第2話
薄曇りの優しい光に促されて
思考が徐々にはっきりする一方で、もやみたいに留まっている罪悪感の
そもそも、生まれてなど、こなければ。
グゥ
灯火の小さなお腹が返事をする。それを聞いたのか縁側の障子戸が勢いよく開け放たれた。
「まだ寝ているのか」
顔を出したのは身支度を終えた晴だ。
「今起きた」
「お前の朝餉はないぞ。母上が、"反省するまで与えずともよい" ってさ」
「・・うん」
「ほれ。たつ
ぽんと放り投げられた葉の玉を受け取ると、爽やかな
「ないしょな。それと今日から
「うん」
ぴしゃりと障子戸を締め、駆け出していく晴。見送った先にはくっきりと太陽の輪郭が浮かび上がっている。灯火は握り飯をひとくち口に入れた。仄かに暖かい木漏れ日の匂いがした。
町の中心から遠ざかるように、細道を通って小川橋を越える。大門通りに出てしばらくすると
鳥居の前で一礼。
「よぉ晴!昨日はどうだったんだ? 上社のやつらをねじ伏せてやったんだろうな?」
この、からだの大きな丸顔は大工の息子で"
「とうぜん! 相手の木刀をはじき飛ばしてやったわ!」
晴は少々話を盛りつつも得意満面だ。
「ああ~、俺も親父の手伝いさえなければ見に行ったのにな~。おう灯火! お前はどうだったんだ?」
「俺は・・・。晩飯を食いそびれた」
「はあ~?なんだそりゃ」
弥八はワハハと豪快に笑う。普段からおおざっぱ性格ではあるがこんなときは却って気分が軽くなる。
「さあさ、みんな机を出して。はじめますよ」
奥から声をかけたのは下社の神主である
「真静さまだ!」
真静は群がる
晴と灯火はその間に小さな文卓を皆の後ろに移動させて座った。武を重んじる上社では武家の氏子は最前列に並ぶというが、下社では分け隔てはない。卓の上に木の
書の題材はいくつもあったが、ほとんどが
「今日は上社のタテミナカタが出雲から落ち延びてくるところかー。あいつさえこなければ
晴が口を尖らせている。そのぼやきを真静は逃さなかった。
「これ、晴。そんな物言いをするものではありませんよ」
「だって真静さま。あいつらが来てから争いが起こったんでしょう?」
「そういう一面もありますが、タテミナカタの氏族は洲羽に製鉄の知識をもたらしました。それに、他の悪い神々を追い払ったという逸話も残されているの。ヤサカトメとタテミナカタは
晴は納得していないようだったが手は黙々と動かしている。このあたりの切り替えの早さは兄の良いところだ。と灯火は思っている。ずるずると気持ちを引きずって手が止まってしまう自分とは大違いだ。
「灯火、これどうやって書くんだ?」
隣に座った年上の少年が尋ねてくる。ふたりは元々読み書きができたので他の子供たちを手伝うこともままあったが、晴の書く字は勢いがありすぎるためどちらかと言えば灯火のほうに人気があった。書を読むのが得意であったことも一役買っていると思う。灯火はこの"習い"に参加するときだけは、自分の居場所ができたようで嬉しかった。
武士の子が読み書きだけ得意でなんとします!
