夢占いの館にて ――2――

 夢は見なかった。

 ぎゅっと右手を握られた感触に、自然と目を開けると車は停まっていた。


「蒼起、ついたよ」


 そう呼んでくれた横にいる彼女の声で目が覚める。顔をこちらに向けて柔らかく笑みを浮かべる口元に、どきりと一瞬、鼓動が跳ねた。眠っていたおかげで車酔いの不快感もなくなったようで、すっきりとした気持ちではあった。けれども、寝起きに凍の笑顔は刺激が強いってものだ。


「……あ、ありがとう。凍」


 寝ぼけているわけでもなかったけれど、靄がかかったように思考はまとまらず、慌てて繋いだ手を振りほどいてしまった。「あっ」と声を漏らした凍は寂しそうに左手を上げたけれど、同時に、その後ろで後部座席のドアが開けられた。


「いい天気にいい空気!」


 笑顔を浮かべる御石さんが凍にそう声をかけて、ぼくらよりその空気を一番に楽しんでいそうだった。


「あ、蒼起くんも起きた? ついたよー」


 車内にあるカーナビを確認すれば、時刻は十時半を過ぎたところ。どうやら予定通りの時間で目的地に到着したらしい。「んっ」と軽く腕を伸ばして、ドアを開けて外へと出る。太陽はすっかり空へと上がっており、その眩しさに目を閉じて体を伸ばした。しゃっきりと目が覚めるような気分だ。ようやく頭も回ってきた。

 御石さんはエンジンを止めるために改めて運転席へと座っていた。


「すみません、寝てしまって」


 御石さんが車から降りてきたところで、少しばかり恥ずかしさも感じながらそう言っておいた。


「いいのよ、安心できる運転ができたってことで」


 ガッツポーズに片目をぱっちりと閉じて視線を飛ばす彼女の明るい空気に、自然と笑みもこぼれてしまう。ただまあ、見惚れている暇もなく、ぼくは車を大きく回ると凍の座席のドアの前へと寄った。ドアは開いている。座ったままの凍は、ぼくを待つようにして右手を出してくる。その手を取ってやると、凍も車を降りた。


「ほんと、いい空気!」


 空いた手を伸ばし、大自然を堪能するかのようにして、見えてもいないのに見渡すように首を振る。

 大自然ではある。山の中腹にある駐車場、見える景色は木々と山だけ。ただ特段、普段生活している足桐医院の立地とそう変わってもいないような気はする。あそこも相当な山の中にあるのだし。


「はしゃぎすぎるなよ」

「もう、わかってないなぁ」


 そんなぼくの退屈そうな思考も読み取られていたのか、凍は冗談交じりに頬を膨らませたようにして顔を合わせてくる。まあ、凍には本当に空気感というやつがわかっているのかもしれない。目が見えないだけに、その他のに敏感だ。


 そうこうしているうちに、御石さんがトランクを開けてキャリーケースをふたつ取り出した。小さいものと中くらいのもの。ひとつはぼくのもので、もうひとつが凍と御石さんの荷物を詰めたものだ。別になにもないぼくには大した荷物など必要なかったのだけれど、せっかくなら雰囲気のために、と笹良が持たせてくれたものだ。簡単な洗面道具と着替えくらいしか詰まっていないので、見た目に反してすっからかんではあるのだけれど。


「自分の分は自分で持ってね」


 御石さんが笑顔でそう言いながら、小さいほうのキャリーケースを目の前に引いて置いてくれた。


「ありがとうございます」


 どうせなら「そちらも持ちましょうか」くらい言えればよかったのかもしれないけれど、あいにくぼくの片手は凍の手で塞がっている。かっこつけるつもりなんてなかったけれど、ぼくが持てるものにも限りはある。

 ところで、と考えて。もう一度辺りを見渡した。


「どうしたの? 蒼起」


 そんなぼくの動きを横で感じ取ったのだろう。凍は不思議そうに首を傾げている。


「いや……」


 御石さんが車を停めて荷物を下ろしたのだから、やはり到着したってことでいいんだよな? と疑問に思いながら……しかし雑誌で見た、目立つような赤い屋根の洋館の姿が辺りにはなかった。言うなれば、山の中腹に現れた開けた駐車場。よくよく見渡してみれば、他に四台の車が停まっている。こんな僻地ともなればアクセスの手段が限られる。だから他の客か従業員のものであるのだろう。

