わたしと弟

あじさい

* * *

 大学2年生の弟が、夏休みに沖縄に行ってきたらしい。

 見てくれと言われたのでのぞいてみたインスタグラムに掲載けいさいされた写真の中の弟は、ハイビスカスがらのアロハに白い短パンをき、ビカビカ光る金色のサングラスをけ、自分がこの世の中心だと言わんばかりの尊大さで、無意味に両腕を広げて立っていた。

 背景にはきたないビーチと、青というより緑色ににごった海が広がっていて、空だけが白々しく晴れ渡っていた。



『インスタ見たけどナツどうした』

 わたしは末っ子の妹に問い合わせた。ナツは弟の呼び名だ。


 家事を始めて数十分後にスマホを見たら、返信があった。

『あれな』『はっちゃけてるよな引いた』

 妹は、わたしが見る限り一応は常識をわきまえた人間のはずだが、LINEでは妙に無骨な物言いをする。そして、なぜか句読点を打たない。

 おそらく、ナウいヤングの彼女にとって、LINEでのコミュニケーションはこのような様式のものであるのだろう。

 わたしだけ文字数を多くするのも居心地が悪いし、おそらく早さを重視する価値観に由来するのだろうから、わたしもなるべく彼女の流儀に合わせることにしている。


『大学デビューか』

『デビューしたのは高校や』



 ……そうだったのか。


 と思うと同時に、そうかもしれない、とも思った。



 わたしと弟は2つ離れている。

 わたしが中1のとき、弟は小5だったし、わたしが高3のときも、弟はまだ高1だった。

 中学時代、わたしは部活で水泳に打ち込んでいた。

 高校入学後は部活をやめて勉強に邁進まいしんし、学校に居残ったり自室に引きこもったりすることが増えた。

 そして大学への進学が決まった後は、家を出て一人暮らしを始めた。


 そういった経緯の必然的な帰結として、わたしは中学以降、弟や妹と遊ぶことが激減していた。

 つまり、わたしは弟が思春期を経てどのような「大人」になったのか、その経過をほとんど知らない。



 いや、もちろん、何も知らないわけではない。

 好きなアーティストは三代目J Soul Brothers、好きな芸能人はミスター・マリック、部活はバレー部でポジションはセッター。

 だが、それはしょせん弟が中学生の頃までの話だし、わたしは一度も弟の試合を見に行ったことがない(もっともそれはお互い様で、わたしが水泳部だったとき家族がわたしの大会を見に来たことはない)。


 高校ではワンダーフォーゲル部に入ったとは聞いたが、考えてみれば、「ワンダーフォーゲル」とはどういう意味の言葉なのか、わたしは知らない。

 ワンダーはワンダーランドの「wonder」のはずだが、「フォーゲル」とは何だろう。

 そもそも、本当に英語なのか。

 実はドイツ語だったりしないだろうか。


 ――そう思ってググってみたら、ドイツ語だった。

 つづりはWander Vogel。「渡り鳥」のことで、「山野を徒歩旅行し、自然の中で自主的生活を営みつつ、心身を鍛練し、語りあうことを目的とする青年活動。あるいはその仲間」を意味するらしい。

 山岳部や登山部が登山を目的とするのに対し、ワンダーフォーゲル部は自然を楽しむ部活、とのことだ。



 とにもかくにも重要なことは、どうやらわたしが実感として持っている弟のイメージが、彼が小学生の時点で止まっているらしいということだ。

 わたしにとって弟がJ Soul Brothersにハマったのは最近の出来事であり、ミスター・マリックに驚嘆きょうたんしてTVに釘付けになるのは新しい傾向だった。

 率直そっちょくに言おう。

 わたしと妹と共におままごとにきょうじ、家族旅行の和歌山で――たぶん私が小5で弟は小3だったと思うが――チーターの大きなぬいぐるみを買ってもらった弟こそが、わたしが愛した弟であり、わたしの弟であるところの彼なのだ。

 間違っても、夏の沖縄で金色のサングラスを掛け、自撮り写真を全世界に発信するようなパリピではない。


 そのはずだったのに。



 11月になって、わたしが暮らす東京に、弟がやってきた。

 昼に美術館を巡り、夜はライブハウスを見に行きたいらしい。


 何だ、それ?

 と思ったが、ともかく、東京駅の丸の内中央口で待ち合わせた。


 改札口から颯爽さっそうと出てきてわたしに手を振った青年は、サングラスこそ掛けていなかったが、文字通り頭のてっぺんからくつに至るまでバリバリにおしゃれな格好をしており、持参したバッグも妙にコンパクトでクールだった。

 当然と言えば当然かもしれないが、夏の沖縄でこそ出来る服装と、冬の東京にふさわしい格好を、きちんと使い分けている。

 ただ、残念なことに、わたしはファッションやオシャレにうとく、彼のコートやタートルネックやズボンがどうしてここまでハイカラに感じられるのか、その理屈を説明することができない。


 それに、わたしは彼の服装よりむしろ、身長の方に驚かされた。

 別にチビを想像していたわけではないが、わたしよりも背が高く、手足の長い彼を目の当たりにしてみると、何となく、わたしという存在がみすぼらしいもののように思えて、みじめさとも恥ずかしさともつかない劣等感を覚えた。


「よっ、久しぶり」

 彼が言う。いかにも軽いノリだった。エネルギーにあふれ、時としてそれを持て余す、遊び人な大学生のノリだ。

「元気そうじゃん」


「うん、とりあえず元気だね」

 と返しながら、わたしは思った。

『今からこの人に、東京を案内して回るのか……』



 結局、彼はわたしの案内などなしに、まるで自分の庭かのように東京を歩き回った。

 何なら、わたしの方が案内される側だった。


 道中、彼は自分の大学で秋に行われた学園祭の話をした。

 わたしは彼自身に興味があるというよりも、情報収集のために、なるべく聞き役に徹した。

 彼の話しぶりはずっとどこか自慢げで、聞けば聞くほど、わたしが知っている弟とはていなかった。


 今の彼も、悪いやつじゃない。

 何をするにもスマートだし、トークはユーモアに富んでいるし、さり気なくこちらを気遣ってもくれる。

 だけど、わたしが彼を弟として好きになるためには、今から改めて知っていく必要がある。



 この世は因果応報だ。

 今の状況が地獄とは言わないが、その地獄にしたところで、作るのは神様ではなく人間自身だ。

 わたしが彼の変化に戸惑とまどってしまうのは、弟が急に成長したせいではなく、わたしが彼を知る努力を怠ってきたせいだ。

 過去の自分がまねいた結果であるからには、今の自分が引き受けねばならない。


 わたしは自分にそう言い聞かせた。

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わたしと弟 あじさい @shepherdtaro

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