二重密室の殺人事件 ――1――

 ガラス張りの連絡通路を抜けて初めて立ち入った部屋の中は、元の様相を知らなくともわかるほどにすっかり荒れ果てていた。

 鼻を衝く血のにおい。惨憺さんたんたる事件現場に、「これは……」とこぼした正架さんは口元を手で押さえて、ぼくは目もそらしたくなるその現場を記憶に焼きつけた。


 灯りとなるようなものはなく、通路より差し込む光だけが光源となる薄暗い部屋ではあったけれど、それでも伝わって来る気配というものが感じられる。一歩踏み入るなり退くも進むもできなくなってしまったぼくとは正反対に、正架さんは落ち着いた様子で部屋の入口にあったスイッチを入れて電気をつけた。


 置かれていたふたつのベッド。そのうちひとつに寄りかかるようにして倒れていたのは、腹から真っ赤な血を流した、事切れてしまった御石さんの姿だった。苦しむ様子もなく瞳を閉じた彼女は、きっともう動くこともないのだろう。ぼくや凍に笑いかけてくれることも、凍の包帯を巻いてくれることもない。そう思うと自然と視界が滲んでいく。自覚なんてものはなかったのに、どうしてぼくは、こうまで悲しくなっているのだろう――。


 そんなぼくの横顔を見つめていた正架さんは、静かに現場へと立ち入った。その彼女の背中を見ていたら、自然と意識が戻ってくる。立ち止まっているわけにも、目をそらすわけにもいかないのだから。


 視界を広げる。顔を上げて部屋を見渡す。

 広い部屋の真ん中に間隔を開けて並ぶふたつのベッド。天井に走るカーテンレール。分厚いカーテンの束が今は閉じられてそっと部屋の隅に纏まっている。それで部屋を区切るようにして眠る空間を用意して、夢占いというものをするのだろう。

 部屋の中は無音だ。轟々と降り続ける外の雨音は聞こえない。防音設備が整っているのかもしれない。

 それに密閉された空間には血のにおいに混じって、甘いにおいが広がっていた。


 部屋自体の大きさはシングルベッドがふたつ並んでもまだ余裕があるという雰囲気。三十畳はあるだろうか。外見通り真四角だ。窓もなければ他にドアも見当たらない。カーテンに仕切られた向こう側、高級感ある革の椅子に、これまた艶がある木製のプレジデントデスク。積まれた書類や羽ペンにインク瓶なども目につく。どれも夢占い師のものだろう。その席には、胸の辺りから血を流した夢目沢 志士郎が座ったまま死んでいた。


 壁にかかった大きな絵画は傾き、部屋に置かれていただろう壺や瓶の類の調度品はひっくり返っている。デスクの片隅に並んでいた金庫は開けっ放しのまま放置され、壁には銃弾の傷跡が残っている。赤い絨毯敷きの上には濃く染まる血だまりができており、飛んだ血の跡も散見された。御石さんのそばには、彼女がいつも手にしていたスマートフォンが割れて転がっている。銃も一丁、その手に握られていたかのようにして落ちている。それが凶器というわけか。


 落ちていた銃と同じものが壁にもかかっていた。モデルガンではないらしい。他にも壁には趣味の悪そうな調度品の数々が、大きな槍や斧や剣なんかもかかっていたけれど、そのうちのひとつに、凍が手にしていたものと同じような形をしたナイフが、ずらっと十本ほど並ぶ額縁があった。蝶の模様が入った飾りナイフ。額縁自体は部屋が荒れたときに割れたのだろう。そのうちの数本が床にも散らばっている。

 要するに、使用された凶器の類は全てこの場にあったものだということだ。


「亡くなってる……」


 うなだれるふたりに近づいてたしかめた正架さんはぽつりと呟いた。


「ちょっと想定外……」


 そう続けて、ポシェットよりスマートフォンを取り出して現場の写真を撮りはじめた。「うっ」と胸を押さえて苦しそうにする素振りを見せて、持ち前の明るさはすっかり失われている。


