第55話 After the rain
──栞、栞、栞!
はっと目を覚ました。時々見る栞の夢。にっこりと微笑んだ栞が、くるりと向きを変えて行ってしまうんだ。何度も名前を呼んでも振り返ってくれなくて、いつもそこで目が覚める。
俺の心臓移植の手術は無事に成功したらしい。俺にはよくわからなかった。移植後は熱は出るし、体はだるくてたまらないし、傷痕は痛いし。
拒絶反応ってやつに苦しむ日々だった。
なんか蕁麻疹みたいなのも出て痒かったし、本当に元気になれるのかって不安でたまらなかった。
点滴や飲み薬で『免疫抑制治療』ってやつをしばらくは続けなければならなかった。治療を始めても暫くは足は浮腫むし、感染症に気を付けなくてはならなくて本当に大変だった。
まだ当分の間は薬を飲み続けていかないといけないらしい。
だけど人間の体って本当に不思議で、少しずつ症状が落ち着いてきているのがわかる。リハビリも出来るようになったし、何てったって食事が少しずつ美味しく感じるようになってきたのだ。もちろん塩分控えめの減塩食なんだけど、俺にとっては楽しみのひとつになってきている。
「おっ、随分顔色が良くなりましたね」
って戸部田先生も嬉しそうに笑ってくれる。
「おかげさまで」
って、俺は笑って見せるのだ。
心臓移植をしてから、何だか少しだけ不思議な感じがしている。写真を撮るのは楽しかったけど、栞と一緒だからだと思っていた。
でも今は無性に写真を撮りたくて仕方がないのだ。
この前は母ちゃんに頼んで、家からカメラを持ってきて貰った。随分と埃を被っていたけれど、少しずつ手入れをしてピカピカに磨いた。
「カメラ好きなの?」
戸部田先生は俺の胸の音を聞きながら質問をしてくる。
「何だか無性に写真が撮りたくて」
「趣味とか味覚とか変わる人もいるらしいからね、医学的には証明されてはいないけど。心臓を移植するって事が奇跡みたいなもんだからねー、あり得る話だと思うんだよねー」
って、戸部田先生も言ってたな。
「一ケ瀬さん、だいぶ落ち着いてきたようだから通院治療に切り替えましょうか!」
「ほんとに?」
「良かったですね!」
と菊池さんも喜んでくれた。
俺は急いで母ちゃんに電話をかけた。
「退院! 退院できるんだよ!」
一番最初に伝えたかったのは、栞だったんだけど。
あれから一度も連絡は来ないままだった。
凪が一度電話をかけたらしいんだけど、
『おかけになった電話番号は……』
とアナウンスが流れたそうだ。凪が泣いて大変だったと広輝が話をしてくれた。
俺は新たな一歩を踏み出さなくてはならないなって、それを聞いて決心をした。
大切な『命のバトン』のお礼に、俺の宝物に感謝の気持ちを添えて届けて貰った。
(もうダメかもしれない)と思っていた俺が社会復帰出来るようになったのだから。
母ちゃんと行った病院の帰り道、ふと思い立って懐かしい場所に寄り道をして貰った。
『風花救命救急センター』
もしかしたら……なんて思いもなくはなかったけど。とにかく、本郷先生の姿を探した。
「あらっ、一ケ瀬君?」
以前よりもふっくらとした三輪さんだった。
「お久しぶりです!」
「良かったねー、連絡は病院から貰ってたのよ! あらー、本当に良かった!」
「おかげさまで、ありがとうございます」
って、母ちゃんは泣きそうになってるし。
「本郷先生ね、もういらっしゃるはずよ、顔見せてあげて、喜ぶよー」
って、なぜか涙ぐんで笑った。
「イケメン君!」
姿を見せてくれた本郷先生は、少し白髪が増えていて無精髭も伸びていた。毎日忙しくて大変なのだろう。
「元気になったんだよな、一ケ瀬君は!」
一ケ瀬君は?……と思った時だった。
「中川の事は残念でならない、悔しいよな」
本郷先生が……泣いた。
俺の目の前で、ぽろりと涙を溢して泣いた。
「本郷先生? どうしたんですか? 栞?」
「えっ? 一ケ瀬君、もしかして、し、知らないのかい?」
何が何だかさっぱりわからなかった。
信じられなかった、信じたくなかった。
「嘘だー!!!!!」
と周りを気にする事も出来ずに俺は泣いた。
本郷先生が俺の背中をぎゅっと力を入れて握ってくれて、母ちゃんは一緒に涙を流してくれた。
柔らかなオレンジ色の光が窓の外から差し込んで俺の足元まで届いていた。
しばらくして、本郷先生が住所と電話番号を書いた紙を俺にくれた。
「ご両親には言ってあるから、」
そこには札幌の住所が書かれていた。
栞の実家は大きな平屋の一軒家だった。自然がとっても豊かで空気が澄んでいる。
栞はこんなに素敵な街で育ったんだな。
「お邪魔します、」
「遠くからありがとぉねぇー」
とお母さんが優しく迎え入れてくれた。
「栞は男を見る目があったんだな、」
