番外

うばったよるにあたえたもの



 伸びやかな手足は未成熟な子供の柔らかさで、キラキラと輝く髪はさしずめ黄金の絹糸、翠の瞳は萌える若葉の瑞々しさを思わせ、豊かな水で磨かれた肌は象牙のように淡く眩しい。

 カリムが欲し、奪ってきた宝は、美しい子供の形をしていた。

 誰もが驚いた。兄弟の中で一番価値のある宝を盗んできたヤツを長に据える。――その「価値ある宝」として人間を攫って来るなんて、一人として想像もしなかったから。

 そして、誰もが息を呑む美しさと高潔さを纏うその少年は、野蛮と称されてもおかしくない砂漠の民が平伏したくなるほどの圧倒。


「親父殿。この人こそが俺の至宝。誰にもくれてやらない、誰にも奪わせない、アンタに認めて頂けなくても良い、俺だけの愛しい伴侶。この砂漠の大陸随一のオアシスと運河を所有するピセヌ王国において、最も貴やかなる秘められし尊身――王であらせられたお方だ」


 病身をおして上半身だけ起き上がって息を整えながらも、七番目の候補者を見据えた父長は弱っていても貫禄は衰えない。けれど跪き帰還の挨拶を述べた後に告げられた息子の静かな口上――宝という名の獲物に、さしもの彼も目を見張り、周囲はざわっ、とどよめいた。

 ピセヌ王国には代々、水を守ると伝えられる王が存在する。「王国」なのだから王が居て当然なのだが、その存在はあやふやで、真偽のほども定かではない。

 当代の王が産まれたとされる日、大雨が降っていた。三日三晩続いた雨はオアシスを潤し砂漠にも恵の水を齎した。よって「慈雨の王」と呼び慕われている事くらいは、耳に入ってきている。

 眉唾ものの存在を盗んで帰ってきた息子にグッタリ支えられている美しい子供は、身に付けているものも漂う気品からも、明らかに育ちが違うという意味では確かに説得力だけはある。どう見ても少年だし、王だと言われても信憑性には欠けるが。


「……それは真実なのか」

「信じて頂かなくても結構。俺はもとより、次期長の座に固執してはいなかった。俺がなった方がマシだと思っていたまで。けれど今は違う。長になれずとも、この宝を生涯手元に置いて大切に愛でる事を考えただけで、俺はこの先充分に満たされる」


 淡々とした口調のくせに、眼も声も熱を帯びて表情は揺るぎない。本気なのだと、たったそれだけのセリフで伺えてしまうほどの真剣さ。

 腰を抱かれたまま長の前まで連れ行かれ、カリムが恭しく座布団を用意して座らせた自分達とは違う色彩を持つ子供の肩が、その言葉に小さく震えた。己より背の低い少年の熱烈な執心に、脅えているのかもしれない。

 竜に乗って攫われてきた子供は、上空の風がよほど強かったのか、衣服がやけに乱れていた。それを竜から降ろした時、初めて気付いたらしいカリムは咄嗟に直して、寒い砂漠の夜にはあまりにも心許ない布地の彼を懸念して、自分の分厚い上着を羽織らせた。

 色鮮やかな刺繍と織りで構成された分厚い毛織物は、冷たい夜風を遮断してくれる。上質だがシンプルな衣服の上に濃やかな刺繍を施した毛織物は、アンバランスだが不思議と調和が取れていた。

 多分、元の素材として身に付けた子供の美しさが、多少の瑕すら誤魔化してしまうほど抜きん出ているからだろう。


「王であるならば、証を」


 長はジッと金髪の子供を見据える。睨みはしないが、嘘は許さないという厳しい眼差しがカリムの宝を射抜く。


「そうだ!」

「証拠はあるのか、その子供が本当にピセヌの王だという証拠が!」

「その辺の貴族のガキかもしれないだろ」


 それぞれ、「一番素晴らしい」と信じて盗んできた宝が霞むほどの存在感と希少価値をトップクラスで併せ持つ宝を持って帰ってきた弟に危機感を覚え、父長の言葉に便乗して証拠を求める。