母上の怒った顔がちらつく。帰ったあたりに改めてお叱りを受けるような気がして、そわそわと
※
帰り道。遠回りして田んぼのあぜ道をふたりで歩く。見渡す限りの田はまだ休ませてあり水も入ってはいない。あぜ道には若い草がちらほらと頭を出して
夢想しながら帰路につくと、屋敷の入り口で母の"きぬ"が手を振っているのが見える。
「げげ。母上だ」
「遅かったではないですか。今か今かと待っていました。すぐに屋敷に入りなさい。旦那様がお呼びです」
また何か しでかしたか? ふたりは無言で目を合わせた。
「晴でございます」
「灯火にございます」
襖をはさんで奥から「入れ」の声がする。縁側から中に入ると、奉公人の"ふき"が佳政に濃紺の甲冑を着せているところだった。
「父上さま!そのお姿、何事ですか!?」
「おおこれか。これから高見の見物に出かけようと思ってな」
ふたりの頭の上に"はてな"の印が見えたのか、佳政は改めて言い換える。
「
「はっ!!」
晴は嬉々とした表情で返事をする。灯火はまだなにが起こっているのか掴みかねていた。越州国と言えば北の大国。それがなぜ
「灯火は-、そうだ。馬上で旗を持て。間違って弓を引かれてはかなわぬ」
灯火は馬など乗ったことがなかったが、重い雰囲気にふたつ返事をするより他なかった。
「なに、ただの物見だ」
※
山道をヘビのように続いていた提灯の光が弱まろうとするとき、山の頂から日の光が照らし始めた。朝露に濡れる枯れ草を馬は嫌がったが、引き返す隙間も無いくらいに道は細かった。山腹で何回か休憩を挟みながら隊列は続く。
当初 意気揚々と馬を引いていた晴は夜中に力尽き、今は佐補家の荷車に乗せられていびきをかいている。
「灯火は眠くないか。馬の背より落ちるでないぞ」
剣がダメで馬からも落ちたともなればあまりに先行きが無い。灯火は
日も高く昇ろうとする頃、一行はようやく峰に近づいた。昨夜の出立から歩き詰めで疲労の色は濃い。
「見よ、あの白樺が
馬の
「お父上、到着したのですか?」
「ああ。この静けさからいって、どうやら間に合ったようだ」
小さく盛り土をした平らな場所に馬たちが繋がれる。お付きの者たちが一斉に給仕の準備に取りかかっていた。
先に到着して
「おお、
「
「いやはや下社は人手不足と聞いてはおったが、童まで荷運びに連れてくることはなかろう。
「それには及びませぬ。これなるふたりは、
「ついてきなさい。あの開けた
しばらく歩いてから、晴が口火を切る。
「父上、あの者たち、ほんっとうに腹が立って仕方がありませぬ!」
「言わせておけ。やつら
そんなことより始まるようだ。と佳政は空に耳を傾けた。灯火たちも峰に駆け上がり、木々の開けた隙間より直下を見下ろす。
山と山に挟まれた平地にいくつもの田畑が連なっている。向かって右手には黒の集団、旗印まではみえないが紀野国の兵と思われる。その数およそ八百。対して左手には深紅の集団、数およそ六百。双方横長の陣形で対峙している
「あの赤いのが
灯火が問うと、佳政は頷いた。その視線は訝しげに見える。
「土地勘のない攻め手が
遠目に見る限り双方とも馬に弓、槍と兵員構成はさほどの違いもないように感じられた。であれば当然数が多い方が有利なはずだ。
二つの軍団よりそれぞれ旗印をつけた早馬がお互いの中間地点に駆け寄る。
「あれは?」
「名乗り合いだ。いよいよ始まるぞ」
声までは聞こえないが越州の将が振り返って何やら指示を出している。
「あっ赤いのがさらに兵を二つに分けた」
晴の指さす先には前列、後列と兵を二つに分けた赤い集団。あれではすぐに飲み込まれてしまうだろう。
「挑発だ。何を考えておる・・死ぬ気か?」
灯火はその瞬間、悪寒にも似た強烈な違和感を覚えた。何かが変だ。でもその正体がなんなのか上手く言葉にできない。必死に両軍を見比べて目線を行ったり来たりさせている内に、ある僅かな違いに気づいた。
あっ
灯火の胸の内で火花が散り、確信を伴って喉をせりあがってくる。
「父上、この戦、赤の越州が勝ちます」
声変わりもしていない澄んだ声が朗々と辺りに響いた。
目を丸くして振り向いた晴と佳政をよそに、わっと腹の底から湧き上がるような男たちの
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