二重密室の殺人事件 ――3――

 時刻は二十三時を回る夜中だ。どうしてこんな時間に病院の電話口で彼女の声が聞こえるのか、と疑問にも思ったのだけれど。


『もしもーし、あれれ? どちら様ですか?』

「あ、あぁ……えっと、こちら足桐 蒼起……」


 思わずフルネームで返答してしまった。


『あ、その声はあおくん? えーどうしたの、こんな時間に』


 それはこっちが聞きたいことだ。


『今ね、笹良ちゃんが夜食にラーメン作ってくれるって。ひとりで食べようとしてたんだよ? だからわたしにも頂戴って言ったら、作ってくれるって』


 それはなんとも和やかな空気が流れていることで。ただ、こんな夜中にまだ十四歳の彼女の健康のことを考えるとよくないだろうに。それも病院の電話を取らせてまで。

 なんとも言えない電話口の瀬月の調子に、怒って返事をする気にもなれず。こっちの緊張感を察してもほしいけれど、そこまで彼女に任せるのは酷だろう。「はぁ」とひと息、吐いたため息は電話越しにも届いたのだろう。


『なんだかお疲れみたいだね。それで、どうしたの? えへへ、もしかして、わたしの声が聞きたくなっちゃった?』


 溶けたような笑顔を浮かべる瀬月の姿が思い浮かんで、どこか懐かしくもなった。きっと彼女が満足するこたえをしなければ電話を替わる気もない。そういった空気だ。だけれど、瀬月の声を聞いていたら余計に、今いるこの立場が浮き彫りにされるようだった。平和からかけ離れた非日常。止まったような時間から、動き出した時間へと。


「ああ、そうだな。おまえのかわいい声を聞きたいってのもあったけどな。笹良に変わってもらえるか?」

『かわいい? えへへ。うん! いいよ!』


 懐かしくもなったよ、あの病院での時間が。

 だけれど、本心は隠してそうこたえた。瀬月は電話越しにもわかるように頷いた。

 どうやら許してもらえたようだ。電話の向こう側でがさごそと人の動く音がして、受話器からは『もしもし』と落ち着いた調子で男の声がした。


「笹良……こんな時間に、瀬月に電話取らせるんじゃねぇ」


 少し乱暴な口調になってしまったのは、笹良相手には隠し切れなかった本心だ。電話越しに後ろで『わーい、おいしそうー!』なんてはしゃいでいる瀬月の声まで聞こえる。


『あはは、ちょうどお湯を沸かしていたら目ざとく見つけられてしまってね。お腹空くじゃない? この時間ってさ』


 笑って言うけれど、こっちは笑っていられる状況でもない。だから冗談にもこたえることはできなくて、次の言葉を探すためにごくりとつばを呑み込んだ。そんな音まで届いたのだろうか。ようやくぼくの覚えた緊張感が電話越しにも伝わったらしい。


『なんだい。どうした、蒼起。こんな時間に直接電話とは。なにがあった?』


 御石さんは笹良と連絡を取り合っていた。夢占いの館へ到着した際にもメッセージを送っていた。ぼくから直接連絡が来るなんて思ってもいなかったってことだ。察してくれるところもあったのだろう。


「……御石さんが」


 言葉を紡ぐことができずに詰まった。口にすることで現実を目の当たりにさせられるようで、喉が急激に乾いてゆく。

 絞り出すべき言葉をぼくは念じるように胸中で唱える。死んだ、殺された。刺されて死んだ。誰かの悪意に晒されて、無惨にも。目から溢れてきたのは涙だったのか。結局ぼくにとっては他人事でしかなくて、痛む胸も上がる息も酷く別人のもののように感じられた。

 そう考えなければ、きっとぼくは自分を保っていられなかったのだ。人間はうまくできている。防衛本能というやつは無意識にも働く。幸いなことに、ぼくは他人事のように生きていられるから。