「王たる証拠などない。俺は別に、ピセヌの王が欲しかった訳じゃない。この人だからこそ手に入れたまで」


 カリムは兄姉の攻撃的な視線から守るように、横に座らせた宝の前に腕を伸ばした。褐色の肌によく映える、指に巻かれた包帯の白には生々しい紅が滲む。

 その指の傷は、子供が負わせたもの。必死の抵抗だったのに、それでもきっと、彼にとってはぬるかった。今こうして彼に連れられてここに居る事こそが、揺るぎない結果。

 己を庇う、まだ若い少年の腕から指先を眼前に見た子供は、今までどこか折られた矜持に疲れと諦念を含んだ表情でひたすら大人しくしていたのだが、切り揃えられた前髪の奥、沈んだ眼差しを上げる。


「証拠なら、ない事もない」


 変声期を迎える前の少年らしい高い声だが、掠れ気味でザラリとしているのが残念だ。きっと歌えば極上の澄んだ声音を響かせるに違いない。

 どうして声が嗄れているのか謎だが、多分この乾き切った空気と砂塵にやられたのだろう、と長は軽く見当付けた。

 パチン、と胸元のボタンを外し始める。黄金を紡いで糸にしたような短い髪から覗く首やらうなじがほっそりとしていて、薄い肉に華奢な鎖骨が露わになる。

 ――シャラリ、

 首飾りだろうか、細い銀の鎖を胸元から手繰り寄せ、少年はその先にぶら下がった円いものを掲げた。


「王の印。……と呼べるかどうかは判らない。でも、これは代々王に託される」


 コインのようなメダルのようなそれを、彼は見ている者が判断に困るくらい複雑な感情が絡み合った表情で長の前まで歩み寄ると、そっと差し出す。皺だらけになった男の手は、それでもかつて荒くれた者らしく、ゴツゴツと肉厚だ。カリムの宝である少年の繊手とは似ても似つかぬ。

 その場に留まれば良いのに、わざわざ踵を返してカリムの隣に戻る王。

 目まぐるしい展開に疲れ切っているのか、竜の背から降ろされた時はカリムが支えてやらねば頽れそうなほど弱り切っていた様子だったのに、今はやせ我慢か表情を引き締め、一人で立って歩いている。その背中は怖いくらいにピンと張り詰め、少年にあるまじき孤独と威厳を醸し出していた。


「…これは……!」


 老いて濁り始めた双眸がカッと見開かれる。

 盗賊の長をやっている彼は、宝飾や歴史にも詳しい。ピセヌの王に代々受け継がれる「鍵」の事も知っていた。

 鍵とは、王が眠る室への鍵である。王しか入る事の許されぬ鍵。純銀の円に刻まれた魔法陣は、その上から美しい国花を刻み、二重構造の魔法を仕掛けてあるという。


「……、」


 彼の横に居るカリムは、その「王が眠る室」が王宮のどこにあるのかを知っている。思い出すだけで王であったこの人への扱いがあまりにも酷くて、冷たくて、怒りに腹の底から怒りが蠢く。それを唇を引き締めてやり過ごす。

 長は病身に鞭打って、よろよろと寝台から降りた。慌てて立ち上がり支えようとする子供達や嫁を手で制し、少年王の前まで歩み寄る。

 カリムは跪いた姿勢のまま警戒した。父であろうとこの人を傷付けようとするならば容赦はしない。例え病に侵された身であってもだ。例外などない。この美しい人は俺の宝。


「…貴き御身を疑心に晒した事、深くお詫び申し上げる……」


 しかし、長は深々と礼節を取った。白魚の如き手に、銀のそれを丁寧に返す。

 その仕草だけで、カリムが欲して盗んできた宝が本物の王だと認めた事を示していた。

 当然である。何せ認めるに値する確かな証拠を、少年は見せるのではなく手ずから渡した。

 その心根こそが、水清き豊かな大国の王らしいおおらかさと慈愛、そしてお飾りとして扱われてきた事が判る無防備さと憐れさを長に見せた。表舞台に出る事のない、隠されし富の象徴。ピセヌの王たる資質。


