歪んだ盤上で復讐は果たされし ――2――
「火……? 火事ですって?」
次第に顔色を変えた猫魔さんの様子に、そのひと言が決定的な一撃として、ロビーにいたぼくらの胸中を揺さぶった。緊迫感を含んだ声に、ぼくと正架さんはすぐさま立ち上がる。体は自然と動く。慌てて内線を切った猫魔さんが顔を青くもしながら口を開いた。
「北西側の倉庫で火事が起こったみたいで! すみません。消火器が足りないかもしれないので、東側の廊下にあるものをおふたりにお願いしてもいいですかっ!」
なにかできることはないかと探していたところだ。猫魔さんは一刻も早く現場を確認して対応したい様子。この緊急事態――ならば任されたことくらい、ぼくだってやり遂げよう。悩んでいる暇もなかった。
「まかせて!」
ぼくが返事をする前に正架さんが駆け出した。気づけば正架さんに腕を引っ張られる形で走り出していた。行動が数倍早い。
そのまま東側の廊下へ。長い廊下がこのときばかりは憎らしくもなり、走ること数百メートル。廊下を回って、東側の客室のドアをふたつ過ぎた真ん中あたりで、設置されていた消火器をひとつ正架さんが抱える。
息も切れてくるけど、休んでもいられない。そのままもうひとつ途中で消火器を見つけてぼくが抱えた。若干重い。
「つべこべ言ってられないよ! 走るよ!」
ただ正架さんは頼もしく、急かされるようにしてそのまま北側を目指して廊下を走る。
中庭を見渡せるガラス張りの窓を打ち続ける雨音に、逸る気持ちも最高潮。この雨、この湿気ではそう火の手も広がらないだろうと考えつつも、北側を回って、ちょうど視界の奥、西側の廊下へと曲がる角のあたりの一室から煙が出ているのが見えた。「はぁ、はぁ……」と息は切れていたものの、気にもならない。
ビービーと騒がしい電子音が辺りには鳴り響いていた。火災報知器、多分、煙に反応するタイプのものだろう。煙の上がる部屋の前には、既に消火器を手にした猫魔さんと第一発見者で内線をかけた琴鳴さん。それに野次馬のように集まったのだろう、喜木先と剣野義さんの姿もあった。今まさに火災現場をたしかめているといった感じだ。
「ここが倉庫です!」
ぼくらにも聞こえるように言った猫魔さんは、手にした消火器を琴鳴さんへと預ける。
半開きになっていたドアは押しても開かなかったらしく、彼女はそのまま鼻と口を袖で押さえながら蹴り飛ばした。揺れた濃紺色のロングスカート、なにか護身術のようなものをたしなんでいたのではと思う見事な蹴りで一撃。ドアが倒れた先、部屋の中では
薄暗い埃っぽい部屋の中、開けっ放しになっていた窓からは雨と風が吹き込んで、ごぉごぉと寒気を伴い空気を震わせている。窓際の机の上に倒れた燭台。そこから伝って燃えているのは風に揺られたカーテンだった。炎は燃え広がる素振りを見せてはいたが、周辺に燃え移りはじめたところ。発見が早かったためだろう、大事には至っていない。
「消火をお願いします!」
叫んだ猫魔さんに頷いて、ぼくと正架さん、琴鳴さんはそれぞれに消火器の栓を抜いた。消火器を使用した記憶は当然なかったけれど、正架さんの見様見真似で中の薬剤を噴射した。火はたちまちに消えていく。幸いというか、外の雨脚にも助けられたのだろう。火の手は燃え広がる前に一瞬のうちに鎮火した。
見たところ、どうもこの倉庫には電気が通っていないらしい。火が消えて廊下の灯りだけが倉庫の中に差し込む。
「はぁー」と大きく息を吐いた猫魔さんは肩を下して頷いた。
「よかったです……怪我人などもでなくて」
「危ないところだったね……」
額から流れる汗を拭った正架さんも、落ち着きを取り戻したように消火器を床に下ろして息をつく。
「わたしが早く見つけたからよかったものの……」
