剣旋輪 ~武家の三男は古代ギリシアの記憶を持つようです~

林 草多

第1話

小童こわっぱ殿よ~。いつまで逃げ続けるつもりだ。いい加減その木刀を振るわねば鍛錬にならぬぞ」


屋敷の縁側に腰掛けた指南役の中年武士は無精ひげを撫でながら子らの成りゆきを見つめている。

 "灯火ほのか"の目の前では、自分より背の高い少年が口元に薄笑いを浮かべながら木刀を上段にかまえていた。


「やっちまえ!」


ふたりを囲んだ周りの少年たちも嘲笑や野次をけしかけて、屋敷の中庭はちょっとしたお祭り騒ぎとなっている。


「灯火! なんとかせい!それでも武士の子か!」


ふたつ年上の兄 "せい"が後ろから声を飛ばす。無茶を言う。相手は年上で体格も違うのだ。同じ長さの棒きれで叩き合ったら勝てるわけがない。それに・・・


「はは!あのチビ、また固まってしもうた!刀が恐ろしうて立ってるのがやっとだ」

「稽古にならんわ。三郎、はよ楽にしたれえ」


三郎と呼ばれた相手の木刀の切っ先が、灯火の眼前に向けられる。それを見つめてしまうと脈が高鳴りグニャリと視界が歪んだ。灯火は物心つくころから先の尖ったものを向けられるとなぜか竦んでしまい動けなくなってしまう。


イぃぇエエエエ!!


相手のかけ声とともに斜めに振り下ろされた木刀。微塵も動かぬ足。木刀を受けた自らの棒きれが弾き飛ばされるのを、灯火は一部始終観察していた。無限とも思える一呼吸の内側で視界は深い深い闇に包まれていった。



暗闇の世界はまず、炎があった。


赤い熱に包まれた巨大な球があった。

次第に冷えて黒鉄の塊となり、やがて表面には水が満ちた。

幾度となく膨れては縮み、割れては塞がった。

いびつな起伏の山谷に、陸と水との境に動植物が生まれた。

それが、すべてのはじまりだった。


 大陸の東に弓状を連ねた島国がある。かつて大陸人からは蓬莱ほうらいと呼ばれ、死ぬことの無い理想郷の代名詞ともなった国。ただそこに住まう人々は、自らの民族を示す名前をこのときはまだ持たなかった。細長い島国を統べる者はおらず、いくつもの集団に分かれ、互いに争いを続けていたからだ。より豊かな生活を得るために新たな土地を求め、そして戦う。人が人のかたちを得る前から繰り返している本能が今もなお意識の大部分を支配していた。

 ちょうど島国の中央、矢をつがえる位置に信尾しなの国はあり、その臓腑として洲羽すわの地があった。高い山々に囲まれた盆地。大きな湖には神代より神が留まるとされ、人々は自然からの恩恵で命をつなげてきた。そんな洲羽の地でさえ境界線は幾度となく引き直されていたが、はるか上空を飛ぶ鳥の目には今日も変わらぬ緑の大地が映っていた。



泥に沈んだ意識をようやく捕まえられたのは身体を揺すられたからだ。でも、おなかが温かい。できればもう少し寝ていたい。


「冗談じゃないぞ灯火ほのか。起きているのなら自分の足で歩け」


灯火が目を開けると うなじ が目に入った。針金みたいな硬い黒髪を無造作に革紐で縛っている。どうやら晴が背負ってくれていたらしい。寝言を口にしていたのが聞かれたのか。


「ん・・・」


背からずり落ちて横に並ぶ。頭ひとつ分。いやもっと大きいか。歳ふたつしか違わないはずなのにこの違いだ。名が表すような晴れ晴れとした性格に、細身ながら筋肉質な四肢。下社しもしゃの氏子筆頭を務める佐補さふ家の次男坊。名を"せい"といった。灯火が齢十二だから、晴は十四になったはずだ。


「どこか痛いところはないか」

「頭が痛いな」

「それは見ればわかる。たんこぶができているからな。ああ、触るな。治りがおそくなるぞ」


帰り道、ふたり並んで土手を歩く。左手には夕日を反射した洲羽すわ湖が煌めいており、遠く漁に出た船の小さな影がチラチラと動いていた。広大な湖の淵をなぞったように街道が走り、低い家々が屋根を並べている。