「カリム」

「…はい」

「お前が、次代の長だ。ワシすら平伏すこの至宝、いつまで手元に置いておけるものか、賭けたくもなるが」


 一言多いのは病床の身にあっても変わらないらしい。カリムは内心で舌打ちしつつ父親に頭を下げた。


「――して、王よ」

「お言葉だが、狼の長。僕はもう、王ではないらしい」


 少年はカリムの父に自嘲じみた笑みをこぼす。何かを捨て、何かを諦め、何かを決めた表情で。


「彼に、奪われてしまった。今の僕は、ただの宝で……妻、という事らしいから」


 その声には屈辱と諦念が滲む。故国への未練を感じさせる声音に混じる僅かな情が、美し過ぎて現実味が薄いくらいの彼に人間味を足す。

 奪われてしまった、という言葉には、哀切のみならず密やかな艶が含まれていて、僅かなそれに気付ける者はこの場に殆ど居なかったが、その言葉にどうしてか背徳的なものを感じ取ってしまった鋭敏な者は何故だか急に落ち着かなくなり、流水を刻んで創ったような子供から決まり悪そうに眼を逸らす。

 けれど事実、大国の綺麗な王は今宵、野卑な盗賊の子供に高潔な身を奪われてしまったのだ。お互いにまだ未熟と呼べる肢体で、一方は貪り、一方は貪られ。


「妻。しかし王…否、貴方様はカリムの妻にはなれんだろう。カリムはどうやら貴方様に執心しておられるようだが、いくら愛していても、子が産めぬ者を正妻に据える事は流石にワシも許す訳には、」

「親父殿。この人は王だが、女でもある。俺が暴き、隅々までこの眼とこの手で確かめた。間違いなく子を孕み、産める性を持っている」

「……ッ、」


 瞬間、王だった娘の表情が変化した。

 人前で自身が凌辱された事実を暴露された事に、王として培った矜持が折られた事に、ましろな肌を染め、羞恥と憤怒と悲哀がない交ぜになった感情を隠し切れず屈辱に打ち震える様は、見ていて気の毒なほどに痛ましく、そして劣情を誘うほどに色めき立つ。

 ただ綺麗なだけの清らかな美少年としか思えない子供が見せた悔し気な女の部分は、手折りたいと思わせるくらい艶やかで。ゴクリ、と誰かが小さく唾を呑み込む音を立てた。

 カリムはそれを研ぎ澄ました神経で捉え、その方向に殺気を飛ばす。


「何と。女とな?」

「えぇっ!? 嘘、この世にあるまじき美少年だと思ってたのに、女の子なの!?」

「マジかよ、綺麗だけど女っぽさなさ過ぎじゃね!? 嘘だろ女って」

「否まぁ、見たところまだカリムよりちょっと年上ってだけのガキだろ? あんま色気はなくても当然じゃねーの?」

「ビックリしたー。どこもかしこも綺麗だけど、女の子っぽくないから普通に男の子だと信じてたわよアタシ」

「私だってそうよ! 何て事なの、この美少年が女ですって…? 私は一体、この先美しい少年の何を信じたら良いの…?」

「オイお前、一応俺の嫁さんだろ。いつまでも美少年ばっか追い掛けてんじゃねーよ」

「うっさいわね! 私だって好きでアンタなんかの嫁になったんじゃないわよ! 無理やり攫ってきたくせに図々しい! もう諦めたけど! アンタの嫁だけど!」

「大体、カリムもカリムだわ! こんな場所でそんな事を明かすなんて! 女の子の気持ちも考えずに!」

「そうよそうよ! 私達だってあんな風に無理やり妻にされて辛かったのに、その子は当時の私達よりも若いじゃないの! それなのにカリムさんったら、純潔を散らしたなんて公言して!」