 警察のほうには猫魔さんがすぐに電話をしてくれた。ただこの雨で山道が土砂崩れに見舞われたらしく、到着には時間を要するとのことだ。

 正架さんはすぐに猫魔さんへ警察手帳を見せて正体を明かしていた。驚いたようにしながらも納得して頷いた猫魔さんは、今は凍のことを見てくれている。介護という意味でもあるけれど、それは第一容疑者を見張るという意味でもある。ぼくは無理を言って正架さんについて、現場に踏み入ったわけだ。


「これは、殺人事件だよ」


 呆然と見渡していたぼくの顔を見るなり、神妙な顔をした正架さんが頷いた。

 どこかで否定する言葉を探したけれど見つからない。現実は非常だ。身構える間もなく襲って来る。頷き返すも、やはり言葉は見つからず。


「銃とナイフ……それに……」


 改めて現場へと目を向けた正架さんは、考え込むように俯いた。

 椅子にうなだれた夢占い師の死体は銃を手にしたままだ。白いローブは血に染まり、その胸を銃で撃ち抜かれている。壁についた銃弾は入り口側ドアの横に。ちょうど夢占い師が座った位置から放たれたものだろう。

 だけれど、ベッドに寄りかかって倒れていた御石さんはナイフで胸の辺りを、心臓をひとつき刺されたらしい。血に染まる白い包帯を左手で握りしめていた。その白い包帯がなにを意味しているのか――。常日頃から目にしていたぼくには、嫌というほどにわかってしまう。部屋を出てきた凍は、目を覆ってはいなかったのだから。


「御石さん……」


 ぽつりと呟いた正架さんは、そうして顔を上げるとぼくのほうへと目を向けた。


「蒼起くんは聞いてる?」


 突然なんの話をされているのだろうか。それもこんな事件現場のど真ん中で。


「聞いてないんだね、『御石家』のこと」


 正架さんは顎に指を当てると、神妙な面持ちで続けた。


「魔眼を見守る一族。魔眼を継ぐ一族、秘見弥に付属する血筋なんだよ。御石って名前は」


 御石 志摩。それは足桐医院に勤めている、凍にずっとついていた看護師の名前であるはずで――。なんの前触れもなくされた話に、ぼくは思考が一瞬追いつかなかった。


「知らなかった?」


 改めて聞かれて、「はい」と頷くしかない。別に正架さんが嘘をついているようにも思えない。


「御石は魔眼を見守り監視する一族。だから、凍ちゃんのそばにもいたんだよ。彼女は」


 ベッドに寄りかかって動かなくなった彼女のことを見つめて、正架さんは真剣な顔のままに目を伏せた。亡くなってしまったものに敬意を払う。胸に手を当てたのはそういう意味合いだったのかもしれない。


「秘見弥を守るはずの立場の彼女が殺された。これはきっと、凍ちゃんにとっても関係があることだ」


 顔を上げた正架さんは言う。ぼくの知らなかった事実を交えて。否、それはきっと、ただぼくが忘れてしまっているだけのことなのだろう。かつてのぼくは秘見弥を知っていたはずだ。凍の横にいて、それも十年一緒にいて知らなかったはずがない。


「記憶のない蒼起くんに話せないことがあるんだ。彼女にも」


 それが誰を指しているのかはすぐにわかった。だから突然、こんなタイミングで正架さんはぼくに対してそう話を切り出したのだろう。


「秘見弥……その名は呪われている。別にわたしはこの事件、凍ちゃんが殺したとは思っていないんだけどね。そこは本心だから、蒼起くんにも信じてほしい。でも、忘れちゃダメだよ」


――凍にも話せない秘密があるってことだ。


 ぼくは正架さんの目を見つめ返して頷いた。正架さんは真っすぐとした目をして、微笑んで頷き返してくれる。

 ずっと一緒にいる大切な彼女のことだからと信用しすぎるな、という警告だったのだろうか。だけれど、ぼくにできること、考えられることなんて限られていた。いまさら、彼女のことをことはできないのだから。


