歪んだ盤上で復讐は果たされし ――1――

 ザーザーと窓を打ちつける雨音が、まるで逸る気持ちを焦らしているかのように騒ぎ立てる。

 夢占いに天気は関係ない。館より外に出る予定もないような時間だったから特に問題はなかったのだけれど、妙に気持ちが揺さぶられる。嫌な予感といえばよいのだろうか。それはただ、彼女の手を離さなければいけないという不安であったのかもしれないけれど。


 ぼくらにはもったいないような豪華なディナーをごちそうになって、少しばかり休憩をしたところで時刻は二十一時を回る。凍と御石さんの夢占いの時間が迫ってきた。

 きゅっと包帯を巻きなおした凍に、その手を取った御石さんが横に並ぶ。ぼくはそんなふたりに付き添って部屋を後にし、ロビーへ。部屋の鍵はぼくが預かっている。


「緊張してないか?」


 手を取っていない分いつもみたいにはわからなくて、表情からもうかがえない不安に、ぼくのほうが緊張している始末。そう聞いてみたところで、凍は振り返って笑う。


「大丈夫だよ。蒼起こそ、ひとりで大丈夫?」


 心配はかけないと決めていたはずなのに。

 声色から感じ取られたそんな感情も見透かされている。


「……まあ、大丈夫」


 思わず苦笑い。御石さんもそんなぼくと凍を見て微笑んだ。口にはしなかったけれど、「わたしがついているから大丈夫」だと、そんなふうに言ってくれたような気がした。


 ばかでかいシャンデリアの吊り下がるロビーは、昼間とはまた違った空気に包まれていた。カチッカチッと時を刻む大きな置時計の針の音。時折吹いたごぉごぉという風に、降り続ける雨音が混じる。窓が多いためだろうか。少し肌寒くも感じた。

 食堂の扉はしっかりと閉められていて、窓から差し込む光もなくなって。何度か足は運んでいるというのに来るたびに表情を変える場所だ。がら空きとなったソファーには誰の姿も見えない。受付カウンターのところでは猫魔さんがただひとりで、ペンを片手になにかを綴っている。こんな時間まで仕事続きとは、お疲れ様とひと言かけてあげたらよかったか。

 ただ、ぼくらに気づいた猫魔さんは顔を上げて、スカートを翻して優雅に歩み寄ってきた。


「時間通りですね。こちらに」


 そうして案内されるままに、ロビーにあるソファーへと座り込む。


「準備をしてまいりますね」


 一礼してガラス張りの連絡通路のほうへと向かって行く猫魔さんの背を見送った。御石さんも落ち着かなかったのか立ち上がってそこらを歩き出した。


「本当に、大丈夫か?」


 横に座った凍の手をそっと握って聞いてやる。


「うん、たしかめなきゃ」


 しっかりと頷く凍に、ぼくはなんともこたえられなかった。ぎゅっと握り返してくるその力強さに、彼女がかつて語った言葉がぼくの胸を締めつけるように絡みつく。


『魔眼を追っているの。そこにある真実を見届けるために』


 夢占いと女性にしか開眼しないはずの魔眼。

『忌み嫌われて、歪んだモノ』と語ったのは、その被害を受けた女の子の言葉だったけれど、強い力は世界を歪ませる。彼女はそう言いたかったのだろう。

 ならば、この館にも歪んでしまった真実があるのだろうか。凍はそれに気づいていて、話を受けた時点でわかっていたからこそ、覚悟を決めているのだろうか。

 そこにある真実を見届けると決めた覚悟、ぼくはそれを受け止めてやれたのだろうか。


 ふっと離された手に、ぼくの視線も泳いだ。

 立ち上がった凍の横に並んだ御石さんが、そんなぼくを見て笑いかけてくる。思考から戻って横を見れば、猫魔さんがぺこりと一礼したところだ。


「じゃあ、行ってくるね」


 そう言って微笑んだ凍に、ぼくはどんな表情をしてこたえたのだろうか。他人事のままに流れた時間の中で、ぼくは一体どんな顔をして彼女に「いってらっしゃい」と言えたのだろう。


 遠ざかる三人の背中を見つめて、そして温もりを失ったてのひらを眺めた。手を離して空っぽになってしまったような錯覚に、遠ざかる凍の背中ではやはり白い包帯が揺れていた。

 ぼくは不安や心配で胸が張り裂けそうにもなったのだろうけれど、ただどこか、すんなりと呑み込んで立ち上がる。

 ごぉーっと吹いた風が館全体を揺るがすように轟いて、雨音が騒がしく胸を打ちつけた。


◇◇◇


 正面玄関の両開きの扉を体で押すようにして開けたところで、風の音も雨音も激しくなった。バケツをひっくり返したような、と例えればいいのか。打ちつけられて跳ね上がる雨粒が腰の辺りまで飛ぶほどで、慌てて扉を閉めて館の中へと戻った。少しの間そうやって外気に触れただけで、体が震え上がるほどに冷えてしまった。もう六月とはいえ、場所は山の上。よくよく考えてみれば、館内はどうやら暖房が入っているらしい。

 くしゃみが出かかり我慢したところで、そんなぼくを見て笑った人がいた。


「どうしたの? 蒼起くん」


 昼間と同じグレーのシャツに白いスラックス姿、カーディガンを肩からかけた正架さんが、いつの間にかロビーにきていたらしい。「寒いね」と微笑んで体を抱えて震わせるようにして、ひとりでいたぼくに声をかけてくれた。