 他に目につくのは、緑色の屋根をした小屋くらいか。


「夢占いの館は?」


 ひっそりとしたログハウス。あれがそうだとか言わないよな? 見たところ、寝泊まりするのもふたりが限界だろうくらいの大きさしかない。ひょっとして、そこからもう騙されてしまっていたのだろうか。夢占いなんて話は胡散臭い話ではあったけれど、前程からもう間違っていたとか。


「ふふふ、まだついてないみたい」


 御石さんはスマートフォン片手におかしそうに笑っていた。


「一応笹良先生にはついたって連絡入れておくね」


 それはそれでありがたい。連絡くらいはしっかりしておかないと、いらぬ心配をかけそうだ。ぼくと凍は連絡する手段を持っていない。

 いやしかし、ともう一度ログハウスへと目を向けて、ちょっとした違和感にも気づいた。どうやらまだ寝ぼけていたらしい。ログハウスの裏手からスロープ状の半円の屋根が、木々の中へと続いているのが見えた。高い位置に葉がつく木々が立ち並んでいるからぱっと見では気づくこともなかったらしい。長い通路のような印象を受け、その先、山の中には薄っすらとだが赤い屋根が見えていた。

 まだ山を登る必要があるってことか。どうやらログハウスがその入り口らしい。


「館は山の上か……」

「そうみたい」


 呟くと御石さんがこたえてくれた。ただ、凍を連れて登山するなんてことは避けたいと思ったものの、御石さんは「心配いらないようよ」と笑っている。


「凍ちゃん、手、繋ごうか」

「志摩ちゃん、ありがとう」


 凍の右手はぼくが握っている。そうして、御石さんが凍の左手を取ると、なんだか三人仲よしみたいな雰囲気で横に並ぶことになった。誰かに見られることになれば、恥ずかしいなと思った。車は四台止まっているが、どうも人の気配もない。だからそれもまあいいか、なんて考えて、自然と歩き出した御石さんと凍につられて、ぼくも軽いキャリーケースを引いて歩くことになった。

 まあ、ぼくに凍のような超感覚があるわけではなく、その気配の読み方はどうやら間違っていたのだけれど。


 ログハウスへ近づいたところで、繋いでいる凍の手がぴくりと震えた。同時に木製のドアが開く。木でできているように見えて自動ドアだったなんてわけではなく、ただ単に向こう側から開けた人がいたというだけの話だ。だから、ぼくはその恥ずかしいところを見られる羽目になった。


「あら、これはまた仲がよさそうなことで」


 ぼくらをひと目見た女性はそう言って笑う。嫌味を言われたように聞こえたかもしれないけれど、別に嫌な気分になったわけでもない。初対面だというのに、その言葉には不思議とそういう印象はなく、どうも心が温かくなるような空気があった。


 黒に近いブラウンのふんわりとしたセミロング。初対面で女性の年齢を当てるなんて失礼なこともできないけれど、見た感じぼくや凍と同い年くらいに見える。柔らかそうな頬に曇りない瞳があどけない印象もあり、ただその奥では芯が通ったようなすっとした光も見える。グレーのシャツに白いスラックス。膝下ぐらいの丈のある明るい色のカーディガン、ポシェットを肩からかけて、なんだかひとりで楽しそうに、微笑ましそうにしている。


 しかし、違和感があった。凍は誰から見てもわかる形で顔に白い包帯を巻いている。それは目の位置、目の合う高さ。顔を合わせれば必ず目に入る。だから初対面の人が凍に会ったとき、だいたいなにかしらの動揺がうかがえるものだ。