「さて、こうなったらボーッともしていられないね」


 真剣さを消して正架さんは笑う。血生臭い現場にいて、ぼくは笑うことなんてできなかったけれど。ぼくを安心させるためだったのかもしれない。


「警察の到着までに時間がある。だからたしかめないと。誰がこんな酷い事件を起こしたのか」


◇◇◇


 二十二時五十五分。事件現場を後にしたぼくと正架さんがロビーへ戻ると、凍は手を拭ってソファーに座らされていた。心配そうにして落ち着かなさそうな顔でおどおどとした猫魔さんが、なにやら必死に凍に声をかけてくれているところだった。凍は黙ったまま、両眼を両手で押さえて俯いている。包帯を失った今そうしていないと眼が開いてしまうのかもしれないが、この現状に頭を抱えるというのも頷ける。

 ぼくと正架さんに気づくなり、猫魔さんはパッと顔を上げて立ち上がった。


「一体、なにが!」


 声色から感じられる強い不安には言い寄るような勢いもあって、正架さんは困ったように返事をした。


「凍ちゃんの話していた通りで……ふたりが亡くなっていました。殺されていた、と言ったほうが正しいですね」


 顔面を蒼白にした猫魔さんはよろよろとふらついてソファーに座り込む。ただその後、「……そうですか」と顔を上げた猫魔さんは立ち上がると、正架さんへと向きなおった。


「なにか、できることはありますでしょうか。協力させていただきます」


 きっちりと引きしまり、血の気が戻った表情には彼女の覚悟も表れている。正架さんは頷いてから返事をした。


「このロビーに他のお客様を集めてもらえますか? 警察の到着は遅れる。今夜は外に出ることも難しい。事情も聴かないといけない」


 正架さんの話を真剣に聞いた猫魔さんは「はい」と頷いて、手をエプロンで叩くと足早に廊下のほうへと歩いて行った。

 正架さんの言う通りだ。あの部屋の中にいてはわからなかったが、降り続けている雨はどんどん激しくなっている。言わば陸の孤島となった夢占いの館。外部犯の仕業とは考えられないだろう。犯人が凍以外にいるのなら逃げ場もない。


「さて……」と一息ついた正架さんが凍の横に座った。ぼくもつられて凍を挟んで座る。

「それじゃ、凍ちゃんにも話を聞いておかないと」


 真剣な顔をして凍の横顔を覗き込んだ正架さんの目と、ぼくの目が彼女を挟んで合った。「うん」と凍が頷くと、正架さんも「うん」と優しく微笑んで頷いた。凍はゆっくりと話をはじめる。


「目が覚めたら、手になにかを持たされていた」


 顔は両手で覆ったまま。見ようによっては涙に濡れた瞳を隠しているようにも見えただろうけれど、その声はしゃんとしている。部屋を出てきたときは涙を流していて心配にもなったが、すっかり泣き止んでもいるようだ。


「血のにおいもした。なにかがおかしいのはすぐに気づいた。人の気配もなくて、空いていた左手を伸ばして立ち上がって、それで包帯もしていないことに気づいた」


 いつもしている包帯は、夢占いを受けに行くときもしたままだった。眠っている間に取られたということなのだろう。その包帯は亡くなった御石さんが手にしていたけれど。


「まだ眠たくって、ふらふらと歩いた。入ってきたときの感覚でドアの方角はわかってたから。ただ事じゃないのはすぐにわかったから部屋から出ようと思った。けど、鍵がかかっていた」


