ぬいぐるみの先生

佐倉ソラヲ

「ぬいぐるみの先生」

 その里に暮らしているおじいさんは、ぬいぐるみの先生だった。

 どんなにボロボロになってしまったぬいぐるみでも、魔法のように修理できると噂の「先生」だった。

 だけど先生は少し気難しそうな顔をしている。

 直してほしいぬいぐるみを持って来たお客さんに対しても、どこか冷たい態度で対応する。

 子どもたちは怖がって誰も先生に近付きたがらないし、それに何やら、先生は子供の頃から問題を抱えていたそうだ。

 今日も朝が来る。

 陽が上ると、先生は起き上がって仕事の準備を始めるのだ。

「……今日は予約が二件入っていたな」

 壁に貼った今日のスケジュールを見上げながらおじいさんは呟く。

 髪は白髪で、顎に髭を生やしたおじいさんは、皺の寄った手で白い髪を撫でつける。

 年老いたおじいさんは、だけども背筋はしゃんと伸ばしていた。

 いつものように手早く朝の準備をする。毎朝のように朝食のパンを用意してたった一人の食卓に着いた。朝食をしっかり食べねば、仕事はできない。

 そうこうしているうちに一時間が経ち、今日の業務が始まろうとしていた。

からんからん、とドアの鈴が来客を知らせた。

「お邪魔します」

 女の声に、おじいさんは顔を上げた。

 綺麗な黒い髪に、白のブラウスとベージュのロングスカートの女性は、おじいさんの目にも覚えがあった。

「予約していた者です」

 紙袋を提げた女が目を細めておじいさんに言った。

「あぁ、アンタか」

 短く言うと、おじいさんは女が差し出した紙袋を受け取った。

 彼女は親戚で、何度かおじいさんにぬいぐるみの修理を依頼していた。

 ――と、その背後に小さな人影がいることに気が付いた。

「あ、娘です。今日は初めて連れてきました」

 ほほ笑む女の影から、おずおずと小さな少女が顔をだす。

 母親譲りの黒い前髪の隙間から、少女の大きな瞳がおじいさんに向く。

「ほら、挨拶して」

 優しい声で母親に言われるが、恥ずかしいのか、はたまた初対面のおじいさんが怖いのか、少女は母親の背後に隠れたままだった。

「ごめんなさい、この子ちょっと緊張してるみたいで……」

「構わんよ。――俺は作業に入る。また後日、取りに来い」

 ぶっきらぼうに言うおじいさんに頭を下げて、母親は娘を連れて小屋を出て行った。


 おじいさんは、紙袋の中身をテーブルの上に取り出した。

 白い猫のぬいぐるみだった。

 かつては白雪のように純白だったのだろう毛並みと、満月のように綺麗な黄金の猫目。首元にかざされた鈴と首輪が特徴的な猫のぬいぐるみが、おじいさんの目を見つめていた。

「……今回はアンタか」

 埃で黒ずんでしまった猫は、その耳としっぽが大きくほつれてしまっている。

『えぇ、お久しぶりですね、先生』

 猫のぬいぐるみがそう言って笑った。

 ――いや、実際には笑ってなどいないし喋ってもないが、おじいさんにはそう見えたし、そう聞こえた。

『ここに来るのは何年ぶりでしょうか。またこうしてあなたの手でもらえるだなんて、嬉しく思います』

 動かない顔で微笑みながら、猫はおじいさんにそう言った。


 おじいさんは子供の頃から、ぬいぐるみの声が聞こえていた。

 時々笑ったり泣いたりしているのを、子供の頃のおじいさんは感じ取れた。

 子供の頃からそれが当たり前なのだとおじいさんは思っていた。

 だけど周りの人の反応を見るに、どうやら本当はそうではないらしいのだと次第に気付いて行った。

 ぬいぐるみたちとはいろんなことを話した。好きな食べ物の話だとか、好きな遊びの話だとか。

 だけど、それがおかしなことだとおじいさんは子供ながらに気付いていた。

 だから、自分はぬいぐるみたちから離れようと思った。

 でも、それはうまくできなかった。

 おじいさんは人間が嫌いだった。

 嘘を吐くし、意地悪だし、ぬいぐるみたちと会話する自分のことを気味悪く思うからだ。

 それでも何とかして、おじいさんは「普通の人間」になろうとした。

 ――そんなある日、おじいさんは一人のぬいぐるみと出会った。

 いとこの家に遊びに行ったとき、その部屋にはたくさんのぬいぐるみたちがいた。

 彼らは、その持ち主にたくさん愛されていた。

 おきゃくさんだ、ぼくたちの持ち主さんのおともだちかな。

 ぬいぐるみたちの無邪気な声が、おじいさんの耳に届いた。

 ――なんて幸せそうなんだろう。

 になろう、と決意したのに、おじいさんは彼らの幸せそうな声に心を奪われていた。

『あら、初めてくるお客さんかしら?』

 不意に――おじいさんはその声に魅了された。

『こんにちは。お客さん』

 白い猫のぬいぐるみ。

 少年の頃のおじいさんは――初めて一目惚れをした。


 それから、おじいさんはぬいぐるみと話すのをやめなかった。

 成長するにしたがって、少しずつわかってきたこともあった。

 ぬいぐるみたちは、持ち主の「愛」を貰って成長していた。

 愛されれば愛されるほど、彼らは幸せになって、優しくなれる。

 ぬいぐるみの存在する理由はなのだから当然のことだった。

 愛を注ぐことに理由がない。それが、人間との大きな違いだった。

 人間は利己的だ。自分の利益のために他人を選り好みする。