「そうだ。お前はノビていたから知らぬだろうが、餅をもらったのだ。食え」

懐から取り出した笹の包みを開けると豆入りの白い餅が一玉残っている。

「兄者はいいのか?」

「俺はもう食べた。上社かみしゃでついた餅だと言うのが気に入らんが、餅に罪はないだろう」


灯火は餅をつまんで口に入れようと瞬間、確かな視線を感じた。土手の下のみすぼらしい長屋から男児がのぞき見ている。たしか父を病で無くし片親だったはずだ。

「灯火、あまり見せてやるな。ひもじさが増すだけだ」


視線を切って口にひょいと餅を放り込む。微かな塩味のあとから豆の優しい甘さが追いかけてくる。確かに餅に罪はない。これで夕餉までの一刻ほどは腹の虫に悩まされずにすみそうだ。

湖を切った冷たい風が、幸せな喉を通りすぎた。季節は春を少し過ぎた頃だ。これから徐々に暖かくなり、景色も食卓も賑わうだろう。この時のふたりはまだ、なんの不安とも、なんの心配とも無縁だった。



     ※



「あら!まあまあまあ!どうしましょう」


屋敷裏手の通用門を跨ぐと、ちょうど厨(台所)から姉の"たつ"が野菜を入れた籠を手に出てきたところだった。たつはその場に籠を置き去りにして灯火ほのかに駆け寄る。


「どうなさったんです?喧嘩ですか!?」


しまった。灯火の袴は倒れた拍子に汚れてしまっていたのだ。


「すみませぬ姉上。転んで汚してしまいました」

「それはよしとしてこのたんこぶ! 喧嘩をしたのですね!?」

慌ててせいが割って入る。

「姉上違います、僕らは上社かみしゃの剣客に稽古をつけてもらっていたのです。灯火は立ち合いで相手の木刀を受けてしまって・・」

「ほらやっぱり喧嘩ではないですか! ほのちゃんはまだ身体がちいさいのですから無理をしてはいけませんよ? 晴さんも、ちゃんと見ていてくださらねば」


矢継ぎ早にまくし立てているこの歳の離れた姉は、佐補さふ当主と前妻の娘で"たつ"という。小袖の上からもわかる快活とした体つきはやはり武家の女にふさわしい。そのくせこの"ちいさき弟たち"に対しては犬かわいがりをやめようとはしない。


「夕餉までには汚れた衣は着替えてくださいね。それと、父上にことの次第をお伝えするように!」



その夕、屋敷の広間には七つの膳が向かい合わせに整然と並べられていた。長い庇の先端から今日最後の陽の光が消えようとし、代わりに灯された火皿が室内に影を作っていた。


「はーっはっは!それで武芸の苦手な灯火がたんこぶをこさえてきたのか。頼もしいではないか」

「笑いごとではすまされませぬ。下社しもしゃの恥さらし、申しわけございませぬ」


年齢にそぐわない豪快な笑いを響かせるのはこの家の当主、佐補佳政さふよしまさその人である。対して平服するのは、佳政の後妻で晴・灯火の母である"きぬ"だ。


「まあまあ。子らが腕を競って高め合うのは良きことよ。"上社かみしゃが流れの浪人を囲った"と聞いていたが、ただの指南役であればまあ、問題もなかろう」


この洲羽すわの地には二つの大社おおやしろがある。火の神、戦の男神とされるタケミナカタを奉る"上社かみしゃ"と、風水の守護神、豊穣の女神とされるヤサカトメを奉る"下社しもしゃ"である。この二つの大社はそれぞれに氏子うじこ氏族しぞくを育み、この洲羽の地を二分していた。


「ともあれ洲羽の地が領主様のもと平らになるためには、いつまでも上社下社と言っているわけにもいかん。童のうちから交流が増えるは望ましいことよ」

「お父上!交流と申されますがなぜ木刀で打ち合う必要がございましょう。ほのちゃんがケガでもしたらどうするのです!」

"たつ"が割って入る。

「そんなこと言ったってなあ・・。ああ、そういえば佳直はどうした飯を食わんのか」

「兄上は今夜篝屋番かがりやばんで居ないと申したではないですか。またお話を聞いておられないのですね」

「・・むう」

困り果てた顔の佳政に、"きぬ"は膝を向けて居住まいを正す。

「旦那様」

「・・ど、どうした?」

きぬは神妙な顔を崩さない。

「あの雪の降る晩。我ら、晴・灯火の3人を迎い入れていただいたそのご恩、片時も忘れたことはございません。我らの行いで"佐補"の名を、しいては下社を貶めることがあっては生きてゆくことはできませぬ。灯火にはきつく言ってきかせますれば、どうかご容赦を」


