めでたしめでたし

「――――――――え…?」


 パチリ、と瞬きした預かり子が問い返そうとした時、不意にナーゼルが頭上を見上げた。

 その動作につられて、ムディルもやや温くなったミルクの椀を持ったまま、天井を見上げる。


「……あ、」

「帰って来たな。お前の親父」


 若くして翼竜を所有する狼の氏族長は、遠出の際にはいつでも竜に乗る。

 この方が速いし、砂の上を直接行かないだけ、駱駝や、砂脚リルーと呼ばれる主に砂漠の移動用に用いられる巨大な二足歩行鳥よりもずっと安全だ。

 夜も深まったので、静かに降り立ったのだろう。けれど大きな翼を畳む音や風圧の変化は隠せるものじゃなく、ナーゼルは一段早く親友の帰還に気付いた。


「今日中にって言ってたけど、あれマジだったのか。そのままついでに獅子んとこ泊まらせてもらっても良かったっつーのに…」


 律儀だなぁ、とナーゼルは空の椀をテーブルの上に置くと外に出た。

 ゴクゴクゴク、とハーブとスパイスで飲み易く味付けされたミルクを急いで飲み干したムディルも、慌てて外に出て両親を出迎える。


「ナーゼル。子供達を預かってくれて、有難な」


 冷たい夜に負けないよう、分厚い毛織の衣装。寝支度をまだしていなかったナーゼル同様に、彼もまた、氏族ごとに異なる魔除けの文様を織り込んだ布を額に巻き、細かな刺繍が施された肩帯は清楚ながら華やかで、整った姿を更に彩る。

 彼こそが狼の氏族の若長であり、ムディル達の父。カリム=ムフタール。

 獰猛な肉食獣として知られる竜。その反面、竜は賢く、また気高い。

 人を騎手として認める事など滅多にないが、彼がこの若さで竜を従える事が出来るのは、やはりその人徳と才覚によるものだろう。

 慎ましく翼を畳んだ竜から、手綱を手放したカリムが土産に渡されたのだろう重そうな革袋をものともしないで担ぎ上げ、軽やかに降り立つ。

 そして、ナーゼルにその荷を預けると息子に微笑んで、「ただいま」と告げた。


「お帰りなさい……」


 どこか呆然と父親を見上げるムディルに、「御伽噺の事を考えているな」と察して、ナーゼルの顔がほくそ笑む。

 そんな親友をよそに、カリムはまだその背に居る愛妻に向かって両手を広げた。いつもの事である。

 既に見慣れた光景だが、かの人は一人で竜に乗り降り出来るので、妊娠していればまだしも、もう出産した後なのだからそこまで過保護にしなくても良いのでは、と思ったりする。口には出さないけれど。

 自分の親が見せる甘酸っぱさに複雑な居た堪れなさを感じ取っているムディルに、ナーゼルとしては同意を示したいが、こうして大っぴらに自分の妻に求愛して見せる親友の心理も知っている為、あえてノーコメントに徹している。

 理由は主に二つ。

 一つは単純に、カリムの妻が大変女性にモテる事に起因する。

 女達への「この綺麗でカッコ良くて可愛い人は全部丸ごと俺のものだから」という牽制も兼ねているだろうが、あまりに同性に騒がれるものだから、生まれ育った環境が特殊な事もあり、嫁いだ頃の彼女は女としての自信が全くないらしかった。

 当時十二歳だったナーゼルも二年ぶりに見たカリムの帰還に際し、宝どころか異国の色彩を纏う一人の子供のみを連れ帰ってきた幼馴染に、「何でアイツ、見るからに王子様めいたヤツ連れて帰ってきてんだ?」と首を傾げた記憶がある。

 今でも思い出せる、あのファースト・インプレッション。

 褐色の肌に黒眼黒髪という色素の濃い自分達とは明らかに違う、象牙の如き淡い肌、黄金を熔かし込んだような髪、オアシスでしかお目に掛かれない芽吹きの双眸。清らかな流水を刻んで創った人形のように涼やかな風情。

 まるで富の象徴のような色彩と清雅さに、誰もが眩い思いでカリムの盗品を見たあの夜。

 月下に照らされた子供は、カリムの義兄義姉が盗んできたどんなものよりも輝いて見えた。他の全てが霞む程の麗しさ。

 色彩の印象も強かったのは嘘ではないにしろ、ただ純粋に綺麗過ぎるが故に性別不明の子供という印象を受けたが、衣服は男用だし同齢のカリムや自分よりも背が高く、髪も今と違いうなじの辺りまでという短さだった上に、何といっても彼女の当時の一人称は「僕」だったのだ。これで女児だと見抜ける方がおかしい。