 そして長の幕舎内に居る身内の殆どは、明かされた秘密にまたもやざわめき立つ。ついでに一部、おかしな痴話喧嘩が勃発したが、いつもの事なのか皆スルーしていた。

 そして、かつて王と同じように攫われ凌辱され妻にされてきた女達は、隣に座らせておきながら衆人の中でサラリと口にするカリムの無神経さに憤りを感じ、喧々囂々と十二歳の少年に食って掛かる。

 中性的な子供が大国の王であったという事実だけでも驚きなのに、少年は少女であると知らされれば無理もなかった。まして、彼――否、彼女はカリムよりも背が高く、髪も短く、着ている衣服も上質だが明らかに男児用のデザインで、一人称だって「僕」。男だと思い込んでしまっても無理はない。

 その王を犯したと、七番目の子――カリムは言う。

 長から見て、カリムは勉学も武芸も秀でているものの、闘争心に欠け、優しく甘いところが抜けきらない息子だった。上に立つ者とは善人なだけでは駄目だ。多少は奸悪であった方が良い。特に自分達のようなアウトローな集団を束ねるならば尚の事。

 しかし人格的に優れ文武に秀でた息子だが、才能はあるものの賊の長としては優しく甘っちょろい。平たく言えば生ぬるい。こんな男が上に立っては我ら狼は弱体する。

 だからどんなに素晴らしい宝を持ち帰ってきたとしても、よほどの事がない限り、カリムを時期氏族長に据えるつもりはなかったのだが。

 狡猾になった。冷徹になった。カリムは長が望むだけの寛容さと同じくらいの悪辣さと冷酷さを身に付けて戻ってきた。――たった二年足らずの間に。

 年端もゆかぬガキの分際で、同じくらいの幼い女を凌辱した。しかも相手は一国の王ときた。捕まれば間違いなく死罪で処刑されるだろう。そのリスクを恐れるどころか、平然と手籠めにして連れ攫う。

 今までにはなかった豪胆さ。欲するものを手に入れる為なら躊躇わない果断さ。賊を束ねて上に立つだけの相応しい器量を身に付けた。

 カリムがそうなった原因は、それを身に付けた原因は、たった一人の女で。


「俺の胤は既に蒔かれた。この人の胎に芽吹くまで、俺は何度もこの人と契る。芽吹いた後も、この人だけを妻にする。俺はこの人を奪ったが、それよりも先に――囚われてしまった」


 普段は口数少ないカリムの、淡々としながらも隠さぬ情愛が迸る。熱を帯びた声、眼差しが、焦がれてやまない人を絡めとろうと。

 吐露された恋情の真摯さは微笑ましい半面、聞いている方が恥ずかしくなってくるくらいなのに、褐色の肌に黒い髪と眼を持つ自分達とは違って富を体現したかのような鮮やかで淡い色彩を持つ少女は、さっきは白皙を怒りに染め唇を噛み締めて堪えていたというのに、今や冷静さを取り戻したのか、肝心の熱烈な告白そのものは淡々と聞き流している。

 己の受けた酷い仕打ちに王として傷付きながらも、向けられた感情には女として理解に至らないのか、まるで他人事のように

 そのチグハグ感、子供らしからぬ諦めの良さは、きっと賢さからのもの。

 表舞台に出ない王として不幸な事に、この子供は飾りにしては聡明過ぎる。そして、何の思惑が働いたのかは知らないが性別を偽ってきただけに、この子供は女としては未熟過ぎる。


「…なるほど。本当に王を盗んだつもりではないんだな、お前は」

「さっきからそう言っている。俺は俺が一番価値を感じ一番欲しいと思ったものを盗んだだけだ。この人を攫って長になれなくても良いと思った。気に入らなければ今すぐ俺の事など棄ててくれ」

