妖艶ようえんさがあった。

晴と灯火はその間に小さな文卓を皆の後ろに移動させて座った。武を重んじる上社では武家の氏子は最前列に並ぶというが、下社では分け隔てはない。卓の上に木のますを置き、細かい砂を敷いて、その上から棒をつかって文字の書き取りをする。高価な紙などはもちろん使わせてもらえない。

書の題材はいくつもあったが、ほとんどがやしろに保管されている神話の内容だった。


「今日は上社のタテミナカタが出雲から落ち延びてくるところかー。あいつさえこなければ洲羽すわは平和だったのにな」

晴が口を尖らせている。そのぼやきを真静は逃さなかった。

「これ、晴。そんな物言いをするものではありませんよ」

「だって真静さま。あいつらが来てから争いが起こったんでしょう?」

「そういう一面もありますが、タテミナカタの氏族は洲羽に製鉄の知識をもたらしました。それに、他の悪い神々を追い払ったという逸話も残されているの。ヤサカトメとタテミナカタは夫婦神めおとがみ。どちらが欠けても洲羽は成り立たないのですよ」


晴は納得していないようだったが手は黙々と動かしている。このあたりの切り替えの早さは兄の良いところだ。と灯火は思っている。ずるずると気持ちを引きずって手が止まってしまう自分とは大違いだ。


「灯火、これどうやって書くんだ?」


隣に座った年上の少年が尋ねてくる。ふたりは元々読み書きができたので他の子供たちを手伝うこともままあったが、晴の書く字は勢いがありすぎるためどちらかと言えば灯火のほうに人気があった。書を読むのが得意であったことも一役買っていると思う。灯火はこの"習い"に参加するときだけは、自分の居場所ができたようで嬉しかった。


武士の子が読み書きだけ得意でなんとします!


母上の怒った顔がちらつく。帰ったあたりに改めてお叱りを受けるような気がして、そわそわと二時ふたときを過ごした。



     ※



帰り道。遠回りして田んぼのあぜ道をふたりで歩く。見渡す限りの田はまだ休ませてあり水も入ってはいない。あぜ道には若い草がちらほらと頭を出して草鞋わらじからはみ出た足先をくすぐった。もう少し暖かくなれば次々に"田起こし"がはじまるだろう。田に牛が入ってくわを立て、地面を掘り返す。灯火ほのかはあの、一年が始まるのだとワクワクする光景が好きだった。


夢想しながら帰路につくと、屋敷の入り口で母の"きぬ"が手を振っているのが見える。


「げげ。母上だ」


せいが独りごつ。近づいて見れば母の眼差しは深刻そのもので、足取りの重くなったふたりをさらに震え上がらせた。


「遅かったではないですか。今か今かと待っていました。すぐに屋敷に入りなさい。旦那様がお呼びです」

また何か しでかしたか? ふたりは無言で目を合わせた。



「晴でございます」

「灯火にございます」


襖をはさんで奥から「入れ」の声がする。縁側から中に入ると、奉公人の"ふき"が佳政に濃紺の甲冑を着せているところだった。


「父上さま!そのお姿、何事ですか!?」

「おおこれか。これから高見の見物に出かけようと思ってな」


ふたりの頭の上に"はてな"の印が見えたのか、佳政は改めて言い換える。


越州えっしゅうが兵を率いて隣国の紀野きの国に押し入ったとの報せがあった。恐らく山の向こう"三間の谷"で戦になるとふんでおる。領主様はこの機に乗じて物見せよと仰せだ。恐らく上社かみしゃ側にも同じ報せが行っているとは思うが我々が動かんのでは格好がつかん。あいにく佳直よしなおは町の警護で動けんから儂が出ようという、そういうことだ。晴、お前は儂の馬を引け」


「はっ!!」


晴は嬉々とした表情で返事をする。灯火はまだなにが起こっているのか掴みかねていた。越州国と言えば北の大国。それがなぜ洲羽すわの隣接する紀野国へ攻め入ったのか。

「灯火は-、そうだ。馬上で旗を持て。間違って弓を引かれてはかなわぬ」

灯火は馬など乗ったことがなかったが、重い雰囲気にふたつ返事をするより他なかった。


「なに、ただの物見だ」

佳政よしまさはニヤリと口元を綻ばせた。



     ※



山道をヘビのように続いていた提灯の光が弱まろうとするとき、山の頂から日の光が照らし始めた。朝露に濡れる枯れ草を馬は嫌がったが、引き返す隙間も無いくらいに道は細かった。山腹で何回か休憩を挟みながら隊列は続く。上社かみしゃ筆頭の氏族である"金刺かなさし家"を先頭に同じく侍所さむらいどころ(軍事的な役目)を領主より賜った上社の氏族が続く。せい灯火ほのかを伴った佐補さふ家といえば、担ぎ手と共に後方にあった。