 事実、ナーゼルでなくても初見で皆が貴公子然とした少年だと思い込んでしまったのは無理もないだろう。……正体を知った時には仰天したが。

 生まれ持った高貴、育ち故の気品。王子様もかくやな物腰に加え、キリリ涼しげな眼元や長い手足の持ち主である。

 男装の麗人を地で行く凛々しさ頼もしさ、澄みきった美貌で幼女から老女まで次々虜にしていくくせに、自身はあくまでも高潔でストイックな人格なものだから、本人にそんな気など毛頭なくて。

 その禁欲的な風情はかえって余計に倒錯的な色香を纏い、清涼さの中に形容し難い妖しさが備わった、何とも罪深い娘だったのである。……彼女だけが己の女としての魅力に気付いていない、というだけの話だが。

 この明け透けなお姫様扱いはカリムの心からの本音であると同時に、「そんな事ない」「綺麗だ」「可愛い」「ずっとお前に夢中だ」と言葉と態度で表す事で、女としての自信を持ってほしい、という愛情表現である。

 もう一つの理由は、愛情表現を受け入れてくれる現実にカリムが歓喜し、エスカレートしているせいだ。

 カリムが欲したから彼女を拐かしてきたのであり、手に手を取って駆け落ちしてきた訳ではない。

 つまり結婚した当初、この微笑ましいやり取りが嘘のように、彼らの夫婦生活は綱渡りめいた危うい気配を伴っていた。相思相愛で結婚したとは言い難いので仕方ない。

 略奪した女を愛妾にするのは盗賊の性質を持つ砂漠の民ならば然程珍しくないものの、カリムの場合年齢や立場、何より相手のおっとりした品の良さとは裏腹の意外と頑なな性格もあり、薔薇色どころか茨の新婚生活を送っていたと言っても過言ではなかった。

 それでいて、ギスギスどころか夫婦としての協力感は一種、割り切った政略結婚にも似た空気さえあったけれど。「妻となったからには、夫を支えるべき」という真摯な姿勢は、愛情からではなく義務感からくるものとして映ったのだ。

 政略結婚みたい、などと自分達砂漠の民には似つかわしくない単語が出てきたのは、彼女の態度からナーゼルがそう感じた為でもある。

 反駁どころか大人しくこの地に馴染もうと努力していた彼女は、有無を言わさず攫われてきた被害者というには前向きで、悲壮感が然程なかったのは今思い返しても不思議な話だけれど。

 とは言え、それは彼女の諦念や潔さを含んで成り立っていた婚姻関係と言ってしまえばそれまでで、氏族長を襲名したばかりで気疲れや心労も多い中、一番心を許すべき伴侶とはカリムの一方的な執心によって結び付いた結婚生活だった為に当然新妻から同じ感情が返ってくるはずもなく、そんな環境でよくも心が折れなかったものだと、ナーゼルはカリムのメンタルをひたすら尊敬したが。

 アニサを得られた今なら当時のカリムの一途さに理解を示せるが、昔の自分だったらとっくに心を得るのを諦めて、他の女に鞍替えしていてもおかしくないと思うから。

 粘り強く愛情を注ぎ、恋情を訴え、少しずつ彼女の頑なを解き、こうやって愛し愛される強固な夫婦関係へと変化した。

 自分の愛情を受け取ってくれる喜び、自分の愛情に愛情が返ってくる喜びに、カリムはかつての張り詰めた新婚時代を振り返って、愛情表現を許される現在の状況が嬉しくて堪らない。――要は単なる色ボケである。

 だったらせめて、心を通わせてから身体を攻めれば良かったのに…、と思わないでもないが、本人の口から「全部俺のものにしたかったから、悲しみや怒りや絶望も全部俺のせいでないと許せない」などととんでもない独占欲を聞いてしまい、恋を植え付けるより先に純潔を奪ったのは若さ故の衝動ではなく、冷静に得るべきものを得る為に考えた結果で、つまるところ計算ずくであった事実が判明した。

 プラスだけじゃなくマイナスも欲しい。何もかも全部自分のものにしないと気が済まない、だなんて。そんな過激な事を、どちらかというと盗賊にしては温厚な性質の彼が考えるなんて。

 盗賊らしく強欲だと納得する反面、カリムらしかねないその思考には、当時、驚きしか浮かばず。恋は人を変えると言うけれど……。

 親友が決して優しいだけの男ではない事くらい知っていたが、予想を遥かに超えていたので、当時ナーゼルはカリムへの見解を改めた覚えがある。

 平和な大国で生ぬるい仮初の暮らしを二年も送っておきながら、逆に今まで持っていた生ぬるさを殆ど削ぎ落として帰ってきた親友に驚いたのも今となっては懐かしい。

 十年経ってもこうした扱いをされる事に気恥ずかしさを覚えるらしいカリムの妻は、長男の視線を気にして「自分で降りられるよ」とやんわり断ったが、その次の瞬間、カリムは竜の鐙を踏みヒラリとその背に飛び乗ると、妻をお姫様抱っこして危なげなく降りてきた。