「そうはいくまい。これほどの獲物を盗った息子を放り出すなど、氏族長失格だ。――ワシはこれから、お前を死ぬ間際まで鍛えてやるぞ。朝も昼も夜も、全てを叩き込み、全てを教える。全てを学び、全てを覚えろ。無欲な顔して一番強欲なお前こそが、盗賊の頭に相応しい」


 ニヤリ、と長は笑う。子の中でカリムの獲物が殊更大物過ぎて、盗賊の性が死地へ向かいかけた老体に熱い血潮を注いだらしい。生きる活力を取り戻した彼は、暫くは元気を取り戻す事だろう。

 何よりも。生ぬるい優しさしか持たなかった七番目の子供が、たった一人に執着しただけで劇的に変わった。自分の知る昔のままの息子であれば、欲したからと言って性急に身体を暴き蹂躙する手荒で非道な手段は取らなかっただろう。

 文武に秀で上にも立てる器量を持つが、賊としては穏やかで詰めが甘く生ぬるい。そんなカリムが恋をしただけで、こうも変化を促したこの王――否、娘は貴重だ。高貴な血筋よりも恋一つで男を変えるその資質こそが、何よりも賊の妻に相応しい。


「――して、王…否、貴女様の事は、これからどうお呼びすれば宜しいかな?」

「僕は生まれた時から既に王だったので、名などありません」

「ない?」


 カリムはまたもや眉根を潜め、怒りを腹の内で飼い馴らす。名前がない。王なのに。否、王だからこそ、なのか。

 彼女に名前がないと初めて知った時、カリムは見付けてしまった王の室を思い出し、決意した。「この人を攫ってしまおう」と。

 欲望のままに身体を拓き、暴き立て、連れ攫ったのは、父親の命が残り少ないと危ぶんだせいもあるが、優先順位としてさっさと奪う事を上に持って来たせいでもある。何せ時間がなかった。早くしないと、自分より先に見知らぬ誰かが彼女を手に入れるかもしれないと思えば、まだ十二でしかない少年の事、理性より感情が先走ってしまったのも無理はない。

 それでも、若さ故の衝動だけで襲うほど、カリムは直情的ではない。恋をして自分でも驚くほどに熱烈だと冷静な部分で我が身の変化にビックリしているが、本当の目的は違う。

 不幸だと気付いていない彼女を手っ取り早く傷付けてやりたかった。そうして、負の感情というものを芽生えさせ、己が身を置く環境の異常さに気付いてほしかったし、彼女が初めて知る負の感情の矛先すらも、全て自分が起因でありたかった。

 遅かれ早かれ、カリムはこの人を攫っていただろう。この人を己が至宝と定めただろう。だからこそ、先に奪った。この人の全てを自分のものにしたかったから。この先きっと、精神的に辛い夫婦生活が待ち受けるだろうとは覚悟の上で。

 我ながら、何て過激で重い独占欲。


「飾りの王に、名など付けても無意味では? 僕は王として生まれ、王として生き、王として死ぬ運命にあった。彼が僕を奪った今、今後は王として生きる事も、王として死ぬ事も叶わないだろうけれど。名もない形だけの王であった僕に、得ても許されるものがあるのでしょうか」


 事実を事実として述べているような様子が、より一層無垢であり、憐憫を誘う。本人にはその自覚すらない。表舞台に出ない王に、「王」という呼び名以外のものなど不要だと。


「…カリム。お前がこのお方をお連れ攫ったのは、本当に愛だけが理由なのだな」

「何とでも。誰が何を言おうが、俺にとっては宝であるという事だけが曇りなき真実だ。それ以上でもそれ以下でもない。水を守るだの雨を呼ぶだの、そんな真実味の薄い理由で自分のものにするほど酔狂じゃない」

