剣旋輪 ~武家の三男は古代ギリシアの記憶を持つようです~
林 草多
第1話
「
屋敷の縁側に腰掛けた指南役の中年武士は無精ひげを撫でながら子らの成りゆきを見つめている。
"
「やっちまえ!」
ふたりを囲んだ周りの少年たちも嘲笑や野次をけしかけて、屋敷の中庭はちょっとしたお祭り騒ぎとなっている。
「灯火! なんとかせい!それでも武士の子か!」
ふたつ年上の兄 "
「はは!あのチビ、また固まってしもうた!刀が恐ろしうて立ってるのがやっとだ」
「稽古にならんわ。三郎、はよ楽にしたれえ」
三郎と呼ばれた相手の木刀の切っ先が、灯火の眼前に向けられる。それを見つめてしまうと脈が高鳴りグニャリと視界が歪んだ。灯火は物心つくころから先の尖ったものを向けられるとなぜか竦んでしまい動けなくなってしまう。
イぃぇエエエエ!!
相手のかけ声とともに斜めに振り下ろされた木刀。微塵も動かぬ足。木刀を受けた自らの棒きれが弾き飛ばされるのを、灯火は一部始終観察していた。無限とも思える一呼吸の内側で視界は深い深い闇に包まれていった。
暗闇の世界はまず、炎があった。
赤い熱に包まれた巨大な球があった。
次第に冷えて黒鉄の塊となり、やがて表面には水が満ちた。
幾度となく膨れては縮み、割れては塞がった。
いびつな起伏の山谷に、陸と水との境に動植物が生まれた。
それが、すべてのはじまりだった。
大陸の東に弓状を連ねた島国がある。かつて大陸人からは
ちょうど島国の中央、矢をつがえる位置に
泥に沈んだ意識をようやく捕まえられたのは身体を揺すられたからだ。でも、おなかが温かい。できればもう少し寝ていたい。
「冗談じゃないぞ
灯火が目を開けると うなじ が目に入った。針金みたいな硬い黒髪を無造作に革紐で縛っている。どうやら晴が背負ってくれていたらしい。寝言を口にしていたのが聞かれたのか。
「ん・・・」
背からずり落ちて横に並ぶ。頭ひとつ分。いやもっと大きいか。歳ふたつしか違わないはずなのにこの違いだ。名が表すような晴れ晴れとした性格に、細身ながら筋肉質な四肢。
「どこか痛いところはないか」
「頭が痛いな」
「それは見ればわかる。たんこぶができているからな。ああ、触るな。治りがおそくなるぞ」
帰り道、ふたり並んで土手を歩く。左手には夕日を反射した
「そうだ。お前はノビていたから知らぬだろうが、餅をもらったのだ。食え」
懐から取り出した笹の包みを開けると豆入りの白い餅が一玉残っている。
「兄者はいいのか?」
「俺はもう食べた。
灯火は餅をつまんで口に入れようと瞬間、確かな視線を感じた。土手の下のみすぼらしい長屋から男児がのぞき見ている。たしか父を病で無くし片親だったはずだ。
「灯火、あまり見せてやるな。ひもじさが増すだけだ」
視線を切って口にひょいと餅を放り込む。微かな塩味のあとから豆の優しい甘さが追いかけてくる。確かに餅に罪はない。これで夕餉までの一刻ほどは腹の虫に悩まされずにすみそうだ。
湖を切った冷たい風が、幸せな喉を通りすぎた。季節は春を少し過ぎた頃だ。これから徐々に暖かくなり、景色も食卓も賑わうだろう。この時のふたりはまだ、なんの不安とも、なんの心配とも無縁だった。
※
「あら!まあまあまあ!どうしましょう」
屋敷裏手の通用門を跨ぐと、ちょうど厨(台所)から姉の"たつ"が野菜を入れた籠を手に出てきたところだった。たつはその場に籠を置き去りにして
「どうなさったんです?喧嘩ですか!?」
しまった。灯火の袴は倒れた拍子に汚れてしまっていたのだ。
「すみませぬ姉上。転んで汚してしまいました」
「それはよしとしてこのたんこぶ! 喧嘩をしたのですね!?」
慌てて
「姉上違います、僕らは
