夢の館を支配したもの ――3――

 ソファより立ち上がる喜木先は、ふらりと揺れるように一歩前に出た。冷静ではいられない。その目は嫌なほどにそう語る。


「あぁ、くそっ!」


 垂れ下がる腕、手には握られているサバイバルナイフ。苛立ったように頭を振るい、乱れる髪の向こうで視線がぶれる。赤く充血した狂気に満ちた目が揺れる。ナイフを手にしていない左手で髪をかき上げて「くっ」と歯を噛みしめて、喜木先は笑った。


「く、くはは。もう終わりだよ!」


 真っ先に動こうとしたのは正架さんではあったのだけれど、半歩踏み出して彼女は足を止めた。というよりは止めざるをえなかった。彼女の左手は凍の右手と手錠で繋がったままだ。凍は動けず、眼も開けずにその場の空気を読んでいるようだった。

 ぼくはと言えば、見ていることしかできなかった。本当に情けないことではあったけれど、足が竦んだのは事実だ。


「ちっ」と舌打ちを鳴らした喜木先はその間にも一歩一歩と、よろよろとした足取りで、腰が抜けて座り込んでしまった猫魔さんへと近づいた。狂気に満ちた瞳が映しているのは、身動き取れなくなったか弱い少女なのだろう。広がったスカートの裾が床に広がり、喜木先は舌なめずりをして嫌らしく笑った。


 猫魔さんは恐怖に支配されているようで、全身の血が引いてしまったように青ざめた顔をしたまま、手を床について後退した。疲れも人一倍溜まっていたはずだ。昼間から働き詰めで、なによりも仕事のことを考えて、ぼくらのために動いてくれていた。ぼくや凍になんかも常に心配りをしてくれて、気遣ってくれた。事件が起きてからもそうだ。夢占い師が亡くなった今、一番責任を感じていたのは間違いなく彼女だ。張り詰めた空気の中で笑顔を振りまいて、正架さんにも協力して――。


「てめぇも、グルなんだろう」


 そんな彼女に向けて放たれた言葉の意味は捉えかねたけれど、静かに近寄る喜木先の目は憎悪に溢れている。

 一体彼のなにがここまでさせているのか。こうなってしまってはもう自白をしているようなものだ。剣野義さんを殺したのは、彼で間違いない。衝動的な犯行だったのだろう。それもその姿を見ていれば納得できる。


「……な、なにを」


 猫魔さんはやっと声を振り絞るようにしてそう言った。


「知らないとは、言わせないぜ……」


 銀色に輝くナイフの刃をちらつかせて、猫魔さんへと近づいた喜木先は右腕を振り上げた。

 猫魔さんは目をつむる。

 正架さんは「やめなさいっ!」と叫んでいたけれど、凍を庇って動けないようだ。

 ぼくも顔をそらしかけて、だけれど、そらすことはなく一歩を踏み出した。


 振り下ろされるナイフの軌道は動けないでいる猫魔さんを捉えていた。ただ、それよりも早く動いたのは先ほどまで座っていたはずの琴鳴さんだった。姿勢を低くしたまま駆け寄って、振り上げられた間合いに飛び込んだ。


「なっ」と信じられないような目をした喜木先に、彼女は力強い視線でこたえる。

 喜木先が振り下ろす右腕は、彼女が伸ばした細い左腕に受け止められる。喜木先はすぐさま腕を振るってその手をかわす。彼が半歩下がったところで、琴鳴さんが左足を軸に体を回転させると、右足で蹴り出した。だが、喜木先もその蹴りを交わして一歩距離を取る。脇をしめて構えなおした銀色のナイフの刃を、今度は琴鳴さんへと向ける。


「っんだ、邪魔するな!」

「みっともないじゃない。自分の始末もつけられず、人のせいにした結果がそれか」


 ふたりが見せる苛立ちに、少し違った色合いが見えた。ただ衝動のままに人を殺しもした狂気に満ちた男に、強い恨みを込めた視線を送る女。どうして、喜木先は猫魔さんに標的を定めたのか――。


「てめぇ……!」


 衝動は治まるところを知らないようで、激昂した喜木先はナイフを構えて距離を詰めた。

 だけれど、衝動任せの勢いはいとも簡単に組み伏せられていた。

 目を離したわけではないけれど、一瞬の早業だった。喜木先の足を蹴って払った琴鳴さんは、そのまま彼の右手を掴み上げると、腕を捻り上げるようにして背中に乗る。

 倒された喜木先は、そのまま成す術もなく身動きが取れなくなった。「いてぇっててて!」と思わず漏れ出た悲鳴。彼はようやくその痛みで目も覚めてきたのだろう。青ざめた表情をしたまま床を叩いて顔を歪ませる。