 しかし、女性はそれすらも目に入っていないかのように、気にしないように笑っていた。


「あなたも、宿泊者さんですか?」


 御石さんが聞くと女性は笑うことをやめた。「あ、失礼」と手を上げて、空いた手でポシェットを漁りはじめる。


「そうそう、わたしもあなたたちと同じ。頼まれちゃっててね」


 まだ館にもついていないところでの立ち話。「こんなところでなんですが……」と続けたのは女性のほうだった。

 彼女がポシェットから取り出したのは、薄い黒い手帳。それを開いて見せるようにして、ぼくらの前に突き出した。

 警視庁の記章が刻まれている。紺色の制服を着て敬礼を決める女性の写真が納められており、それは間違いなく目の前にいる彼女自身だ。

 警部補、白輝しらてる 正架せいか

 それが彼女の名であった。同い年くらいかとも思ったけれど、その印象も間違っていたらしい。ぼくの感覚はどうも凍のそれみたいには信用できない。


「頼まれたってことは」

「そうだよ、八重霧警部に」


 知っている名前が出てきて安心するように息をついてしまった。それがおかしかったのか、白輝さんはまた笑顔を浮かべる。


「聞いてた通りだなー。足桐 蒼起くんに、凍ちゃん。それと……」


 と白輝さんが視線を御石さんに向けると、御石さんはキャスターを引いた手を放し、胸の前に当ててから軽く礼をした。


「御石 志摩です」

「御石……御石 志摩さん。本日はよろしくお願いします」


 柔らかい印象から変わって、ピシッと背筋を伸ばした白輝さんが礼を返す。御石さんは「珍しい名前で憶えづらいかもしれないけれど」と言って笑っていたが、白輝さんも「いえいえ」と笑顔でこたえてくれる。

 とまあ、和やかな雰囲気で、八重霧の言っていた部下のひとりとは出くわすことができたのだけれど、ちょっとばかり聞き捨てならないところがあった。


「聞いてた通りって?」


 少なくとも白輝さんはぼくより年上であっただろうが、どうも相手が八重霧の知り合いとわかった時点で緊張が解けてしまった。


「あっはっは、気にしないでいいよ。わたしはまだ新米も新米。同級生くらいの距離感でいてくれたら嬉しい」


 白輝さんは豪快に笑っている。慣れ親しみすい雰囲気には、すっかり緊張が打ち砕かれる。優しい笑顔を浮かべる彼女は、ぼくの表情をうかがってくれているようだ。白輝さんの持っている空気感がそうさせているのだろう。ただ、そうだったとしても、凍を横にして、これから向かう場所を考えるのならば警戒心は解くべきではない。


「八重霧警部はよく言ってたんだよ。面白いふたりがいるって」


『面白いふたり』って言われようもどうかと思ったけれど、八重霧は一体ぼくらのことをどう見ているのだろう。あの作り笑顔の裏側でなにを考えているのかなんてことは、ぼくにはわからない。

 ただ、凍のことを嘘発見器かそんなように思っている節もある気はする。


「面白いって……」


 どうやら凍もその言われようは不服らしくて、ボソッとため息混じりに言葉をこぼす。


「まあ、時間はあるし、わたしもゆっくりふたりのことを知りたいかな?」


 思わせぶりのようなセリフを口にして、白輝さんはドアを開けたままぼくらを招くように腕を広げた。


「ようこそ。ここから先が、夢占いの館だよ」


 まるで客人をもてなす側に回ったかのように彼女は言うけれど、白輝さんもの客だよな?

 ただここで立ち話をいつまでも続けているわけにもいかないだろう。御石さんが先陣を切ってログハウスへと足を踏み入れた。ぼくも凍の手とキャリーケースを引いて後に続く。


 ログハウスの中は灯りが少なく、外の光も遮断されているためだろう、暗かった。

「わあ」と声を上げたのは御石さん。白輝さんはそれに対しても得意気に笑ってこたえる。


「驚くよねー、圧巻だよねー」


 人里離れた山奥と言えど、電波があれば電気も通っているらしい。半円状のスロープの中には長いエスカレーターが山の中腹へと続いていた。それに夜空を思わせるものだろう。暗い天井には星が散りばめられるようにして、キラキラとする模様が刻まれている。星座を表しているのだろうか。明るい外から変わって、暗い夜空へ。一瞬で夜の世界に迷い込んだような印象を受けた。


 これならばたしかに、凍を連れて登山するなんて心配もいらなさそうだ。エスカレーターの足元は、ちゃんとライトで明るく照らされていて危険性は少なくされている。御石さんが先頭を行き、その後ろで緩やかに流れる板の上に、注意を払いながら凍を乗せる。ひとり用の幅しかないので仕方ないけれど、このときばかりは手を離す。


「気をつけろよ、長いエスカレーターだ」


 駆動音が響いているからわかっているのだろうけれど、凍は「うん」と静かに頷いて見せた。

 凍を前に乗せて、ぼくがその次の板へと乗ると、最後尾に白輝さんが乗る形となった。


「話に聞いてた通りだよ」


 首を傾げながら振り返ると、小声でそう言った白輝さんはにこにこと笑っていた。その笑顔の意味がわからなくて、ただ、どうにもどぎまぎとした気持ちを覚えて、照れ隠しにぼくは慌てて凍のほうへと向きなおる。暗くて表情がよく見えなかったことが救いだっただろうか。


 夢の中を思わせる暗いトンネル。長く続く全自動のエスカレーターはおよそ五分の時間をかけて、ぼくらを夢占いの館へと届けてくれた。

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