「ほらやっぱり喧嘩ではないですか! ほのちゃんはまだ身体がちいさいのですから無理をしてはいけませんよ? 晴さんも、ちゃんと見ていてくださらねば」
矢継ぎ早にまくし立てているこの歳の離れた姉は、
「夕餉までには汚れた衣は着替えてくださいね。それと、父上にことの次第をお伝えするように!」
その夕、屋敷の広間には七つの膳が向かい合わせに整然と並べられていた。長い庇の先端から今日最後の陽の光が消えようとし、代わりに灯された火皿が室内に影を作っていた。
「はーっはっは!それで武芸の苦手な灯火がたんこぶをこさえてきたのか。頼もしいではないか」
「笑いごとではすまされませぬ。
年齢にそぐわない豪快な笑いを響かせるのはこの家の当主、
「まあまあ。子らが腕を競って高め合うのは良きことよ。"
この
「ともあれ洲羽の地が領主様のもと平らになるためには、いつまでも上社下社と言っているわけにもいかん。童のうちから交流が増えるは望ましいことよ」
「お父上!交流と申されますがなぜ木刀で打ち合う必要がございましょう。ほのちゃんがケガでもしたらどうするのです!」
"たつ"が割って入る。
「そんなこと言ったってなあ・・。ああ、そういえば佳直はどうした飯を食わんのか」
「兄上は
「・・むう」
困り果てた顔の佳政に、"きぬ"は膝を向けて居住まいを正す。
「旦那様」
「・・ど、どうした?」
きぬは神妙な顔を崩さない。
「あの雪の降る晩。我ら、晴・灯火の3人を迎い入れていただいたそのご恩、片時も忘れたことはございません。我らの行いで"佐補"の名を、しいては下社を貶めることがあっては生きてゆくことはできませぬ。灯火にはきつく言ってきかせますれば、どうかご容赦を」
床に額をつける母の姿を瞠目してはじめて、灯火はとてつもなく大変な失敗をしてしまったのだと、心臓を揺らした。言い表せない感情が喉を塞ぎ、窒息させようとする。いてもたってもいられず夕餉も途中に立ち上がると、それを見上げた隣の晴がポロっと椀の
「灯火どうした?」
「・・・はばかり(トイレ)」
「これ!灯火!」
とぼとぼと縁に出て暗闇に向かって歩き出す。困惑する部屋の空気と、きぬの咎める声とが背中に張り付いて、灯火はそれらを引き剥がすように足の指先に力を入れた。結局その後、灯火が夕餉の席に戻ることはついになかった。
※
火皿から突き出た芯が赤く燃え、小さな空間を作っていた。暗闇を照らす人物になるようにと、"灯火"と名付けた父はもうこの世にはいない。思い出す度に
離れの土蔵は
思えば、読み書きを教えてくれたのも実父だった。父は都に縁があったせいか下級武士にしてはめずらしく読み書きができた。「これからの世は武士も読み書きができねばな」と教えてくれた。あの優しい眼差しを思い出す。
なぜ・・なぜ父は死なねばならなかった。
何度問うても答えはでない。母子だけで生活なぞできるわけがない。
源平の
ジジ…
誰かに呼ばれた気がして、ぼんやりと眠気まなこに火皿を見る。小さな
ジジジ…
…トスさ …さま
炎は次第に大きくなっていっているように感じた。視界のすべてが揺れて橙の光に染まり、歪んだ。そして瞬間放たれた強烈な白い光に土蔵全体がすっぽりと包み込まれていった。
「…トス様! ”フレイトス”様!」
「・・!? スハーーッ!」
植物紙に突っ伏した顔をあげて急激に覚醒した。胸いっぱいに空気を吸って周りを見渡す。
「ここは・・?」
「何をおっしゃっているのです!至急次のご命令を!野蛮な敵兵に右陣が押されていますぞ!」
奇妙な白い衣服を着た男に促され、当惑したまま天幕を出る。直上には燃えたぎる大きな太陽、目の前には大きく開けた草木ひとつない渓谷。頬には熱風が吹きすさび、
これは夢・・なのか?
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