「あの、降ろして? ムディルが見てる…、」

「慣れてるだろ。――な?」

「うん。見なれてるから気にしないで、お母さん」

「気にするから……!」


 翼竜もこの程度のやり取りには慣れたもので、背中に何もなくなるまではジッと大人しく首を垂れて静かに待つ。


「それより、ムディル。まだ起きてたのか?」

「眠くならなくて…」

「そっかぁ。今夜はどうする? ウチ帰る?」

「……。このまま、今日はナーゼルさんとこ泊まる」


 子供ながらに、「今夜の両親の邪魔はしたくない」と判断したらしい。

 ただでさえ普段から小さな子供が六人居るので、中々この夫婦は二人きりで夜を過ごせない。現在子供が一人も居ないナーゼルの家とは大違いである。


「じゃあ、おやすみなさい、お父さん、お母さん」

「うん、おやすみ。ちゃんと寝るんだぞ」

「おやすみ…。ちゃんと暖かくして寝るんだよ? アニサさんは身重だから、朝食の準備とか辛そうだったら、助けてあげるように」

「判ってるよ。明日は昼前にはみんなで帰るから」

「そうか。昼前だな。じゃあ、昼飯用意するまでにはちゃんと帰っておいで」


 昼前、という曖昧かつ早朝ではない事を暗に示す時間指定がまた、子供ながらによく判っている。「空気読み過ぎだろ」とナーゼルは心密かに九歳児の気遣いに脱帽した。

 降ろしてほしいと訴える妻の言葉に従って渋々降ろし、ナーゼルの手からずっしり重い革袋を受け取るカリムに眼を向ける。


「上空はここより寒かったろ。ちょっと前に駱駝の乳を温めて飲ませてやってたんだけど、まだ鍋に残ってるから、飲みてぇなら火ィ点けて温め直すぜ?」

「え? ……あー、否、ミルクはもう頂いたばかりなんだ。せっかくだけど、悪いな」


 カリムは深夜には不似合いの、妙にけざやかな笑みを浮かべて断った。

 ……頂いてきたというのは、獅子長の家でだろうか。駱駝に限らず、動物の乳は水の少ない砂漠ではどこの家庭でも一般的な飲み物だ。


「…そ? なら良いけど。奥さんは?」

「えっ。わ、私も、その、せっかくだけど遠慮したいかな。…せっかくの申し出なのに、ゴメンね…?」

「否、別に」


 やけに挙動不審な彼の妻の、星と月影で眩い夜空の下、どうしても眼に付いてしまう部分をあえて見ないふりをする。


 何で奥さん服のボタンが段ちなの、とか。ミルクって勿論獅子んところで出された家畜の乳に決まってるよな、とか。いつもスッキリ束ねられてる髪がやけに乱れているのは上空の風が強かったのかな、とか。さっきから眼が合わないのは何か居た堪れない事でもあったんですかね、とか。その眼がやたら潤んでてどこかしどけない風情なのは何故、とか。いつも仲睦まじいくせにどうして今は旦那から逃げ腰なんでしょうか、とか。……そんな野暮な事訊けません。訊けませんとも。

 よりによって、何故今宵は満月なのか。真上の月影が落ちる先に佇む麗人の艶姿、目敏いナーゼルとしては気付かぬふりをするのに一苦労ではないか。こんな夜に限って雲一つないと来た。

 思えば十年前も、あの時は気付かなかったが今となっては「あれ?」と思うがやっぱり気のせいだと納得させている事がある。

 十年前、翼竜の背に乗せて攫われてきたカリムの愛しい宝物。こうして降り立ち、彼は盗んできた美しい子供の腰を抱き、支えるようにして。

 その時、まだ若かったこの人がやけにグッタリ疲弊していたのは、初めての騎竜で色々疲れただろうし状況を鑑みても草臥れない方がおかしいから特に不自然に思わなかったのだが、静かに飛ぶ事が出来る程調教されたこの翼竜の親もまた、静かに人を乗せる事に長けた素晴らしい竜だった。

 そんな竜の背に、初めて乗ったからと言ってもカリムも一緒に乗っていて、何故あんなに衣服が乱れていたのか今となっては謎過ぎる。風が強かったにしても、何やら違和感。

 ――まさか…まさかだよな? うん、きっと気のせいだ。盲点だったが、ある意味飛行中の竜の背の上なんて逃げ場はないし暴れると落ちるしで、身動き取れないのを良い事にイタズラするには打って付けの空間だなんて、そんな。気のせい気のせい。