「御石さんが死んでしまいました。事件に巻き込まれて……殺人事件に」


 笹良は静かにぼくの言葉を待ってくれていた。だからそうこたえたところで、電話越しにも唸ったようにして首を捻った姿が見えた。


『うーん、殺人、か。それはまた想定外だな。大丈夫か、おまえは。凍も巻き込まれたということだろう?』


 そこにだらしなく冗談に塗れた常日頃の彼の姿はない。声のトーンを落として落ち着いた調子でそう言ったのは、医院長としてぼくらの面倒を見てくれる、足桐 笹良の声だった。


「ぼくは、大丈夫です」


 大丈夫、そう自分に言い聞かせるようにして。


「けれど、凍は……あろうことか最有力容疑者です。巻き込まれました」


 そう言ったところで笹良は考え込むようにして息を呑んだ。


『……そうか。警察は? 八重霧に連絡は入れてあるんだろ?』

「はい、多分。八重霧の部下である警部補の正架さん……刑事と一緒にいるので」


 光り目事件。そういうことになるはずだ。ならば、彼の耳にも真っ先に入ることになる。ただ、笹良にも現状を説明しなければならない。


「こっちは大雨で、警察の到着も遅れるような状況で――」


 そこから大方、夢占いの館へきてからのことを全て話した。

 なにを見て、なにが起こったか。なにもかも。


 話し終えるまでにどれくらいの時間がかかったか。ぼくは意識をしていなかったけれど、笹良はぼくの話を全て黙って聞いてくれた。話し終えたところで、『そうか……』と静かに頷いて、電話越しにも息を呑んだのがわかった。落ち着いているふうに聞こえるけれど、笹良も動揺したのか、がたんっと電話越しで音が聞こえる。夜食に作ったというラーメンもすっかり伸びてしまっているだろうけれど。


『蒼起、わかっていると思うが、凍がやったとは思えない』

「はい、ぼくもそれはそう思ってます。誰かに仕組まれた……」

『あぁ、それも凍が目の見えないことを利用して、だ』


 笹良は断言する。


「目の見えないことを利用して?」

『御石さんが殺された理由だよ』


 それは考えてもいなかった。正架さんは御石の名前について教えてくれた。だけれど、彼女は御石さんが殺された理由をどのようにして考えたのだろうか。秘見弥を守る使命があるという御石の血筋、だからか? ぼくにはよくわからない。


『状況から考えて、真犯人の目的は夢占い師の殺害だろう? 怨恨か、揉めたのか……現場にあったものが凶器として使用されているのならば、元から凶器になるものが部屋にあったことを知っていた人物になる。どちらにしろ、夢占い師の知り合いのはずだ』


 笹良は冷静に言う。

 あの部屋の構造を思い出す。ベッドを中心に仕切るよう部屋の天井に引かれていたカーテンレール。夢占い時、カーテンが閉まっていたのだとすれば、壁にかかっていた趣味の悪い調度品は見えないだろう。占いのために部屋に入った人間には凶器を目にする機会がない。計画的だったにしろ、衝動的だったにしろ、犯人は凶器になるものがあることを知っていた。それはその通りかもしれない。


、御石さんが殺される理由はない。だから、御石さんは見てはいけないものを見たのかもしれない。目の見えない凍になら擦りつけやすいとも考えたのかもしれない』


 笹良は続ける。それもそうだ、普通に考えるならば――だけれども。そこにはなにか理由がある。『見てはいけないものを見た』……? いや、違う。夢占い師はいつ死んだ……? なにかが思考の巡りに引っかかる。

 夕方ロビーに集まったとき、ローブを深く被っていた夢占い師。声をひと言も発さず、横にいる猫魔さんは集中していると語っていた。犯人の目的が夢占い師の殺害であったのならば、夢占いの時間に殺されたとも限らない。むしろ凍が犯人ではないと考えるならば、それ以外の時間に殺害されたと考えたほうがいい。目の見えない凍に人の気配がわかろうとも、その人物をぴたりと言い当てる能力があったとしても、音も発しない人物を定めることはできない。