当初 意気揚々と馬を引いていた晴は夜中に力尽き、今は佐補家の荷車に乗せられていびきをかいている。


「灯火は眠くないか。馬の背より落ちるでないぞ」


剣がダメで馬からも落ちたともなればあまりに先行きが無い。灯火は佳政よしまさの膝に抱かれながら馬上に留まっていた。灯火の頭よりも高い馬の背は一歩進むたびに大きく上下し、世界を揺らした。その中にあって灯火は妙な安心感を伴っていた。まるではじめてとは思えないような・・・。


日も高く昇ろうとする頃、一行はようやく峰に近づいた。昨夜の出立から歩き詰めで疲労の色は濃い。


「見よ、あの白樺が国境くにざかいだ。向こうは紀野国よ」


馬のたてがみばかり見ていた視線を上げると、尾根には等間隔の白樺が直立しているのが見えた。一行が速度を弱めるのを感じて、晴が馬の横につける。


「お父上、到着したのですか?」

「ああ。この静けさからいって、どうやら間に合ったようだ」


小さく盛り土をした平らな場所に馬たちが繋がれる。お付きの者たちが一斉に給仕の準備に取りかかっていた。

先に到着して床几しょうぎに堂々と座っているのは、褐色の甲冑を身に纏った上社の武者たちだ。


「おお、下社しもしゃの佐補殿ではないか。老体に鞭打って荷運びご苦労でござったな。いや失敬、飯炊きでござったか?」

金刺かなさしの。お久しゅうござる。上社の軍勢が我らを守ってくださるとのこと、安心して物見ができまする」

「いやはや下社は人手不足と聞いてはおったが、童まで荷運びに連れてくることはなかろう。人足にんそくにもならないのであれば早々に帰らせよ。馬に踏まれても文句は言えぬぞ」

「それには及びませぬ。これなるふたりは、それがしの息子にござる。数年後には洲羽すわを背負って立つ、立派な武者となりましょう」


佳政よしまさは一瞥して集団から離れる。

「ついてきなさい。あの開けたいただきがよかろう」

しばらく歩いてから、晴が口火を切る。


「父上、あの者たち、ほんっとうに腹が立って仕方がありませぬ!」

「言わせておけ。やつら侍所さむらいどころ我々守護人しゅごにんではそもそも役目が違うのだ。侍所は戦から土地を守り、守護人は日々の安寧を守る。同じ民を守ることに貴賤きせんは無い」


そんなことより始まるようだ。と佳政は空に耳を傾けた。灯火たちも峰に駆け上がり、木々の開けた隙間より直下を見下ろす。


山と山に挟まれた平地にいくつもの田畑が連なっている。向かって右手には黒の集団、旗印まではみえないが紀野国の兵と思われる。その数およそ八百。対して左手には深紅の集団、数およそ六百。双方横長の陣形で対峙している


「あの赤いのが越州えっしゅう国なのですか」


灯火が問うと、佳政は頷いた。その視線は訝しげに見える。


「土地勘のない攻め手が寡兵かへいとは・・。率いるのが噂に聞く"虎"三条景虎さんじょうかげとらであったとしても無謀に見えるが」


遠目に見る限り双方とも馬に弓、槍と兵員構成はさほどの違いもないように感じられた。であれば当然数が多い方が有利なはずだ。

二つの軍団よりそれぞれ旗印をつけた早馬がお互いの中間地点に駆け寄る。


「あれは?」

「名乗り合いだ。いよいよ始まるぞ」


声までは聞こえないが越州の将が振り返って何やら指示を出している。

「あっ赤いのがさらに兵を二つに分けた」


晴の指さす先には前列、後列と兵を二つに分けた赤い集団。あれではすぐに飲み込まれてしまうだろう。


「挑発だ。何を考えておる・・死ぬ気か?」


灯火はその瞬間、悪寒にも似た強烈な違和感を覚えた。何かが変だ。でもその正体がなんなのか上手く言葉にできない。必死に両軍を見比べて目線を行ったり来たりさせている内に、ある僅かな違いに気づいた。


あっ


灯火の胸の内で火花が散り、確信を伴って喉をせりあがってくる。


「父上、この戦、赤の越州が勝ちます」


声変わりもしていない澄んだ声が朗々と辺りに響いた。

目を丸くして振り向いた晴と佳政をよそに、わっと腹の底から湧き上がるような男たちのとき山間やまあいを包む。


いくさは今、始まったのだ。

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