「はい、すごい雨で……」


 外には出られないほどだろう。傘を差したところでずぶ濡れになりそうだ。


「心細い?」


 柔らかく微笑む正架さんはぼくの顔を覗き込んでそう言った。その目がどうとか関係なく、ぼくが酷い顔をしていたのだろうことはどこか他人事のようにしてわかる。


「えぇ、まあ……」


 いつも横にいる凍が今はいない。足桐医院にいるときは、彼女の安全は保障されているようなもの。今は御石さんがついていてくれているとはいえ、それでもやはり心配だ。


「御石さんが一緒なんだよね?」

「はい、スケジュールそういうふうに調整してくれたみたいで」

「……看護師さんでしょ。まあ、猫魔さんも凍ちゃんの目のことは見たらわかるもんね」


 魔眼どうこうではなく、目が見えないという点に関してのことだろう。


「御石さんが一緒なら大丈夫だと思うけど」


 それはどこか自信があるような言い方だった。なにか妙に引っかかる。御石さんがついているなら大丈夫だと、信用に値するなにかがあるような言い方に。

 ただぼくは聞き返すこともできず、「そうですね……」と頷いた。


「じゃあ蒼起くんにはわたしがついていてあげよう」


 腰に手を当てて笑う正架さんに、ぼくは「あはは」と愛想笑いでこたえることしかできなかった。


 ぼくの面倒を見ることまで八重霧に頼まれたとは思えないけれど、本当に言葉通りに正架さんは横についていてくれた。ぼくの腕を引きロビーにあるソファーへと引っ張って、そのまま座って彼女も横に座る。一体これはどういう状況なんだ、とただ黙っていれば、正架さんは天井を見上げてなにかを考えている様子だった。

 されるがままのぼくではあったけど、互いに言葉も交わさない。

 ロビーにある置時計へと目を向ければ針が二十一時四十五分を指したタイミングで、夢占いの部屋へと続く通路のほうから猫魔さんが姿を現した。エプロンの前で手を組んで、「ふぅ」とひと息ついて目を伏せた彼女は、ロビーのソファーに座るぼくと正架さんへと目を向けると笑顔を咲かせる。


「あら、こちらで待っていたんですか?」


 猫魔さんに気づくなり立ち上がった正架さんが、それにこたえる。


「えぇ、蒼起くんがどうにも心配なようで」


 ちょっと恥ずかしくもなるから、そういう言い方はしないでほしかったのだけれど。


「あはは、大丈夫ですよ。ちょうど今さっきおふたりとも眠ったようでしたので」


 夢占いの準備を終えて、だから彼女は部屋を出てきたということだろう。

「そうですか」とこたえたところで、そう簡単にふたりとも眠ったのだろうか、と疑問には思った。


「なにかお飲み物を運んできましょうか」


 ただ、そう言って笑った猫魔さんに聞くことはできなかった。


「あ、じゃあわたしはオレンジジュース!」


 遠慮もなく言う正架さんに、猫魔さんは「はい」と手を打つ。そのふたりの視線が座ったままでいるぼくへと突き刺さり、仕方なく同調するように口を開く。


「……ぼくもそれで」

「はい、かしこまりました」


 猫魔さんは笑顔で頷くと、そそくさと食堂のほうへと歩いて行った。なんだか流されるままに、決定権のないままに、正架さんに身を任せるような形で物事が進んでいるけれど、それはそれで気が紛れていることにも気がついた。


 しばらくして、猫魔さんが大きなサービスワゴンを押してロビーへと戻ってきた。その上に乗せられているのは、縦長のガラスコップがふたつにティーカップがひとつ。案内されるようにソファーから立ち上がり、受付カウンターの横に置かれている丸机の方へと移動する。姿勢の正される椅子に腰をかけなおしたところで、猫魔さんはぼくらの前にコースターとオレンジジュースの注がれた透明なガラスコップを並べてくれた。ぼくと正架さんの向かいに猫魔さんも腰かけて、丸机を三人で囲むような形で顔を見合わせることになった。


「ディナー、とても素敵でした」


 ストローをコップに差したところで、正架さんは笑顔で言った。


「えぇ! 剣野義様のおかげもあって、今夜は皆様に楽しんでいただけたようでなによりです」


 茶葉の香りが漂うティーカップを片手に、猫魔さんも笑顔を浮かべている。


「おいしかったです」とぼくもお礼を言って――。

 しばらくそんな感じで、ぼくらは談笑を続けた。

 ふたりが話している声を聞いていれば、気が紛れたのは事実。心配や不安に押し潰されそうになっていただけのぼくにとっては、なんとも優しい時間だった。

 だけれど状況は、そんなふうにしていることを許してはくれなかったらしい。

 逸る雨脚に、ロビーに轟いたのは『プルルルルル』とけたましく鳴った内線コールの音だった。


「あら、失礼して」


 ガラスコップの中でとけはじめた氷がからりと回る。時刻は二十二時をちょうど指したところ。続いて置時計の鐘の音が、ごーんごーんとロビーに響き渡った。

 足早に駆けた猫魔さんが、受付カウンターに備えつけられていた内線を手に取る。


「はい。こちらロビーです。琴鳴様。どうなさいましたか?」


 ぼくと正架さんはなにごとだろうかと身構えてその様子をうかがった。こんな時間の内線、まあ用事があるにしても不思議ではないだろうが、突然響いたその音にどこか胸がざわついた。正架さんにしてもそれは同じだったのだろう。刑事という立場からか、緊張したような面持ちで猫魔さんの一挙一動を見守っている。


「え? 琴鳴様もう一度お願いします」と困惑したような声を上げた猫魔さんに、ぼくと正架さんは顔を見合わせた。


「火……? 火事ですって?」

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