 ひょっとして、凍たちが部屋に入ったときには、既に、夢占い師は死んでいたのでは――。


『それに……俺には妙な嫌な予感がする。やはり勧めるべきでもなかったか……。八重霧に反対しておけば……』


 笹良は迷う。だけれど、起こってしまったことはもう取り返しがつかない。進んだ時計の針を戻そうと、時間が戻るわけでもない。だからぼくは前を向くと決めた。


「はい、でも少しわかった気がします。ぼくは凍を信じられる。ぼくが証明するしかない。ぼくが護るしかないんです」


 それはたしかな覚悟だった。改めて口にしたことで、胸のうちに響いたぼくの意志。彼女の意志を尊重したいがためのぼくの意志。ぼくは彼女の杖だ。彼女の歩く先を示すことのできる杖でありたい。


『……ならば、やり遂げろ。それが秘見弥の横に並ぶものの使命だ』


 ぼくの言葉を受け止めてくれた笹良は、力強くそう返してくれた。その名の意味をわかっているからこそ……。ん? なにかが引っかかる。『御石』の名のことは正架さんから聞いて知ったことだったけれど、凍の保護者である笹良も当然知っていたのだろう。だからあえてそういう言い方をしたのだろうとは思ったところで、「はい」と返事をしたぼくに、笹良は言葉を続けた。


『ん? なんだって? ラーメンおいしかったから? あぁ、すっかり忘れてた。だいぶ伸びちゃったなぁ……。あぁ、すまん、蒼起。瀬月が替わりたいそうだ』


 電話越しで薄っすらと聞こえた瀬月の声にちょっとした違和感はあった。がさごそと電話の向こうで人の動きがあって、続けて電話口に話した彼女の声は少し低く通る大人びたものだった。


『ボクも話は聞かせてもらったよ』


 瀬月 ルリサはそう言った。電話越しにずっと横にいて話を聞いていたわけか。笹良もそれをよしとしていたってことだ。ならば、そこにいる瀬月がルリサであることも笹良はわかっていたってことだ。結局、利用されているじゃないか。


『ボクにはそうなる気がするって、ちゃんと出発前に言ってあげたのに。全くきみは……って感じだな』


 それに対してはなにも言い返すことはできなかったけれど。


「そっか……聞かれちまったか」


 本当に彼女は地獄耳でもある。好奇心旺盛だということでもあるけれど。


『ボクにはわかったよ。それの密室トリックが』


 電話越しに翡翠色の瞳を光らせているのだろう。『くふふ』と笑う彼女は、たしかに言った。『それら』――と。


「……どういうことだよ」

『いやいや、ボクに聞くなよ。それを聞いてちゃあ、はじまらないだろう? ボクはね、わからないふりをしていられるきみに嫉妬しちゃうんだよ。思い出せって。それがきみの覚悟だろう? それまで忘れてボクに頼るようじゃ、きみの覚悟も大したことないな?』


 たったひと言聞き返しただけで、問答無用といった感じで捲し立てられた。だけれど、そう言われてしまった言葉は胸にズキズキと突き刺さった。

 覚悟――か。ぼくとは無縁の言葉かと思っていたけれど。気づかされた。そうやって思い出させてくれた。


『……どうなんだよ、あおくん?』

「あぁ、じゃあ辿りついてやるよ。真実に」

『ふっ。あいつの手を離したくないと言うんだったら、そうでなくちゃね』


 ルリサはカラカラと笑う。彼女が目の前にいないことが救いか。対面して話していたのならば、きっとぼくはあの光を目視せざるをえなかった。だから、味方をしてくれたのだと思う。電話越しだからこそ、彼女はそこまで感情を揺さぶるように言葉に乗せて、ぼくに言ってくれたのだと思う。それは勝手な都合のいい解釈だったのかもしれないけれど。


『ボクはあいつのことが嫌いなんだよ。けどね、きみのことは好きなんだ。だから甘えないでよ。妬ましくなっちゃうから』


 ガチャリッと受話器が置かれた音がして、『ツー、ツー』と電話からは電子音しか聞こえなくなった。言うだけ言って電話は切られた。

「はぁ」と肩を落としもしたけれど、下ばかりは向いていられない。年下の子にあそこまで言わせて、黙っていられるほどぼくも大人じゃないのだから。

 きっと、記憶を失くす前のぼくもそういう人間だった。凍の横にいて、彼女のことを信じたいと思った気持ちはぼくのものだ。

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