 夢占いをする際には鍵が閉められていたってことか。


「だからドアノブの下辺りについていた鍵を捻った。簡単に開いたよ」


 ドアの形は確認してこなかった。どういう造りになっていただろうか。


「うん、そういう感じのドアだったね」


 どうやら正架さんはしっかり確認していたらしい。要するに、凍は鍵のかかった部屋から自分で鍵を開けて出てきたということか。


「できるだけ、わたしはそのまま部屋を出てきたつもり。他に触れたものはない。だから手に持っていたものもそのまま持って部屋を出た。ただ、それがナイフだと気づいたのは、部屋を出たときだった。手が濡れているような感覚も、金属の感触も、そして、血のにおいでも……」


「そう……」と頷いた正架さんはメモを取るわけでもなく、ただ目をつむって頷いた。


「だからすぐにわかった。あの部屋に人の気配がなかった理由にも。既にふたりが死んでいたからだって」

「うん。そうだね……でも、言いづらいけど、このままだときっと」


 正架さんは本当に言いづらそうな顔をして、凍の横顔を見つめていた。ぼくには正架さんがなにを言おうとしているのかは想像がつく。そうではないとわかっていても、現状が物語る。


 手に持った血まみれの凶器。鍵がかかっていた部屋。唯一の生存者は、自分自身で鍵を開けて部屋から出てきた凍ひとり。状況が犯人を断定するには、それで十分すぎるだろう。要は密室の中で起こった殺人事件ということになる。


「わかってる。だけど、わたしはそんなことしてない」


 顔を押さえたままだけれど、力強く凍は言って頷いた。

 部屋を出てきた凍は、ぼくの名を呼ぶなり『やられた』と呟いた。凍も犯行が擦りつけられたことには一早く気づいていた。一体誰が犯行に及んだのか。それもふたりの人間を殺して、その罪を凍に擦りつけたのか。


「あぁ、そんなことはしない。凍は……できないだろう。理由もない」


 ぼくは思わず呟いた。言われるまでもなく、凍の犯行ではないと信じている。ただ、そう言い切るには少し疑問が残ってしまった。本当に、理由はないのかと――。それはきっと、正架さんに言われた言葉が胸に突き刺さっていたからだ。


「うん、わたしもそう思ってるよ」


 だけれど、凍を挟んで向こう側、正架さんはそう言って笑顔で頷いた。


「でもきっと、わたしは自分の立場として、信じていてもそれに背く行動をしなければならない。だから凍ちゃんも信じてね。わたしのこと」


 事件現場に遭遇してしまった警察官としての立場。仕事の上だ。仕方がない。巧妙に仕組まれた現状は、第三者が見たところで余計に犯人を凍だと物語る。

 ただ、正架さんがそう言ってくれて、ぼくとしては少し安心した。事件現場で語られたあの言葉にどのような意味があったのかはわからない。だけれど、正架さんが嘘をついている様子もなく、凍を無実だと信じてくれているのはたしかなことのようだ。彼女が持つ底抜けに明るい優しさは消えていない。


 ならば、ぼくはなにをするべきなのか。それはもう決まり切っていた。

 誰かがふたりを殺したのは間違いない。誰が――? それに。


「解かないとな、この密室の謎」

「ううん、違うよ。蒼起くん」


 顔を上げたぼくに対してそう言ったのは正架さんだった。


「二重の密室だよ。この場合」とそう続けたのだった。


 二重の密室――そうだ。夢占いの間、部屋の前にはぼくらがいた。このロビーにいて連絡通路の出入りを見逃すはずもない。いや、一度席は外したか。小火騒ぎがあったときに。だけれど、あの場にはこの館にいた全員が集まっていた。野次馬に覗きにきた剣野義さんと喜木先、第一発見者で内線をかけてきた琴鳴さん。猫魔さんも一直線に向かったはず、時間的余裕もなかった。夢占いを受けていなかった人間は、あのとき揃っていた。


「二重の密室……」


 鍵のかかった部屋に、部屋の外には常にぼくらがいて、出てきた人間は凍以外目撃していない。

 二重の鍵だ。それはもう、二重密室ダブルロックと呼ぶしかない。

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