そう言っていたのは琴鳴さんだ。消火器を置いて手を上げた彼女は部屋から一歩出た。ぼくと正架さん、それに猫魔さんも続いて部屋を出る。野次馬として顔をのぞかせていた喜木先と剣野義さんは口を閉じて、そんなぼくらを見守っていた。
「……どうやら火を消し忘れてしまったようです」
消し忘れた蝋燭と開けっ放しになった窓、燭台が吹き込んだ嵐に触発されて倒れた。その炎がカーテンに燃え移ったことが原因だろう。
猫魔さんは琴鳴さんへと申し訳なさそうに頭を下げた。続けてぼくらに向かっても頭を下げる。
「すみません、お騒がせしました」
「安心させてもらいたいものだ」
そう嫌らしく笑ったのは喜木先だった。なにごともないと見るや背を向けて東側廊下のほうへと歩いて行った。なにか手伝うわけでもなかったのに言うだけ言って、ぼくとしてはむず痒くもなる。
「なにごともなくてよかった」
安心したようにひと言こぼした剣野義さんも廊下を歩いて行き、ぼくらの隣の部屋へと入って行った。
剣野義さんの言う通りだ。弾ける雨粒の向こうにある夢占いの館を見つめて、改めてそう思った。
最初に内線を取った猫魔さんの声を聞いたときにはどうなることかと思いもしたけれど、避難の必要があるわけでもなくてよかった。なにせ、今は夢占いの途中。眠っている凍と御石さんがあの部屋にいる。
「まっ、そうね。じゃあわたしも部屋に戻るから」
そう言って手を上げた琴鳴さんは、ちょうど目の前の西側角の部屋へと近づくと鍵を開けた。そうか。目の前の部屋だったからこそ、小火に一早く気づいたというわけか。
と考えていたところで。
「にゃーん」
琴鳴さんがドアを開けると、キャラメル色の毛並みをするネコが部屋から顔を出した。まず「あっ」と声を上げたのは猫魔さん。同時に「あっ」と声を上げて避けたのは琴鳴さん。その隙にも部屋から飛び出したネコは、一目散に廊下を駆けて去って行った。
「あれって……」
思わず声に出てしまったけれど、猫魔さんが飼っているというネコだろう。ロビーで見かけたときと同じ毛色をしたネコだった。
「まーちゃんがそんなところに」
「紛れていたみたいね……わたしの部屋に」
ふたりは呆然と走り去ったネコの影を追っていた。人見知りだというネコだ。ぼくらが集まっているところを見て、脱兎のごとく逃げ出したのだろう。
そんな調子で「ふっ」と笑った琴鳴さんは、部屋へと戻って行った。猫魔さんといえば肩を落としてはいたけれど、今はそれどころでもないと切り替えたのだろう。
「ここは後で片付けなければなりませんね……建付けが悪くなっていたドアだったもので、お恥ずかしながら蹴り破りました」
倒れたドアに暗い部屋を見つめていた猫魔さんが照れたように笑う。それはもう見事なものではあったけれど、被害が大きくなくてよかった。
「ささっ、おふたりにもお礼をしなければ。お騒がせしちゃったので、改めてお茶をお運びしますね。ロビー広間でお待ちください」
「お気遣いなく!」と声を上げた正架さんに腕を引かれて、ぼくも自然と足並みを合わせて歩き出す。
「なにごともなくてよかったよ。いいことすると気分もいいね」
それは正架さんの本心だったのだろう。ぼくも「はい」と頷いて、なにごともなかったことに安心した。ただやはり、外を打ち続ける雨音にはどこか胸がざわついていた。
◇◇◇
ぼくと正架さん、お茶を持ってきてくれた猫魔さん。先ほどのお礼にとお茶菓子までつけてくれて、正架さんが話を振る形で、ふたりはとんとんと話をしている。ぼくはといえば、居心地がいいとも言えないけれど、和やかに話しているふたりを眺めていれば気も紛れるものだった。
十七歳、ぼくと同い年には見えない猫魔さんは、この館を経営していることが誇らしいと語っていた。夢目沢は猫魔さんの親戚であるそうで、両親を亡くしてからは保護者として面倒を見てくれているとのこと。猫魔さんはここでペンションを経営していた両親の意志を継いで、今日も今日とてサービス精神旺盛に勤しんでいるとのことだった。
