想い出は、時雨のように
mamalica
想い出は、時雨のように
そのぬいぐるみは、電柱に寄り掛かっていた。
咲き始めたタンポポの上に座っていた。
三十センチほどの、赤いレーシングスーツを着た茶色いクマのぬいぐるみ。
バイトに行く道中に見つけたから、拾うか否か迷った。
拾った物は警察に届けなければならない、と教えられて育った。
けれど、警察署は遠い。
恥ずかしい話だが、自転車には乗れない。
バランス感覚が悪いのか、小学生の頃に一ヶ月練習して挫折した。
たとえ自転車に乗っていたとしても、今は警察署には行けない。
持ち主が取りに戻るか、誰かに拾って貰えるよう祈り、そこを離れた。
横断歩道の先にある、バイト先のスーパーを目指す。
四時間後。
バイトを終え、帰路に着き、電柱の下を見ると――ぬいぐるみは居た。
黒い瞳が切なげに、じっと私を見る。
持ち上げると、クマの足にはタグが付いていた。
有名な自動車メーカーのタグだ。
ひょっとすると、高価な物かも知れない。
歩道のコンクリートに、水滴が落ちた。
頭上の夕刻の雲は、湿った灰色だ。
ぬいぐるみに虫が付いていないか確め、トートバッグに入れた。
連れて帰ろう。
このまま、我が家に迎えよう。
警察には……遠いから行かない。
これは、私のものだ。
――二日が過ぎた。
下校後に、バイト先の食品フロアに立つ。
給料日前の月曜日は、客も
カゴを片付け、汚れを拭く。
セルフレジの操作が分からない客のサポートをする。
頭を下げ、愛想笑いをする。
いつもと同じ情景が続く。
だが――違うことが起きた。
一目で分かった。
小学生の頃のクラスメイトだった彼だ。
頭が良く、空手教室に通っていた。
彼は、S高校の制服を着ていた。
ソフトクリームを二つ手にし、同じ高校の制服を着た女生徒とレジに立った。
彼は――ふと、こちらを見た。
思わず、足が固まる。
彼は急いでレジに硬貨を投入し、速足で寄って来た。
「……ひょっとして、K小学校の五年三組だった関屋さん……だよね?」
少しハスキーな声が、名を告げる。
彼は……私を覚えていてくれた。
唇を引き締め、頭を軽く下げた。
「うん……こんにちは。いらっしやいませ」
「ああ、ここでバイトしてるんだ。あまり変わってないから、すぐ分かったよ」
「……逢坂くんもね」
「札幌から戻って来てたんだね」
「うん。中学二年の時に。また父の転勤で」
動揺を押し隠して微笑む。
連れの女生徒は、遠慮がちに少し下がって傍観している。
眼鏡を掛けていて、利発な雰囲気だ。
「……S高に通ってるんだね」
訊ねると、彼は白い歯を少し見せて笑った。
「うん。この辺に来るのは久しぶりだよ。ちょっと探し物があって」
「探し物?」
「甥っ子がさ、クマのぬいぐるみを落としたらしい。知り合いから貰った限定品で、赤いレーシングスーツを着てるとか」
「ぬいぐるみ……」
「母親とここに買い物に来て、帰宅したら持ってなかったらしい。バス亭との間で、手放したのかも。泣いて大変だからって、頼まれて見に来たんだ。無いと思うけど、一応ね」
「見つからなかったの?」
「カウンターの店員さんにも聞いてみたけど、落とし物の届け出は無いって」
「残念ね。可哀想に」
「仕方ないよ。……また、今度来るよ」
彼が言った時、二番レジの前の高齢女性が私を呼んだ。
彼に会釈し、二番レジに向かう。
後ろで、彼と女生徒が去っていく気配がした。
多分、彼はもう来ない。
S高校も、彼の家もここから遠い。
真面目な彼は、甥っ子のために来ただけだ。
彼は、私の高校名も聞かなかった。
のんびりしていたら、ソフトクリームが溶けるし……ね。
「悪いけど、燃えるゴミを出して行って」
翌日――母が私に声を掛けた。
お弁当を受け取り、一度部屋に戻る。
スクールバッグの中を確認し、そしてクローゼットを開けた。
五リットルサイズのゴミ袋に入れた――あのぬいぐるみが隅にある。
拾った日――小雨で濡れたぬいぐるみは、翌日には乾いた。
新品同様に、殆ど汚れていない。
「……ごめんね」
私は息を吐き、結んであったゴミ袋を開いた。
ぬいぐるみを出し、頭の毛並みを整える。
取っ手を強く結んでいたから、毛が少し潰れていた。
……この子に罪は無い。
このまま、置いておこう。
私はバッグと大きなゴミ袋を下げ、玄関を出た。
エレベーターを降り、外に出る。
今朝の――初夏の空は青い。
雨に濡れたのは、ほんの一時だ。
濡れた髪は、いずれ乾く。
私は、眩しい夏に向かって歩き出した。
想い出は、時雨のように mamalica @mamalica
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