 捻り上げた手からナイフを奪い取った琴鳴さんは、それを遠くに飛ばすように地面を滑らせた。


「なにをしているの?」


 彼女は苛立ったようにして、鋭い瞳を正架さんへと向ける。「あなた刑事でしょう」とでも言っているようだった。

 ポシェットよりもうひとつ手錠を取り出した正架さんは、凍を庇いながら寄ると、喜木先の手へそれをかけた。


――がちゃり。


 鍵が閉まるような音。否、それは紛れもなく鍵がかかる音でもあるのだけれど。

 そのまま琴鳴さんと正架さんに引きずられた喜木先は、近くの窓枠にはまっていたポールを通して手錠をかけられる。それで彼はもうこの場から逃げ出すこともできない。それどころか、立ち上がることすらできないだろう。

 そうまでされてしまえば衝動も治まった。すっかり意気消沈したようにして喜木先は俯き黙り込む。


「あなたが、殺したんですね」


 喜木先は正架さんに見下ろされる形で、だけれど、そう問われたところで顔を上げもしなかった。


「……荷物を調べてば見つかるでしょう。この契約書は」


 正架さんは手にしたままだった書類をひらひらと振って、喜木先へと聞いた。


「そのために殺したんですか。夢目沢も」


 正架さんがそう続けたところで、ぎらついた瞳を輝かせた喜木先は顔を上げた。


「違う! 俺じゃねぇ!」


 否定の言葉――。見下ろす正架さんの眼差しを目の当たりにして、「ぐぅっ」と言葉を詰まらせた喜木先ではあったけれど、ぼくの目にも喜木先が嘘をついているようには映らなかった。喜木先が犯人であればよかったのに、と少しそう思ったのは事実だったけれど。


「剣野義さんを殺害したことは認めるのね?」


 聞いた正架さんの顔を見上げたまま、喜木先は表情をひきつらせた。認めているようなものだろう。


「ぐぐぅ……」と言葉を詰まらせる喜木先にも、落ち着く時間が必要だった。

 尻餅をついたままになっていた猫魔さんは、琴鳴さんの手を借りて立ち上がる。「ありがとう、ございます……」などと頭を下げていたけれど、対する琴鳴さんは優しく笑っていた。


 それを見て、ぼくは急激な眩暈に襲われた。ふらついた頭、痛んだわけではなくそれこそ血の気が引くような感覚。視界が揺らいで、だけれど倒れるわけにはいかなくて踏ん張った。なんだろう、この感覚。とてつもない違和感だ。


「契約書って、一体なんの契約書? あなたたちはなにを企んでいたの?」


 その間にも正架さんは喜木先を問いただしているが、彼は顔をそらしたまま話すような素振りは見せない。都合の悪いことは喋らない。そういった意識か。

 ぼくの意識も段々と戻ってきた。今畳みかけるべきは目の前のこちらからだろう。ならば、直接言ってやるしかない。


「あなたが剣野義さんを殺した。それは、間違いないんですよ。喜木先さん」


 凍の横に並んで彼の顔を見下ろした。凍は相変わらず左手で顔を――左眼の辺りを抑えていただけれど、並んだぼくの気配を察したのか肩を揺らす。


「契約書の内容もぼくにはわかりません。ですが、あなたは剣野義さんを殺すしかなかった。そうだったんでしょう?」


 そう言ったところで喜木先は顔を上げた。その瞳に移った色にぼくは確信する。

 この状況でどうして第二の殺人事件なんてものが起きたのか。殺してしまえば容疑者は絞られる。外は大雨の山中のせいで逃げ場もない。雨が上がれば警察が到着するだろう。やはり逃げることなどできはしない。


「剣野義さんに殺されかけたか……部屋に呼ばれたのは、あなたのほうだった。違いますか?」


 ぼくが喜木先にそう聞いたところで、ぼくの目を覗き込んだのは――蒼い光だった。

 ズーンと響くいつか感じた頭の痛み。遠のく意識に足はふらつき、膝をつく。


「どうしたの? 蒼起くん!」


 顔を上げれば驚いたようにしながらも心配したようにする正架さんの顔があった。だけれど、ぼくが目を離せなかったのは、その横で立つ左眼を開けた彼女の顔だった。

 凛と立つ彼女に泣き顔は相応しくない。すんっとした瞳から広がった蒼い光が満ちるようにして、凍はぼくを見つめていた。


 蒼い色サファイアブルーの魔眼。力を有した彼女の、もうひとつの魔眼の中で――膝をついたぼくの心は揺れている。


◆◆◆


 違うよ、蒼起。喜木先は自分から剣野義さんの部屋に行った。そこには目的があったから。


◇◇◇


 そうぼくの心の中に響いたのは紛れもなく、彼女の声で――秘見弥 凍はその眼で語りはじめた。真実へと至る魔眼推理を。

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