と、お父さんは背中を丸めてぽつりと呟いた。
「どうぞ」
お母さんが手を伸ばした先には栞がいた。
黒い額縁に飾られた笑顔の写真。
──俺が撮った写真だった。ヘアードネーションをして短くなった髪の毛が可愛くて、恥ずかしそうに微笑んでいる栞。
「トラックに引かれそうになったお婆さんを押して、自分が跳ねられたんだ……って、ぅう、う"う"う"う"……」
「ホントに最期まで……」
栞のご両親は涙を溢しながら、言葉少なく語ってくれる。
……俺は言葉を探した。まだ信じられなくて、栞はどこかで元気にしていると信じたかった。
「お線香、いいですか?」
「お願いします、」
俺はお線香を手にとってロウソクで火をつけた。お線香の炎をしゅっと消すと白く細い煙が昇っていく。
──チーン……。
手を合わせると涙が溢れてきた。
「ごめん、ごめんな、栞。俺は何にも知らなくて。ごめんな、辛かったよなー、痛かったよなー、怖かったよな……なのに俺は何にも知らなくて……本当にごめんなさい……。栞、栞が何も言わないで消えちゃうなんて思わなくて……俺は、俺は、本当に何も知らなくて、ごめんな、ご、め、ん……」
薄いレースのカーテンが、柔らかな夕陽に照らされて金色に光って見えた。その光は優しく栞の写真を照らしている。
しばらくは鼻を啜る音だけが聞こえていた。
「どうぞ」
栞のお母さんがお茶を入れてくれた。
俺は一口飲んだ。温かくて、少ししょっぱかった。
涙がまだ止まっていないのだろう。
「それで、栞が助けたお婆さんは?」
「転けた時に肘を骨折して、膝も痛めたようだけんど、今は退院してリハビリに通うちょるんだど。泣きながら家族の方が謝りよったけど……そんなんでねぇし。……許せんとは言えんよのぉ」
「栞は最期まで看護師やったのよぉ、立派な看護師やったのよぉ、ねぇ、お父さん、」
「ほじゃのぉ」
改めて仏壇のところに行ってみる。栞の好きそうなお花とお菓子がお供えしてあった。
そして、俺は息を飲んだ。
──!!!!!
栞の免許証と保険証が置いてあるのだ。
「えっ?」
「あぁ、栞のね!」
「臓器提供意思表示とかなんとかってぇ、」
「臓器提供で、すか?」
「随分前にこっちに帰って来た時になぁ、これ、丸してあるから何かあったら承諾してね! って約束させられててよぉ」
俺の手が小さく震えるのを必死で握って隠した。
「だから、栞は今も誰かの中で生きてるんだぁ、どこの誰に姿を変えているのかはわからんがなぁ、この空の下にいんだわなぁ」
もう一度仏壇の前に座りなおしてみる。
いくつかの封筒と葉書が重ねて置いてあった。
「お礼のお手紙よ」
栞のお母さんが涙を堪えながら教えてくれた。
その夜は栞の家に泊めて貰った。栞が使っていた部屋で泣きながら眠った。
外はどしゃ降りの雨が降っている。
まるで俺の泣き声を隠してくれるように、ザァ───────と降り続き、バチバチと窓を鳴らした。
「どうもありがとうございました」
俺は深く頭を下げて栞のご両親にお礼を言った。
「颯真君、栞の分もしっかり生きるんだど」
「はいっ!」
そう言ってお別れをした。
昨日のどしゃ降りの雨は止んで、キラキラとした雨上がりの空は眩しかった。
『
昔、栞が話をしてくれた記憶を思い返しながら、川沿いのルートを歩いていく。
ゆっくりゆっくりと、一歩一歩、前に進んでいく。
空は澄んだ綺麗な水色で、白い雲が気持ち良さそうに流れている。
広い空から吹いてくる風が木々の隙間を通り抜けていく。木漏れ日の中にきらりと光るものがあった。
「あっ!」
白くて可愛い花だった。
俺はこの花の名前を知っている。
『
雨上がりの空から降り注ぐ太陽の光に照らされてきらりと眩しかった。白い花びらは雨に濡れて透きとおり、小さな雨の雫に飾られている。
本当にシンデレラのガラスの靴のようだった。
優しい風が吹いて、
「栞、これが雨上がりの
俺はファインダーを覗いてシャッターを切った。
──カシャッ……カシャッ……。
栞、俺は生きるよ、ちゃんと生きる!
栞の実家で見つけたお礼の手紙の中に、一枚だけ葉書があった。
見覚えのある『薄紫色に染まった雲が広がる空』を葉書に印刷したものだった。
『ご家族から大切なものを頂いてとても感謝しています。言葉では伝えきれない気持ちが溢れています。なので、一番大切にしているこの葉書に言葉を添えて感謝を伝えます。
ありがとうございます。ご家族の命のバトンを受け継いでしっかりと生きていきます。』
──カシャッ……カシャッ……。
── 了 ──
――After the rain―― 綴。 @HOO-MII
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