ちょうどいいからと夢目沢の提案で占いの館をはじめたら大盛況になった。この場所が夢占いの館として大きくなったのは、そういう経緯があったらしい。そこにある覚悟も見えて、大人びた笑顔を浮かべる猫魔さんの存在が大きく見えた。
そんなこんなで話をしていると、あっという間に時間は過ぎるものだった。
時刻は二十二時四十五分。どのようにして夢占いなんてものが行われているのかは、猫魔さんに聞くこともできずにわからないままだったけれど、そろそろ夢も佳境に入ったところだろうか。そのようにのんきに考える余裕も出てきたところだ。
ただ、そう言っていられたのもそのときまでだった。このロビーには大きな置時計がある。だから時間のことは常に頭の中にあったと言ってもいい。ぼくはこの時間を強くはっきりと刻んで覚えていた。
ふらふらと、夢占いの館へと続く連絡通路から人影が揺れて出てきた。このロビーにいて、その通路の出入りを見逃せるはずもなく、まずハッとするような顔をしたのは猫魔さんだった。
「蒼起……やられた……」
続けて呟いた彼女の声にぼくは思わず立ち上がる。部屋からたったひとりで出てきたのは凍だ。無事に帰ってきた、そう思いたかった。ただ、異常はひと目で明らかだ。だって彼女は、いつも目を覆い隠すように巻いている白い包帯をしていなかったから。
顔の左半分を抑えるように左手で覆って、涙を流す右眼からは紅い光が漏れ出ていた。頭痛をこらえるように頭を押さえて、ふらふらと歩く彼女の右腕は力が抜けたようにだらりと垂れ下がる。その先、その右手には、赤黒く染まる刃がちらつく飾りナイフが握られていた。
異様だった。異常だった。その身に纏った雰囲気も含めて、なにもかもが。
「い……いて、つき?」
戸惑う。混乱する。頭の中が真っ白になる。
「蒼起、どうしよう……」
凍は手に持ったままにしていたナイフを眼前に上げて、紅い瞳で見つめるようにしてから続けた。
「志摩ちゃんが……夢占い師が……」
ただごとではないと悟ったのだろう。呆然と立ち尽くしたぼくは動けなかったけれど、正架さんも猫魔さんも既に動いていた。
「死んでる……夢占いの部屋の中で」
凍の手から血に染まったナイフがこぼれ、かさっと赤い絨毯の上で跳ねた。その音を合図にしてぼくは我に返る。
ふらつき倒れそうになった凍のことを支えてくれたのは正架さんだった。血に染まる凍の手を掴んで、声も上げずに泣いている凍を抱きかかえてくれる。本来ならばぼくがそうするべきであったのに、ぼくは動くことができなかった。
一体なにが起こったのか――?
そんなものは彼女が語った通り、そこに偽りなどあるはずもなく。
ただ信じられなくて、信じたくなくて。
ぼくは膝から崩れるようにして手をついた。頭の奥のほうがズーンと、いつか経験した痛みを伴って疼きだす。夢であればよかったのに。そんなふうに現実逃避の思考までしてしまう。ただそれは紛れもなく、今まさに目の前で起こっていることだ。人が死に、誰かが殺した。夢でもなんでもない現実だった。
呑み込まなければならない、目の前にある現実を。
そうして顔を上げると、次第に頭痛は治まった。凍はその眼でぼくを見つめていた。その瞳からは溢れんばかりの涙が流れていて、縋るように紅い瞳を輝かせている。
凍は先ほど言っていた――『やられた』、と。
――ナイフを手にした凍の手が血に染まっていようとも、彼女が人を殺すはずがない。
これが見たくもない悪夢であろうとそれだけは信じられる。
だからぼくは向き合わなければならなかった。
誰かが殺したんだ――その罪を凍に擦りつけて。
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