「雨を? それは素敵だわ。水を纏う貴きお方なのね」

「ねぇ、…じゃあ、名前は「ディマ」と名付けたらいかが? 確か当代のピセヌ王は、「慈雨の王」と呼ばれているのよね」


 義母達が早速提案した。ディマは「たくさんの雨」を意味する。


「ねぇ、カリムの綺麗なお嫁さん。ディマはどう? 気に入らない?」

「他にも、「ナジュワ」――秘密、って意味よ。これとかどう? 貴女は存在自体がとても秘密めいていらしたようだし、素敵だと思わない?」

「待って、カリムさんはお嫁さんを宝って言ってるんだから、「カンズ」が一番合ってるんじゃなくて?」


 にわかに活気づいた父の妻や娘達女性陣に、当の王本人のみならずカリムも暫く呆然としたが、やがて「義母さん方、」と硬い声で牽制する。

「ご厚意は大変有難く受け取っておきますが、俺のものなのでこの人の名前も俺が付けますから、どうぞお気になさらず」

「「「「「「「「「えーっ!?」」」」」」」」」


 一斉にブーイングが上がる中、カリムは無視して傍らの新妻の手をそっと握る。その一瞬で、ビクリ、と全身が拒絶の意を示したものの、何も言わず強張った身体から緩やかに力を抜いた。この状況で逆らっても無意味だと、よく判っているからこその、いっそ潔いくらいの諦念と覚悟。

 慣れない場に身を置き、しかも今までは男に成りすました王であった彼女は今、自分の存在意義が「自分を犯して連れ攫った少年の伴侶」という未知のものに変化している。

 自分を貫いた男とこれから寄り添って生きなくてはならない状況に緊張しているせいもあるのだろう、包帯越しに伝わる細い指先が冷たくて、顔色もあまり良くない。

 性急に奪った自分が悪いのだと、判っているけれど。その負の感情すら、全部己がものにしなくては気が済まないなんて。我ながらどうかしている。


「俺の至宝。俺の最愛。君の名前は「サディ」だ」

「…さでぃ?」

「嫌か?」

「……判らない。名前なんて貰うの、初めてだから…」


 頑なを装いながらも戸惑い揺れる翠の瞳に、カリムは微笑みかける。

 今この場で、最も彼女が警戒すべき存在は自分であり、最も彼女が頼りにすべき存在も自分。その征服感に高揚する裏側で、伝えたい、与えたいものがある。

 カリムの中で「王」という職業は、もっと華々しく威厳と贅沢に満ちたものを想像していた。

 けれど実際はどうだ、ピセヌ王国だけかもしれないとは言え、カリムが初めて出会った王は、衣服や食事などは良質なものを与えられてはいるものの、それ以外のものは一切与えられず、ひどく窮屈でひどく寂しくてひどく狭い生活を強いられていた。

 名前すらない。王という器に閉じ込められ、人々から隠されてひたすら孤独に敬虔な暮らしを送る子供。幸福を知らないこの人を、自分の手で幸せにしてあげたい。――その望みの為に、己の欲求を優先してしまったのは自分もまだまだ幼い子供なのだと思うけれど。

 きっとこの先、そう簡単に彼女は自分に絆されてはくれないだろうし、自業自得で覚悟の上でも、自分は傷付きながら恋を捧げる。


「サディ」

「……うん。何…?」


 彼女から国も身分も民も貞操も全てを奪ってしまった自分だけど、これからは与えたい。幸せにしたい、孤独な綺麗な娘を。

 この心に宿る恋のひとかけらでも良い、いつか受け取ってくれる日まで。


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「サディ」の意味→とても幸福。

カリムは初恋の人である彼女にいっぱい幸せをあげたいし、いっぱい幸せになってほしいし、いっぱい幸せを感じられるようになってほしい。


※この話の登場人物は全てアラブ人名から参考しています。

せっかくなので他のキャラも。


「カリム」→寛大

「ナーゼル」→友人

「バール」→誠実

「アニサ」→優しい

「ムディル」→謙虚

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キミにかたる御伽噺 楸こおる @kooru

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