 様々な駆け引きの中で人間たちは生きていた。

 若い頃のおじいさんは、そうやって生きるのが苦手だった。

 好きなものは好きでありたい。そこに理由なんてない。

 ぬいぐるみは愛されるための存在だ。だけど、ぬいぐるみは形あるもの。形あるものはいずれ壊れてしまう。

 持ち主が深い愛を注いでいようと、壊れてしまってそれ以上愛することができなくなる。

 おじいさんはそれが我慢ならなかった。

 ――彼らは、もっと長く持ち主と一緒にいられるはずなんだ。

 ボロボロになってゴミ捨て場に捨てられたぬいぐるみを見下ろしながら、おじいさんは一つの決心をする。

 それが、「ぬいぐるみの先生」になることだった。


 汚れてしまった体を綺麗にするために、まずはパーツごとに分解しなくてはならない。

 その作業に取り掛かろうと道具を取り出そうとして――扉の鈴が鳴った。

 振り返ると、そこにはさっきの少女がいた。黒い髪に半分隠れた大きな瞳がおじいさんを見上げている。

「……どうした」

 おじいさんの低い声に、少女はびくっと肩を震わせた。

 ――少女の両手には、うさぎのぬいぐるみが握られていた。

「おはなの……キーホルダー……」

 消え入りそうな声で少女が言った。

「花のキーホルダー?」

 首を捻ると――おじいさんの手元から声がした。

『きっと彼女の忘れ物です。いつも大事に鞄につけてるんですよ』

「……そうか、なるほど。それなら扉の近くに――――」

 と続けて、おじいさんははっ、と口を押えた。

 まずい。との会話を聞かれてしまった。

 おじいさんは、思わず少女の方を見た。――が、少女はというと、きょとん、とした顔でこちらを見上げているだけだった。

 ――よかった。との会話には気付かれていないようだ。

 ところで、彼女はたった一人だった。

 おじいさんは気になって、彼女に目線を合わせるようにしゃがんだ。

「アンタ、母親はどうした?」

 突然聞かれた少女は、思わずビクッと肩を震わせた。

 驚かせてしまったか、とおじいさんが彼女を宥めようとしたとき。


『この子から離れろ!!!!』


 そんな怒鳴り声が聞こえた。

 声の主は、少女が持っているうさぎのぬいぐるみだった。

 持ち主の少女を守るために声を張っているが、その声は震えていた。

「……」

 彼女だけじゃない。このぬいぐるみも怖がらせてしまったようだ。

「……怯えさせてしまってすまない。だけど、君のような子供がこんなところに一人でいるのは危ない」

 人気のない場所なのだ。何が起こるかわからない、そんな場所に子供一人だけだなんて、危険すぎる。

「お、……お母さんが、おじちゃんにちゃんとあいさつしなさいって……だから、おじちゃんのところに、来て……」

「……」

 忘れ物を取りに来たついでに、ちゃんと挨拶をしようと思ったのだろう。

 途切れ途切れになりながらも、少女は言葉を紡いだ。

「……そうか。ちゃんとお話しできて偉いぞ」

 優しい言葉に、少女は顔を上げた。――少しばかり、彼女が抱えるうさぎもまた安堵を浮かべているような気がした。

「……お嬢ちゃん、そのうさぎのぬいぐるみは、大切か?」

「う、うん……大切なものなの」

 ぎゅっ、とうさぎを抱きしめながら言った。

「でも……大事だから、汚したくないの」

「そうか。だけど、ぬいぐるみの汚れも傷みも、それは全て持ち主と一緒に歩んだ時間の証なんだ。その汚れも、大事にしてほしい。どうしても気になるなら俺が綺麗にしてやろう」

 何の話をしているのか、少女にはあまりよくわかっていなかったのだろう。目を見開いたまま、少女は首を傾げていた。


 少女は、忘れ物のキーホルダーを見つけて母親の待つ車へと戻って行った。

 扉を開けて、おじいさんはその背中を見送った。

『ふふっ、お優しいのですね』

「俺は人間に対して優しくなんかない」

 猫の言葉に対し、おじいさんはそれだけ返した。

『そうですね。あなたは人間が嫌いで、自分もぬいぐるみになってしまいたいと思っていますものね。――でも、私は知っていますよ。あなたも、本当は誰かに優しくされたいってこと』

「……誰にも優しくできない俺には、もう無理な話だ」

 愛されたいなら誰を愛せ。

 優しくされたいなら誰かに優しくしろ。

 そんな簡単なことに、おじいさんはずっと気付けないでいた。

 それに気付いたころには、全て遅かった。

 気が付くと人々はおじいさんの心から離れていて、おじいさんもすでに、人々に歩み寄るには距離が離れすぎていた。

 だから、一人で生きていこうと決心したのだ。

 それでも――おじいさんは願わずにはいられなかった。

 ――もし、人生をやり直せるのなら、ぬいぐるみ以外の者にも優しくできた人生を送りたい。

 自分以外の人間には、自分と同じ末路を辿ってほしくない。

 人間嫌いの「ぬいぐるみの先生」は、そう願わずにはいられなかった。

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ぬいぐるみの先生 佐倉ソラヲ @sakura_kombu

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