 そしてナーゼルは今日もまた、見て見ぬふりして頼れる氏族長に笑顔を向ける。――俺は何も気付いてないぜ、と。

 性格の良い親友だがその実、中々イイ性格をしている事も、長い付き合いの幼馴染として当然知っている。

 アニサを慮って絶賛禁欲中のナーゼルの前で悪びれもせずしれっと夫婦仲を見せ付けてくれる辺り、本当にイイ性格してると思う。流石曲者。

 余計な事には気付かない顔で居る事も、親友としての嗜みなのだ。



 ナーゼルが家に戻ると、良く出来たムディルは既に椀を二つ、片付けてくれていた。


「おー、あんがとな」

「……ねぇ、ナーゼルさん」

「んー?」

「さっきの…おとぎばなし、本当なの?」

「本当だぜ。最初にちゃんと前置きしただろ。――御伽噺みてぇな話だって」


 御伽噺みたいな話であって、御伽噺だとは言ってない。


「じゃあ、お父さんが盗んできた子供って……本物の王様、だったの?」

「お前の親父は長にしちゃあ若ェだろ。十二で跡を継いだからな。――アイツは水の都市国家の王様っつー、兄弟の中で一番デカい獲物盗って帰ってきてな、見事狼の氏族長に認められたのさ」


 たった十二歳の、若い長。

 そしてたった十二歳で、見染めて攫ってきた美しい子供と結婚した。


「! 王様って、だれなの? まだこの集落にいる?」

「さぁなー」


 意外と判んねぇもんなのかな、とナーゼルは思いつつ、答えをはぐらかす。元々、ワザとぼかした表現したのは自分だ。

 嘘も吐いていない。カリムが盗んできたのは確かに王であって、女王ではなかったし。

 はぐらかしはしたが、ムディルの問いに答えるならば、「まだこの街で住んでる」だ。何せカリムは己が宝を盗んできた時から手元に置いて、不器用ながらも丁寧に、ずっと大切に慈しんでいるのだから。


「あんな、王様はもう、今は王様やってねぇの。ただの人間なの。平凡な暮らしをしてんだよ。……判ったか?」

「……。うん」

「正体を知りたいなら、ちゃんと自分の頭で考えろって事だよ。騒いで良い事なのかどうかも含めて、な?」

「……。うん…、そうだね…」

「ホラ、考えてばっかいないで、そろそろ寝な」

「はぁい」


 素直な返事をして、少年はトコトコと奥の寝室へ向かった。その小さな背を無言で見送る。


「……」


 一人になり、しんと静まり返った空気の中、ナーゼルは駱駝の乳を温めた鍋を見た。せっかくなので残りの乳を全て注ぎ、ハーブとスパイスを足して明日、朝食に出そう。

 必要な分を足し一度味を馴染ませる為に、火を点ける。ゆっくりかき混ぜ、少しずつ温度を上げていくまろやかなミルクの香り。


「……」


 確かに事実を話した。しかし真実を話した訳ではない。

 事実だが、虚構も織り込んで脚色した。……そう、例えばこのミルクのように。

 そのままだと生臭い、飲み難い。

 だからハーブやスパイスで誤魔化して、子供の舌に合うように飲み易くした。ナーゼルも事実をそのように味付けした。御伽噺になるように。――何故ならば。

 最後の王。既にかの国に王は存在しない。だから今、王国は共和国と名を変え、議会が政治している。

 けれどその身に流れる血は本物。王族の貴き血は、今も幼い子供達の中に受け継がれている。

 カリムもその妻も、誰もその血に価値を持っていない。ただ愛しい我が子。それだけ。

 だから誤魔化す。御伽噺で。

 いつか真実に辿り着くかもしれない。何も知らないままで居させる方が良いのかもしれない。

 けれど、何も知らないまま、いつかあの大国に見付かってしまえば。訳も判らないまま、巻き込まれてしまうかもしれないから。

 真実に辿り着いた先こそが、「ちゃんと自分の頭で考え」てほしい事。

 攫われて父の妻にされた母の色彩が、ここの住人と違う事を「遠い国からさらわれてきたから」と彼らは当然のように思っているが、父がかつて盗んだ大国の王もまた、母と同じく金髪に翠眼の美しい子供であったと気付く日が来るかもしれない。

 己の身に流れる血の系譜を、悟る日が来たとしても。

「君は誰?」と誰かに問われた時。大国の最後の王の血を引く者と告げるのか、それとも砂漠に住む狼の子だと告げるのか。

 曖昧にぼかした真実に、いつか辿り着く日が来たとして。その時彼らの子供達が選ぶ道がどんなものであれ、宝のように輝きに満ちたものであれば良い。


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貴身に騙る御伽噺

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