2.犬島はるかと古洞息吹
はるかは試験中消しゴムを落としてしまい、しかし生来の人見知りである彼女はそのことを試験官に言えずにいた。折が悪いことに消しゴムのストックはゼロ。試験終了は刻一刻と迫っている。そんな彼女を救ったのが、息吹であった。
「先生、前の人が消しゴムを落としました」
そのたった一言に、彼女は救われた。試験終了後、はるかは長い逡巡の末、勇気を振り絞って後ろを振り向き、
「あ、あああああああ、ありがとうございますっ!」
そう言ってみたがしかし、件の彼女はそこにいなかった。
顔が真っ赤になる。なんか思ったよりやたらにでかい声になってしまったし、周りの視線が痛かった。この子は一体何を虚空に向かって言っているのだろう。頭がおかしいんじゃないか――そんなふうに思われたに違いない。
はるかはすぐさま顔を戻すと、そのまま机に突っ伏した。
ああ、やっぱり慣れないことはするものではない。こんなことなら消しゴムの1ダースでも持ってくればよかった。というか自分はこんなので高校生活をやっていけるのだろうか。なんで自分はいつもこうなのだろうか。間が悪いというか、どうしようもないというか――はるかが無限の反省のループに陥りかけたとき、それはやってきた。
「どういたしまして」
「へ?」
その声は前からかかってきた。
「ごめんね、向こうの友だちと話してた」
「はわわあああああああっ」
反射的に上げた顔の先には、綺麗な女の子が立っていた。日本人形めいた、すごく髪のきれいな、肌の白い女の子だ。
「ああああああっ、あろがとうござますっ」
「あろ?」
言いながら、彼女ははるかの机に消しゴムを置いた。
「ちゃんとストックも持ってないとだめだよ」
はるかの知る由もないことだが、このとき彼女――古洞息吹は消しゴムのストックが多い友人から消しゴムを借りて、その上で自分の消しゴムをはるかに貸すという几帳面と言うか真面目と言うか遠回りな真似をしていた。
「4月にちゃんと返してね……なんて、私が落ちたら意味ないけど」
息吹はいたずらっぽく笑って。
はるかはそれが冗談なのか本気なのか分からなくて、返せなくて。
しかしそれでも、犬島はるかはこの事件を契機に、必死に人見知りを直していった。
「ああああああっ、あのっ!」
直していった、はずだった。
入試から一年と少しが経ったある日――窓の外で桜が散る、二年四組の教室にて。
「これ、ありがとうございました!」
犬島はるかは、ようやく同じクラスになった古洞息吹に消しゴムを返そうとしていた。
「……え?」
そして、件の一年間渡したくても渡せなかった彼女はと言えば、目の前で呆気にとられていて。
「……消しゴム?」
「あ、えっと、これ、入試のときにっ……いや、その、覚えてるわけないですよねっ」
ていうか、何でこんなことしちゃったんだろう。
落ち着いて考えたらこんな些細な貸し借り、一年もあったら忘れてしまうのが当然ではないか。
「あ、あーっ!」
それでも息吹は、しばらく沈思黙考した後、手を叩いた。
「あーはいはい、なるほど、あのとき消しゴムを拾えなかった子か!」
「……」
「そう言えばそんな事もあったね! だから合同体育のときとかこっち見てたんだ! あれ消しゴム返そうと思ってたの!?」
「ばばばばば、バレてたっ!?」
思わず後ずさりする。
「思い出してきた。確か4月に返してねとか言ったわ! 4月は4月でも1年後の4月だったわけかあ!」
そこまで言って、彼女は心底愉快そうにクツクツと笑った。
「……」
顔が熱くて熱くて仕方がなかった。
ツボに入ったのか、息吹はいつまでも笑い続けて。
それでも、はるかは顔をうつむかせながらも、消え入りそうな声で言った。
「……古洞さんがいなかったら、私、緊張で全然出来なかったと思うから。……第一志望だったから。……だから、どうしても、返したくて」
そう言うと、息吹は笑うのをやめて、真剣な目で言った。
「……そっか。ごめんね、笑ったりして」
「いや、それは」
「ありがと、この消しゴム、お気に入りだったんだ。実は私も消しゴム一個しか持ってなくて、わざわざたくさん持ってる子に借りたんだよ」
「……え?」
今度は、はるかが呆気にとられる番だった。
「いやね、特に深い理由はないんだよ。ただ、困ってるみたいだったし、緊張してるみたいだったから」
息吹はぽりぽりと頭をかきながら、少し照れくさそうに続けた。
「だから、ありがとうね。一年もかけて、返してくれて」
そう言うと彼女は手のひらを消しゴムごと握って、はるかを見つめた。
「……こちらこそ、ありがとうございます。古洞さん」
「息吹」
「え?」
「息吹って呼んで」
「……ありがとうございます、息吹さん」
「どういたしまして、はるか」
かくして、犬島はるかと古洞息吹は、友だちになった。
『これから皆さんには殺し合いをしてもらいます』
それから6ヶ月後のある日。
犬島はるかは、いきなりそんなことを言われた。
修学旅行である。
修学旅行だったはずだ。
息吹と同じ班になれて嬉しくて仕方なかった修学旅行だったはずだ。
しかし、しかしである――
そうして彼女たちは、このひどく悪趣味なデスゲーム――一番好きな相手を殺さないと脱出できないゲームの、最初の犠牲者と成り果てた。
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