床に額をつける母の姿を瞠目してはじめて、灯火はとてつもなく大変な失敗をしてしまったのだと、心臓を揺らした。言い表せない感情が喉を塞ぎ、窒息させようとする。いてもたってもいられず夕餉も途中に立ち上がると、それを見上げた隣の晴がポロっと椀のしじみを落とす。


「灯火どうした?」

「・・・はばかり(トイレ)」

「これ!灯火!」


とぼとぼと縁に出て暗闇に向かって歩き出す。困惑する部屋の空気と、きぬの咎める声とが背中に張り付いて、灯火はそれらを引き剥がすように足の指先に力を入れた。結局その後、灯火が夕餉の席に戻ることはついになかった。



     ※



火皿から突き出た芯が赤く燃え、小さな空間を作っていた。暗闇を照らす人物になるようにと、"灯火"と名付けた父はもうこの世にはいない。思い出す度に暗澹あんたんたる気分になる。

離れの土蔵は灯火ほのかが唯一心を落ち着かせることができるお気に入りの場所だった。ここには佐補さふ家が代々収集してきた武具や家財に混じって書物も置かれている。「この子は賢い子だ」と鍵を預けてくれた佳政には感謝しかない。嫌なことがあるたび、灯火はこの土蔵に入り浸っては書物を読むことに夢中になった。出所の知れない出納帳すいとうちょうや覚え書きに混じって日記や武勇伝の類いもあったのが救いだった。書物を読んでいるあいだだけは武芸がからっきしの自分の情けなさを感じずにすんだ。

 思えば、読み書きを教えてくれたのも実父だった。父は都に縁があったせいか下級武士にしてはめずらしく読み書きができた。「これからの世は武士も読み書きができねばな」と教えてくれた。あの優しい眼差しを思い出す。


なぜ・・なぜ父は死なねばならなかった。


何度問うても答えはでない。母子だけで生活なぞできるわけがない。佐補さふに引き取られたのが僥倖ぎょうこうだったことは、まだ若いせい灯火ほのかにも痛いほど理解できた。この上 武芸で身を立てられねば、さもなくば我らも・・。餅を恨めしそうに見ていた童子の双眸そうぼうが思い出されてならなかった。


源平のいくさ物語。頁をめくる度に鼻をくすぐる草の香りに、うとうととしていた。灯火はこの書物の香りが好きだった。嗅ぐたびになぜか懐かしい気持ちにさせてくれる。


ジジ…


誰かに呼ばれた気がして、ぼんやりと眠気まなこに火皿を見る。小さな灯火ともしびがゆらゆらと揺れている。


ジジジ…


…トスさ …さま


炎は次第に大きくなっていっているように感じた。視界のすべてが揺れて橙の光に染まり、歪んだ。そして瞬間放たれた強烈な白い光に土蔵全体がすっぽりと包み込まれていった。




「…トス様! ”フレイトス”様!」

「・・!? スハーーッ!」

植物紙に突っ伏した顔をあげて急激に覚醒した。胸いっぱいに空気を吸って周りを見渡す。


「ここは・・?」

「何をおっしゃっているのです!至急次のご命令を!野蛮な敵兵に右陣が押されていますぞ!」


奇妙な白い衣服を着た男に促され、当惑したまま天幕を出る。直上には燃えたぎる大きな太陽、目の前には大きく開けた草木ひとつない渓谷。頬には熱風が吹きすさび、物見櫓やぐらから見下ろせるのは巨大な長方形の鏡面。いや鏡ではない。均一に敷き詰められた銀甲冑の兵士たちだ。数千とも思える兵士たちが足踏みで地を鳴らし、怒号を上げながら流体のようにひとつの力を形作っていた。


これは夢・・なのか?

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